2020/11/28 清須城から桶狭間合戦地へ信長の足跡をたどる(喫茶k)


 2020年は、新型コロナウイルス感染症で、世の中が一変する年になってしまった。 そして個人的にも還暦を迎えた10月、リーマン稼業やオートバイ旅への志を新たにした矢先、突然のガン宣告を受ける過酷な年となってしまった。 

 途切れなくあふれ出る仕事や旅のイメージ、還暦親父が立ち止まることなく走り続けるため選択したのは陽子線治療。 そして、働きながら治療に通った名古屋陽子線治療センター、10日間の治療を終えてZX-6Rの元へ戻ると、早速新たな旅へと走り出すことにした。

 本ホームページ初のツーリングレポートは、桶狭間の戦いで今川義元を破った織田信長の進軍ルートをたどる旅である。 ガン治療を終えてうんぬん...などと、このツーリング企画に感傷てきな意味があるわけでは無く、単に治療を終えて早く走り出したいバイク親父は、陽子線治療センター近くの清須城に始まる旅を思いついただけの話(笑)。

 実際のところ、三英傑を輩出した尾張三河地方、山が凍り付く冬場のツーリング企画として、点在する城跡や古戦場を巡るツーリングルートは重宝する。 今回は、清須城から桶狭間に向けて幹線国道を南下し、桶狭間の戦いゆかりの地を巡るルートをたどることにした。 決戦地までの距離感や戦場の地形など、現代の早馬の機動力を活かした戦国妄想旅を楽しみたいところである。


ルート概要


清須城-県190→新川大橋北-県59→新川新橋-国22(名岐バイパス)→庄内通り3→喫茶K→香呑町1(名古屋陽子線治療センター)-名古屋城西北隅櫓-国道22→熱田神宮西門(信長塀)-国22→熱田神宮南-国1→大将ヶ根→武路釜ヶ谷(名古屋短期大学内)→今川義元本陣跡(桶狭間山)→桶狭間古戦場公園(田楽坪)→大高城址


ツーリングレポート


 今回のツーリングの起点清洲城は、室町時代の初めに尾張の守護職であった斯波義重によって築かれた城である。 尾張下四郡(海東、愛知、海西、知多)を支配する守護代の本城として機能し、1555年(弘治元年)には守護代織田信友を討った織田信長が入城し、この城から1560年(永禄3年)桶狭間の戦いにも出陣した。

 その後、1562年(永禄5年)信長と徳川家康の清洲同盟、1582年(天正10年)本能寺の変後の清洲会議、等々戦国史に残る出来事の舞台となったが、1613年(慶長18年)徳川家康の指令で名古屋城が築城されたとき、ばらされた天守閣が名古屋城築城の資材とされ廃城となった。

 訪れてまず目をひく天守閣は、清洲町(現清洲市)制百周年を記念して1989年(平成元年)に再建されたもの。 鉄骨鉄筋コンクリート造りの立派な3層4階建の模擬天守閣、趣向を凝らした展示物や体験体験企画が用意されているようである。 今回は、足元から模擬天守を見上げて戦国妄想に浸るにとどめ、早速桶狭間の決戦地にむけて走り出すことにした。 五条川の対岸にあるオリジナルの城跡は清洲公園となっており、織田信長の銅像も建っている。

  ところで、今回のツーリングで合戦の詳細に触れるまで、意表を突く信長の奇襲戦略が名将今川義元の大軍を打ち破った...というくだりが刷り込まれてきたのだが、実際はそうでもないらしい。 成り行きで戦いに追い込まれた信長が、思いがけぬ天候や義元の慢心の重なりにより、偶然に勝利を手にしたというのは言い過ぎだろうか。

 桶狭間に向けたツーリングで戦国妄想を膨らませるために、まずは、合戦時に信長が抱えていた事情ついてふれておきたい。

 織田信長の父信秀は、海東、愛知、海西、知多を支配する守護代に仕える三奉行の一人に過ぎなかった。 そして、1551年(天文二十年)信秀の死で18歳の信長が家督を継承するが、弟信行を押す家臣の反乱で兵力の半分程を失うことになる。 それでも、1555年には守護代を殺害して清須城に入城し信行も謀殺した信長だが、家督争いの隙に乗じて侵攻してきた今川義元に海西と知多を奪われたていたのである。 そんな背景を抱える中での、1560年今川義元が25,000人の大群を率いての侵攻である。

 今川軍の侵攻の目的は、信長など眼中にない上洛の途上だったのか、信秀時代から続く国境紛争に一気にけりをつけるつもりだったのか、両説あるようだ。 いずれにしても信長にしてみれば、身内のごたごたを片付け目減りした領地、さらに何とか守ってきた虎の子の海東、愛知をも失いかねない一大事。 憎ったらしい今川義元に、頭を下げる気にもならなかっただろう。

