2022/03/20 岡崎城から鳳来寺山へ奥三河東照宮めぐり(岡崎城跡、伊賀八幡宮、大樹寺、滝山東照宮、松平東照宮、鳳来山東照宮、食事処かさすぎ)
岡崎城跡から奥三河ワインディングをたどり鳳来寺山へ、徳川家康が生誕し東照宮に祀られるまでの様々なエピソードとともに、家康ゆかりの神社仏閣を巡るツーリングに走り出すことにした。 春分を翌日に控えたこの日、随分と暖かくなった奥三河の峠道を訪れ、ツーリングシーズン前の足慣らしになるだろう。 冬場に世話になった防寒ウエアを仕舞い込み、薄手のインナーにレザージャケットを羽織っての走り出しである。
旅の始まり岡崎市街では、家康が戦国大名として名乗りをあげるまでの足跡をたどることにした。 ご存知の通り、岡崎城は徳川家康の生誕地であり、今川義元の人質暮らしから独立して三河統一に乗り出した場所である。 岡崎城址に併設された”三河武士の館家康館”では、家康の天下統一を支えた三河武士達との出会いや、その足跡をたどることが出来るだろう。 さらに、松平家から徳川家に続く祈願所で、後に家康も合祀された伊賀八幡宮、そして桶狭間の戦いから敗走した家康が「厭離穢土欣求浄土」を志した大樹寺を訪れた。
その後岡崎市街を抜けて奥三河の峠道に駆け上がると、家康生誕地最寄りの古刹滝山寺に創建された滝山東照宮、松平郷の松平家氏神に家康が合祀された松平東照宮、さらに於代の方が鳳来寺に祈願し家康を懐妊した由縁で創建された、鳳来山東照宮を訪れ旅を終えることにした。
今更ではあるが、東照宮は東照大権現として神格化された家康を祀る神社である。 1616年の家康の死後、遺体を祀る久能山東照宮と本宮の日光東照宮が創建されてから、三代将軍徳川家光から諸大名への進言もあり各地に多くの東照宮が建立された。
その由縁には、後の将軍が家康の威信に肖りたい思惑や、幕府に対する諸大名の忖度なんぞが見え隠れするが、リーマン稼業も大詰めをむかえた還暦親父が、東照大権現の生き様にに触れ直して学ぶべきことも多いだろう。
伊賀八幡宮の随神門、桶狭間から敗走する家康を導いた神使の鹿
ルート概要
岡崎公園(岡崎城跡,三河武士の館)-市道(西康生通り)→康生通-県56→伊賀町(伊賀八幡宮)-県56→鴨田(大樹寺)-県335→滝団地北-県477→滝山寺,滝山東照宮-県477→見返橋-県477 →大柳簡易郵便局-県338→長沢町ちびっこ広場-県338→市道(滝脇小学校)→下三五田和-国301→根崎-県77-県363→東部こども園-国473→阿蔵簡易郵便局-国420→大輪橋-国257→田峯-県389(稲目トンネル)-県32→玖老勢-県32(お食事処かさすぎ)→県389-県524-鳳来寺山パークウエイ(鳳来山東照宮)-県524→湯谷温泉駐車場-国151→新東名高速道路新城IC
ツーリングレポート
名古屋市街から国道1号線を東へ走ると、今川義元が織田信長に討ち取られた桶狭間古戦場にさしかかった。 さらに、境川で尾張から三河への国境を越えて、旅の起点となる岡崎城址にむけて走り続ける。 現在はETCの普及に伴い高速道路を利用することが多くなったが、かつて名古屋から奥三河や遠江の峠を目指し頻繁に利用したルート。 当時のツーリングを思い出し懐かしくもあるが、気力体力が衰えた還暦バイク親父にとって、幹線国道の渋滞や信号待ちはやはり煩わしい。
1560年桶狭間の戦いに今川方として参戦した19才の家康が、今川義元の討死とともに大樹寺に敗走する様を妄想しながら、煩わしいStop&Go操作から気をそらしてみる...が効果なく、シフトダウンも可能なクイック・シフターへの物欲ばかりが膨らむ。 相棒のZX-6Rはシフトアップ機能を装備しているのだが、使い慣れてしまうとさらに楽をしたくなるのは人情。 日和ったのではない、速く走れるのだ、と開き直る昭和のマニュアル至上親父(笑)
その後偶然に、国道沿いにある第二交機に帰還途上なのだろうか、女性隊員らしき白バイ乗りに伴走いただくことになった。 かつて色々と世話になった第二交機、「色々と世話になった」というのは、「後方死角確認の大切さを教えてもらった」ということで深い意味は無い、もちろん高額授業料はお支払いしたが(笑)。 落ち武者狩りに怯えながら馬に乗る家康、交通機動隊に怯えながらカワサキに乗るバイク親父の絵面(爆)。