 そしていよいよ、桶狭間の戦い前日の5月18日夜には、清須城の信長の元に義元が沓掛城に布陣し、今川方の大高城に対峙させた丸根・鷲津砦攻めこむという情報が入る。 しかし、信長は清須城から家臣を帰宅させ軍議も開かずご就寝。 翌明け方砦攻撃の知らせを受けて飛び起きると、立ったまま湯漬けを掻きこみ数騎の家来と出陣。 各砦を回り兵を搔き集めながら進軍し、2,000人程度の兵力で所在も分からぬ義元との決戦に臨むこととなった。

 なんと慌ただしい、なんと場当たりな、なんでこれで勝てるのか、戦国妄想ツーリングがますます楽しくなってきた(笑)。 しかし妄想するだけでも腹が減るものだ。 幸いリアルな合戦を控えるわけでもなく、出陣に際し湯漬けの立ち食いはご勘弁、美味い昼飯をゆっくりいただき進軍することにしよう。

 清須城を後に走り出すと、清洲市街から県道190を南下して国道22(名岐バイパス)に合流した。 そして庄内通に差しかかったところで国道22から分岐し、名古屋陽子線治療センター近くの「喫茶K」に立ち寄ることにした。 治療期間中の昼食に幾度が訪れた、ご夫婦だけで切り盛りする小さな喫茶店。 開店したばかりの真新しい店だが、料理も接客にも年季を感じる。

 ハンバーグや鉄板ナポリタンなど、昭和親父の食欲を刺激するメニューが揃い目移りするが、期間限定の味噌カツ700円を+200円で定食にして注文することにした。 すでに限定期間を終えていたメニューだが、食材が残っていたらしく特別に提供してもらっうこととなった。 お値打ちなランチメニューや軽食も充実しているが、お腹一杯になるガッツリ系メニューがお勧め、店を営む夫婦は食いしん坊に違いない(笑)。

 昼食を終えて喫茶Kを後にすると、陽子線治療センター角の香呑町1交差点から名古屋城址へ続く市道を一直線に南下した。

 そして、名古屋城址に差しかかって堀沿いを進むと、程なく清洲城の廃材を利用して建てられた名古屋城御深井丸(おふけまる)西北隅櫓にたどりついた。 この西北隅櫓は、清洲城の天守が移築された経緯から清洲櫓とも呼ばれている。

 第二次世界大戦中に名古屋城は、天守閣をはじめ城郭の殆どを焼失してしまったが、この西北隅櫓はオリジナルの姿を残しており、本丸辰巳隅櫓、同未申隅櫓などと共に国の重要文化財に指定されている。 こういう背景を知って改めてその姿を眺めてみると、わき役のはずの隅櫓も立派に見えてくる。 確かに隅櫓というよりは、天守閣の風格が感じられる。

 しばらくの間堀越しの西北隅櫓を眺めると、名古屋城址から国道22に復帰してさらに南下した。 その道中、名古屋の中心部となる、官庁街、オフィス街、そして繁華街を貫け、信長が兵を終結させて必勝祈願した熱田神宮にたどりつくこととなった。 そして、西門鳥居前に設けられた駐輪場にZX-6Rを停めると、まずは境内奥の本宮で参拝を済ませ、信長ゆかりの築地塀(ついじべい)に立ち止まった。

 信長が桶狭間合戦で勝利した礼に奉納したその土塀は、信長塀と呼ばれて本宮鳥居の直ぐ左手にある。 この信長塀、土と灰を油で練り固めて瓦と層状に重ねたもので、兵庫西宮(にしのみや)神社の大練塀、京都三十三間堂の太閤塀とともに日本三大土塀の一つとのことである。 土塀にまで日本三大の肩書きが存在するとは...お約束の観光あるあるにちと飽食気味ではあるが、1560年からたち続ける重厚な土塀を前に、合戦当時の様子を暫し妄想する。 塀の由来を知らぬ方々にとっては、塀に向かって妄想するその様子、ただの危ない親父かも(笑)

 参拝を終えて国道22に復帰すると、道なりに国道1に合流し、桶狭間方面へとさらに走り続けた。 そして天白川を渡り桶狭間交差点を過ぎたところで、旧東海道有松宿のはずれにある将ケ根交差点から、住宅地にある桶狭間古戦場方面へと分岐した。

 ところで桶狭間古戦場には、名古屋市緑区の”桶狭間古戦場公園”と、豊明市の”桶狭間古戦場伝説地”の二か所が存在する。 今回は、桶狭間の合戦ゆかりの史跡や解説が充実している、名古屋市緑区の古戦場を訪ねることにした。 バイク親父が勝手な妄想を語り合戦地を巡る企画ゆえ、正確な歴史検証や議論は専門家の方々に譲りたいところである。

 さて、国道1から分岐して最初に訪れた合戦ゆかりの地は”釜ヶ谷”である。 グーグルマップのナビゲーションで釜ヶ谷にたどり着くと、道路わきの観光案内に信長軍が今川軍への攻撃の機をうかがった場所と解説されている。 信長坂と呼ばれる当時の地形も残っているが、残念ながらそれは名古屋短期大学の敷地内、駐車場越しに織田勢2,000人の兵が殺気を放つ様を妄想する。