その後、無事に?第二交機をやり過ごして矢作川を渡ると、岡崎公園として整備された岡崎城址にたどりついた。 岡崎公園二輪駐車場(無料)には対向車線からしかアクセスできず、公園手前で右折し岡崎城址裏手の竹千代通りから折り返した方が良いかもしれない。 二輪駐輪場に相棒を停めて国道沿いを進むと、1993年に再建された大手門をくぐり岡崎城址を訪れた。
さて、5世紀半ば守護代西郷頼綱が築いた岡崎城は、1531年に城主となった家康の祖父、松平家7代目の清康によって整備され、1542年に跡を継いだ8代目広忠と於代の間に家康が生誕した城である。 江戸時代には、徳川四天王本田忠勝を輩出した本田家が歴代岡崎藩主を務め、明治維新後に廃城となって堀や曲輪の石垣などの遺構を残すのみとなった。 現在の岡崎城天守は、1959年に再建された鉄筋コンクリート造りの歴史資料館で、三層階建ての館内では岡崎城の歴史などが公開されている。
岡崎城の南側は乙川、西側は伊賀川と矢作川が天然の要害になっており、さらに深く切り立った石垣の内堀と複雑な曲輪から、守り堅固な城であったことをうかがい知れる。 実際に、二の丸側の虎口から天守を細長く囲む持仏堂曲輪に渡り、再建された模擬天守を見上げると、本丸から狙い撃ちされる様が目に浮かぶ。
持仏堂曲輪から1959年に再建された三層五階建天守を見上げる
バイク親父の戦国妄想が覚めぬよう、鉄筋コンクリート造りの模擬天守見学を思い止まり、併設された三河武士のやかた家康館を見学することにした。 入館料は大人360円也、JAF会員なら50円の割引が受けられる。
三河武士のやかた家康館では、家康が岡崎城で生誕して天下統一を果たすまでの足跡、家康を支え続けた三河武士との由縁などが解説されている。 とても全てを紹介しきれないので、家康が岡崎城で生誕してから三河統一を果たし、戦国大名として名乗りを挙げるまでの道のりにのみ触れておきたい。
尾張の織田氏と遠江の今川氏の狭間で、板挟みの戦いを強いられていた三河の松平氏。 8代当主の松平広忠は、今川義元の後ろ盾で三河を掌握して岡崎城に入り、その代償として嫡男の家康6歳が今川方の人質に取られることとなった。 しかし、駿府に向かう途上の家康は、織田信秀に連れ去られ尾張で2年の人質となり、その後さらに今川義元に奪い返され12年の人質生活を送ることになる。
そして19歳になった家康は、1560年の桶狭間の戦いに今川方として参戦し、今川義元が織田信長に討ち取られて人質暮らしを終え、戦国大名として名乗りをあげることになった。
家康の身の上に触れると、実家の水野氏が織田方に付いた母於代の方と二歳で生き別れ、さらに今川氏の人質となって間もなく父広忠は謀殺されている。 幼少期から後ろ盾も無く、敵方の人質暮らしの中で、状況を見極め忍耐強く立ち回る能力や、関ケ原の戦いを勝利に導いた調略の素養が培われたのかもしれぬ。
また、不自由な人質暮らしを共にし家康を支え、数々の戦いで身を呈して家康を守り続けた、酒井忠次、本多忠勝ら三河武士の存在がなければ天下統一は果たせなかったであろう。
親兄弟も殺し合う戦国時代ゆえに、苦楽を共にした家臣との強い信頼関係は、敵方の脅威になるだけでなく味方の求心力を得る要になったはずである。 桶狭間の戦い後、家臣を二分する戦いとなった三河一向一揆を平定した家康は、一揆側に着いた家臣たちの造反を不問にし、三河武士の結束を揺るぎないものにした。
織田信長と清須同盟を結んで三河統一を果たした家康は、その後今川義元亡き後の遠江へと勢力を拡大し、武田信玄、豊臣秀吉、そして石田三成らとの戦いを経て265年間続く江戸幕府を樹立する。 三河武士の館家康館では、ツーリングで古戦場を巡った、桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠設楽原の戦い、小牧長久手の戦い、そして関ケ原の戦いなどが、時系列的に分かりやすく解説されている。
三河武士のやかた家康館、徳川家康と三河武士の歴史が解説されている
岡崎城址を後にして岡崎市街を北へ移動すると、応仁の乱で戦国時代に突入して間もない頃、1470 年に松平家4代目親忠が創建した伊賀八幡宮に立ち寄った。 松平家の祈願所として伊賀国から移された伊賀八幡宮、家康も大きな戦いの前には戦勝祈願に訪れたと伝えられている。
1611年には征夷大将軍となった家康が本殿を建て替え、さらに3代将軍家光が本殿を増築して家康を合祀し、今日まで東照宮としても地元の信仰を集めている。 本殿をはじめ、隨神門、神橋など境内施設のほとんどが、国の重要文化財に指定されているが、神橋の池が蓮の花で覆われる夏場の参拝がお勧めである。
駐車場にZX-6Rを停めて境内に進むと、立て札に書かれた伊賀八幡宮の由緒が目に留まった。 家康の父広忠が織田信秀を迎え撃った折、八幡宮から黒雲が湧き雨のような白羽の矢が降り3万余の信秀軍は退却した。 家康が桶狭間の戦いから撤退した折、八幡宮の使いの鹿の案内で、無事に大樹寺に逃れることができた。 関ケ原の戦いや大坂の陣では、神殿が鳴動し鳥居が移動した...等々、伊賀八幡宮に纏わる超常現象?が紹介されている。
己の信心不足のせいか、長年のリーマン稼業で商売敵を貫く神矢は降らず、導いてくれる鹿が現れることも無かったが、むしろ自業自得を良しとしよう。 己が積み重ねたものや、熟考した決断に後悔は無いが、神様仏様他人様頼みになった瞬間に、うまく行かないことが恨みつらみとしてまとわりついてきそうである。
隨神門をくぐって拝殿に進むと、岡崎城址の展示で改めて知った家康の批判的思考力や、人材育成力、そして自己啓発意欲等々、今時のビジネスにも通用するスキルを参考に、今しばらくリーマン稼業を続けられるよう祈願して参拝を終えた。
松平家・徳川家の祈願所伊賀八幡宮、家康を祀る東照宮でもある
隨神門から拝殿本殿を覗く、境内のほとんどが国の重要文化財
伊賀八幡宮を後にするとさらに岡崎市街を北上し、伊賀八幡宮と同じく松平親忠が1467年に創建した大樹寺に立ち寄った。 この大樹寺は、松平家から徳川将軍家に続く菩提寺として知られており、家康の遺言により歴代将軍の位牌が安置されている。
そして大樹寺は、1560年桶狭間の戦いに今川軍として参戦した19才の家康が、織田軍から落ち延びた場所でもある。 住職登誉上人に「厭離穢土、欣求浄土」を説かれ自刃を思い止まり、寺僧らと共に寺を囲んだ雑兵を撃退したいきさつは有名である。 その教えは、戦乱の世を治めて平和な時代を成し遂げる大義として、徳川家康の旗印に掲げられることとなった。
その後、今川勢が駿河に退却した岡崎城に入った家康は、今川氏の人質暮らしと決別して家臣の再結集をはかり三河統一に乗り出したのは前述の通り。 そして、織田信長との同盟と”元康”から”家康”への改名を経て、1566年には念願の三河国の統一を果たし、朝廷から勅許された”徳川”を名乗ることとなった。
3代将軍家光が建立した山門から参道に振り返ると、総門(現在の大樹寺小学校の南門)越しに約3km先の岡崎城を望むことができる。 ビスタラインと呼ばれるその眺めは、伽藍を造営した家光が家康生誕の地を望めるように配置し、岡崎に暮らす人たちがその景色を遮らぬように配慮してきた結果である。 約370年以上続く歴史的な景観に、今につながる三河の底力を垣間見る。
家康が天下統一を志した大樹寺、3代将軍家光が建立した山門
山門から参道に振り返ると、総門越しに約3km先の岡崎城を望む
大樹寺山門を後にして、県道335を奥三河の山間へと駆け上がって行くと、青木川沿いの山肌に建つ滝山東照宮にたどり着いた。
1646年に3代将軍家光により創建された滝山東照宮は、1300年前に開山された古刹滝山寺の境内に創建され、いずれの施設も国の重要文化財に指定されている。 本宮である日光東照宮、御遺体を祀る久能山東照宮に、自社を加えて「日本三大東照宮」とする東照宮が多く、家康生誕地近くに建立された滝山東照宮もその一つ。
滝山東照宮は、明治の神仏分離によって滝山寺から独立したが、現在も同じ境内に隣り合わせで建っている。 滝山東照宮の鳥居前にZX-6Rを停め参道階段を上ると、滝山寺本堂の前を通りすぎて東照宮拝殿へと進んだ。 生憎の修復工事中らしく、足場と養生幕に覆われた本殿の拝観は叶わなかったが、極彩色の東照宮様式の拝殿からは、当時の徳川将軍家の隆盛ぶりが偲ばれる。
滝山寺境内に創建された滝山東照宮、鳥居をくぐり滝山寺境内へ
開山から1300年の滝山寺、本堂前を通り隣接する滝山東照宮拝殿へ
1646年に家光が創建した滝山東照宮、極彩色の東照宮様式を今に伝える拝殿
滝山東照宮の参拝を終えて走り出した県道335は、道なりに県477となりさらに奥三河山間へと駆け上がって行く。 春の陽気で十分なタイヤの接地感を感じながら、操作性の良い身軽なライディング装備で、峠道を切り返すステップを久しぶりに満喫する。
そして、新東名高速道路の高架をくぐって大柳簡易郵便局を過ぎたところで、県道338を経由して豊田市立立脇小学校へ抜ける市道に分岐し、作手方面へ向かう国道301へと走り継いだ。 道なりに県道477を走り続けても国道301に合流することはできるが、その合流地点よりも手前にある松平東照宮に立ち寄る算段である。
県道477で奥三河の山間へ駆け上がる、春の峠で切り返しのステップを楽しむ
豊田市立立脇小学校の脇を抜けて国道301に合流すると、程なく松平郷への枝道へと駆け上がり松平東照宮にたどり着いた。 松平東照宮は、もともとは松平家の屋敷に祀られていた八幡宮で、1619年に家康が合祀されて松平東照宮となった。 その後、江戸幕府も終わり、明治、大正、を経た昭和に入り、1965年には松平家始祖の松平親氏も合祀された。
松平郷や松平東照宮を訪れてみると、松平親氏が徳川将軍家の先祖と言われるわりには、家光をはじめ歴代将軍家のテコ入れが感じられず、現在の盛り上げかたも昭和の地域おこし感を否めない。
振り返ってみると家康は、三河統一を果たした1566年に守護職と官位を得るために、朝廷から徳川への復姓をとりつけ藤原氏の血筋を名乗り、1603年には征夷大将軍になるために吉良氏の家系図を借用して源氏の血筋を名乗ってきた。
朝廷に徳川を名乗ることを許されたのは家康個人であり、それを引き継いだのも家康直系の子孫だけだったらしい。 松平親氏まで遡った歴代将軍からの崇敬が感じられぬのは、家康が無理矢理手に入れたお公家さんの肩書を、詳細に掘り起こされても困るからかもしれぬ。
松平発祥の地松平郷にある松平東照宮、旧松平家屋敷の八幡宮に家康が合祀された
松平東照宮の参拝を終えて再び国道301に走り出すと、根引峠の九十九折れに駆け上がり、さらに作手方面へ走り続けた。 そして、下山の根岸交差点から県道77に左折して県道363へと走り継ぎ、野原川に沿った国道473の切り返しを満喫する。 路面コンディションが良く、タイト過ぎぬ適度な切り返しは、シーズン初めの足慣らしにもってこいのルートである。
そして、国道473は国道420との併称ルートに突き当り、そのまま設楽方面へと走り続ける。 拡張工事が進む現在も、所々で離合に気をつかう狭道区間が残るが、その分交通量が少なくバリエーションに富んだ峠道を楽しめる、奥三河定番のツーリングルート。
国道301から国道473へ、野原川に沿った小気味よい切り返し
国道420を当具津川の流れに沿って下って行くと、やがて寒狭川沿いの国道257に突き当り、さらに田峯交差点で新城方面へと南下する県道389へと舵を切った。
そして、寒狭川沿いの県道389が稲目トンネルを貫けると、道なりに海老川沿いの県道32へと走り継ぎ、ツーリングの最終目的地の鳳来寺山にむけて走り続けた。 それなりの交通量があるので、里の風景を楽しみながらクルージングを楽しみたいルートである。 その後、県道32は長楽橋の手前で鳳来寺方面へと分岐し、ぐっと交通量が減った深い林間ワインディングをテンポよく走り続けた。
さて、岡崎城址からの東照宮巡りも終盤に差しかかりお腹もすいてきた、タイミング良く登山客で賑わう鳳来寺山表参道にさしかかり、食事処「かさすぎ」に立ち寄って昼食をとることにした。 屋号の由来は、鳳来寺山頂への石段の途中にある、推定樹齢800年、樹高は60mを越える「傘杉」であろう。
コロナ禍の感染防止のため間引きされたテーブル、鳳来寺山への登山客で賑わう食事処ではあるが、昼食時のピークを過ぎていたので一組を置いての入店待ちとなった。 急ぐ旅では無い。 入り口脇のベンチで満開の河津桜を見上げながら、花を飛び交うメジロ達と共にに春の陽気を満喫する。
鳳来寺山登山客で賑わう食事処「かさすぎ」、満開の河津桜が店を覆う
程なく窓際の花見席に案内されると、当店の看板メニューとある「しいたけ定食」1,400円也を注文した。 配膳された定食の肉厚で瑞々しいしいたけフライは、サクサクの衣の食感も良く看板メニューをなのるだけのことはある。 酢味噌でいただく刺身こんにゃくのプリプリの食感も、不思議な満足感を得られる一品である。 昔から供されてきたであろう山間の食堂らしい素朴なメニューだが、その分食材や調理の良さがダイレクトに伝わってくる。 桜を眺めながらまったりと、春の昼食を楽しむにふさわしい定食であった。
看板メニューの「しいたけ定食」1,400円也、サクッと揚った肉厚で瑞々しいしいたけ
昼食を終え食事処かさすぎを後にすると、再び県道32に走り出して道なりに鳳来寺パークウエイこと県道524へと駆け上がった。 湯谷温泉へと抜けるかつての観光有料道路は、2005年の無料化以降のメンテナンス不足が否めず、正直なところライディングが云々と腰を入れる気にはならない。 芽吹きだした紅葉越しに鳳来寺山南麓の景色を眺めながら、セルフステアに身を委ねながらまったりとクルージングする。
そして、鳳来寺パークウエイ山頂駐車場への分岐に差し掛かると、鳳来寺東照宮もよりの山頂駐車場に向けて駆け上がった。 愛知県道路公社が運営する有料駐車場へのアクセスルートはよく整備され、短い区間ではあるが少しだけ腰を入れてコーナーリングを楽しんでみる。 山頂駐車場にたどり着くと二輪車の駐車料金210円(通常期)を支払い、新城、豊川越しに三河湾まで続く眺望を見下ろしながら一息つく。 2022年4月から新城市の管理となり、駐車料金も変更になるとのことである。
鳳来寺山パークウエイこと県道524、2005年に無料化された観光道路
鳳来寺山パークウエイ山頂駐車場にて、新城、豊川越しに三河湾まで見通せる眺め
さて、東照宮巡りの旅を締めくくる鳳来寺山東照宮は、3代将軍徳川家光が、於大の方が鳳来寺に参籠して家康を懐妊した由縁を知り建立させた東照宮である。 家光の遺志は4代将軍家綱に引き継がれ、1651年に創建が叶うこととなった。 本殿や拝殿などは国の重要文化財で、境内を含む鳳来寺山は国の名勝および天然記念物に指定されている。
鳳来寺山パークウエイ駐車場にZX-6Rを待たせ、鳳来寺山の切り立った山肌に貼りつくような小道を400m程歩くと、鳳来寺山東照宮を見上げる石段の足元に到着した。 江戸時代には石段脇に番所があり、通行手形がなければ参拝は叶わなかったらしい。 そして、樹齢400年近い杉林に覆われた石段を登ると、鳳来寺山東照宮拝殿にたどり着いた。
鳳来寺山の崖に沿った小路で鳳来寺山東照宮へ、正面に鏡岩の岸壁
同時期に徳川家光によって創建されたためであろうか、鳳来寺山東照宮の境内の配置や拝殿や本殿の様式は、道中で訪れた滝山東照宮によく似ている。 また、鳳来寺山東照宮も滝山東照寺同様に、日光東照宮および久能山東照宮とならぶ、日本三大東照宮を称している。 当時、徳川家光から大名への造営の呼びかけで500を超える東照宮が創建されたが、明治維新後の神仏分離政策もあり廃社や合祀が相次ぎ、現在は130程度の東照宮が残るのみらしい。 国の文化財を後世につなげてゆくために、参拝の動機づけとなる”日本三大”の肩書が、幾つあっても目くじらを立てる必要もあるまい。
樹齢400年の杉林に囲まれた鳳来寺山東照宮拝殿、国の重要文化財
鳳来寺山東照宮の参拝を終えると、ZX-6Rの元へ戻ってトイレ休憩を済ませ、帰還の身支度を整えた。 そして、鳳来寺山パークウエイに折り返して県道524を湯谷温泉まで下りきると、国道151を経由して新東名新城インターから名古屋方面へと帰路に着くことにした。
薄手のインナーに皮ジャケット羽織っての走り出しだったが、それでも日中は汗ばむくらいの陽気となった。 久しぶりに相棒のタイヤの接地感を感じながら、バリエーションに富んだ奥三河の峠道で、シーズン前の足慣らしを済ませることが出来た。 週明けには愛知県のまん延防止等重点措置も解除される見込みである。 今後、不要不急?のバイク道楽を気兼ねなく楽しめる日が続くことを祈りながら、県境を跨ぐ移動自粛の旅を終えることにした。
あとがき
新型コロナウイルス感染拡大防止のため、県境を跨ぐ移動自粛を強いられなければ、これほど地元愛知の史跡巡りを深堀することも無かったかもしれぬ。 そして今回も、家康が生まれた岡崎城跡で天下統一を果たすまでの道のりに触れ直し、後の将軍が家康を祀った県内の東照宮を巡るルートをたどることになった。
領地や世襲をめぐり身内さえも殺し合った戦国時代、昔も今も変わらぬ人間の煩悩が凝縮された時代に触れてみると、己の生き方の参考にしたい生き様や戒めが見えてくる。 戦国の世を終わらせた家康ゆえに、なおさらその生き様や戒めに強い説得力を感じるのである。
まず第一に、家康の生き様から学んだことは、「不運だから不幸になるとは限らない」ということである。
幼くして母親と生き別れ、父親は謀殺され、敵方での人質暮らしを強いられた家康の境遇は、一般的にみれば不運としか言いようがないだろう。 しかしその不運な境遇により、家康の現状を受け入れて何ができるかを考える姿勢や、客観的に合理的な判断を導き出す批判的思考が培われたのではなかろうか。 また、酒井忠次、榊原康正ら、苦楽を共にした家臣達と、「厭離穢土欣求浄土」の志に共感する、損得を越えた共同体を築くことができたわけである。
不運や不遇だから不幸になるわけでは無く、それを嘆くばかりでやるべきことを見失うと、生きる意味を見いだせぬまま、人生を終えてしまうことになりかねない。 長年続けてきたリーマン稼業でも、思惑通りに運ばぬことは身に染みている。 諦めることなく、一つ一つ課題を潰して仲間を増やしてゆけば、やがて正帰還がかかり出すことは、戦国の世を終わらせた家康が実証したことである。
第二に、平和ボケ?した幕府から学んだ戒めは、「他人(ヒト)の痛みは幾らでも耐えられる」ということである。
関ケ原の戦いにおいて家康は、島津義弘の捨て身の撤退戦や並外れた銃装備を目の当たりにした。 勝ち戦にもかかわらず家康本陣に突撃され、信頼する井伊直政が命を落とす傷を負ったのだから、薩摩が負った”痛み”の恐ろしさが身に染みたに違いない。
その関ケ原の戦いから268年後に薩摩が仕掛けた戊辰戦争への経緯は、徳川幕府の仕打ちに辛酸をなめてきた薩摩の大義が、尊王攘夷の前に武力倒幕であったと考えると納得がゆく。 残念ながら、長州征伐にばかり心を砕く15代将軍慶喜や会津藩に、倒幕のために近代兵器の装備を進める薩摩の痛みは見えず、東照大権現からの警告も届かなかったようである。
後の将軍達は、東照宮を創建して家康の偉業を伝え継ぐことはできても、その犠牲になった薩摩の遺恨を伝え継ぐことは出来なかったということになる。 当事者の心の痛みは消えることは無いが、他人事の痛みはいくらでも耐えられるものなのだ。
270年近くの時を跨ぐ、徳川幕府の始まりから終わりにつながる歴史的な遺恨に限らず、他人の心の痛みを感じられる感受性を持たねば、思わぬところでしっぺ返しを食らうことになりかねない。
リーマン稼業も大詰めを迎えた還暦親父、地域のコミュニティや友人達との新しい人間関係、さらに家族と向き合う機会も増えてくることになるだろう。 長年のリーマン稼業で凝り固まった価値観を持ち出し、周りや自分を傷つけてしまわぬよう、気を付けたいところである。
そして最後に、戦後77年の時が流れた現在の日本、戦争の痛みが他人事になってしまっていないだろうか?
義父から聞いた、長崎に原爆が投下された翌日、焼け野原で亡くなった兄の痕跡を探したこと、叔母から聞いた満州からの引き上げで幼い妹が亡くなったこと、そして子供を中国人に託さねばならなかった人達、祖父母の部屋で見た特攻で亡くなった息子の遺影、二度の撃沈をうけ生き残った叔父の痛々しい傷跡...身近な人たちが絞り出すように語ってくれたことに、社会科の授業では感じなかった衝撃を受けた。 子供ながらに、戦争を現実のものとして認識させられたからであろうか。 不思議なことに、還暦を過ぎの親父になってその記憶と衝撃は、ますます鮮明に重たくなってきている。
国内外に多くの痛みをもたらした先の大戦、戦争へと追い立てられ多くを失う原因になった、エネルギーや食糧自給率の低さは何も解消されておらず、同じ痛みを繰り返しかねない気がする。 それどころか、国内需要の頭打ちと共に低成長時代を迎えた日本、企業の振興市場参入と引き替えに基盤技術が吸い取られ、貿易交渉のネタに自給すべき農産物輸入が差し出され...正直なところ、国の屋台骨となる危機管理政策と目先の経済政策が混沌とする様に、還暦過ぎのリーマン親父が後世に託せる国の形が見えてこない。
批判的思考を身に着けた家康最大の功績は、鎖国政策により日本の植民地化を防いだことではなかろうか。 海外貿易により徳川幕府の財政基盤を築くため、当初は開国推進派だった家康である。 しかし、スペインやポルトガルのカトリック布教を先兵とする植民地化戦略を知ると、布教を貿易の前提としないプロテスタント派のオランダなどと限定的な交易をおこなう鎖国政策に転じた。 目先の儲けに惑わされぬ家康の判断が無ければ、日本人のアイデンティティにも繋がる江戸文化が花開くことなく、スペインやポルトガル風の街並みが続いていたかもしれぬ。
非資源国で国内需要も限られる日本が、大国のエゴに晒されながら、海外交易に頼らざるを得ない構図は、家康の時代と何も変わっていない。 もし東照大権現が現れてお告げをくれるとしたら、「鎖国しろ」であろうか。 正しく言うと、「鎖国をしたとしても日本が生きて行ける、エネルギーや食料自給率、産業基盤を確保しろ」ということになる。
化石燃料や原発の先に、日本の永続的な暮らしや経済があるとは思えない。 後手々々感が否めない地球温暖化対策や情報産業の技術開発やインフラ整備を、非資源国の日本がゲームチェンジする機会と捉えて、ぶれない国の戦略とそれを見据えた海外交渉に期待したいところである。 調和を重んじる国民性ゆえに、諸外国との折り合いばかりに心を砕きがちだが...ガラパゴス結構、鎖国をしても豊かな暮らしと、個性的な文化を築きたいものである。
難しいことだが、そんな鎖国も可能な国になる道筋が見えて初めて、毅然とした態度で、中立でフェアな国際関係が築けるのではなかろうか。 いわんや不安に駆られ、籠城して武器弾薬をため込むだけでは、自爆の火種にもなりかねない。 グローバリゼーションは妄想、国益を優先した壁だらけの現実、時に保護主義は経済戦争の武器になる。 関ケ原合戦の痛みから戊辰戦争まで270年、我々の先の大戦からまだ70年、その痛みを他人事にするには早すぎる。
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