 しかし、今川軍の25,000人には見劣りするにしても、織田軍の2,000人を超す兵の進軍に義元達が気づかぬのは不思議である。 実際のところ、突然視界が遮られるような雷雨が発生したおかげで、今川軍が信長の進軍に気付くことができず、不意の強襲をくらうことになったらしい。

 信長が今川義元の大軍を倒すことができたのは、したたかな奇襲戦略によるものではなく、幸運な気象変化に負うところが大きいのである。 そりゃぁ、熱田大明神のご加護とばかりに、半世紀近く壊れぬ立派な土塀を奉納したくなる気になるだろう(笑)。

 その後、信長勢が釜ヶ谷越えて攻め込む様を想像しながら住宅地を駆け下り、義元が本陣を置いたとされる”おけはざま山”に向けて駆け上がった。 現在は密集する住宅に視界を遮られるが、合戦当時は見通しが効く本陣設営にふさわしい場所だったと想像できる。

 そして、突然の豪雨に続いて信長が幸運だったのは、丸根・鷲津砦を落とした今川方が酒盛りをはじめていたことである。 こりゃまた、今川さん、戦国素人の親父の目から見ても、それは負けるでしょう(驚)。

 今川軍は25,000人の大軍だったが、大高城の援軍、丸根砦攻め、鷲津砦攻め、そして沓掛城の守り等々広く展開し、今川義元本隊は5,000人、義元を守る親衛隊は300人ていどだったらしい。 織田軍2,000人の強襲で本体は総崩れとなり、酔っぱらっていた?側近は義元を守り切れなかった訳である。

 桶狭間山で攻め込まれた今川義元は、足を取られる程ぬかるんだ田楽坪(現在の桶狭間古戦場公園)まで追い落とされ、そこで討ち取られることになった。

 桶狭間の地形の複雑さからか、現在も信長が攻め込んだ経路や義元本陣や討ち取られた場所の議論が続いているようである。 実際に桶狭間を訪れてみると、隙間なく住宅が建つ現在でも、小高い丘陵地と低い湿地が混在する地形であることを体感できる。

 そして、大軍を率いた今川義元の慢心が墓穴を掘った、ということの顛末や当時の地形を想像しながら合戦の経緯ををたどり、型どおりの古戦場巡りもまた違った趣となった。

 たら、れば、を言ってもしょうがないが、今川義元が信長軍に張り番をつけて動向をつかんでいたら、突然の悪天候があったとしても攻撃への布陣が出来ていただろう。 また、桶狭間山での酒盛りに興じることも無かったかもしれない。 

 しかし、そのような偶然を勝機にできたのは、大軍を前に臆することなく戦力を集中し、自ら今川本隊に切り込んだ信長の行動によるものだろう。 弟信勝を殺してまで手に入れたものを手放せなかったのか...天下人まで上り詰めた稀代の戦国武将が背負いこんでいたものなど、生ぬるいリーマン稼業の親父には計り知れないが、避けられぬ逆境に遭遇したときにどのような態度をとるか、それが人生の意味実現の大切な機会であることを示唆してくれている。

 そう考えると、信長が清須城から桶狭間の合戦に出陣する際に舞ったとされる、敦盛の一節「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」ってのも、また違って聞こえる。 そこにどんな人生の意味が込められていたのかは、ご本人に聞くしかないが、信長様はあの世でも会いたくない人の筆頭格である(笑)。 冗談はさておき信長は、仮に偶然の勝機が訪れることなく討ち取られたとしても、己の人生に悔いはなかったのだろうと思えるのである。

 桶狭間古戦場公園で古戦場巡りを終えると、今川義元が丸山・鷲津砦攻略後に入城したであろう、大高城址に立ち寄りツーリングを終えることにした。 今川方の前線基地であった大高城は、松平元康(のちの徳川家康)が義元進軍の先鋒として兵糧入れを命じられた城である。 幼少期から今川の人質になっていた家康、19歳の初陣だったらしい。

 グーグル先生のお導きで、狭く入り組んだ路地を抜けて本丸跡に駆け上がると、丸根・鷲津砦跡越しに桶狭間古戦場方面の景色を眺める。 敵中の兵糧入れを成し遂げ守備に就いた家康が、同じ場所から今川軍が総崩れになる様をながめていたと思うと感慨深いものがある。 今川勢の総崩れを知り、命からがら敗走した家康は岡崎城に入り、その後今川氏に離反して三河平定に向かう。

 そして、信長は東方の敵への構えのために家康との同盟を結び、今川氏亡き後侵攻してきた武田氏との戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い、へと戦国史はながれてゆく。 まるで演出されたスターウォーズばり、世代を超えたリアルなストーリー展開に興味が尽きることは無い。 己の勉強嫌いの言い訳にするつもりは無いが、記号のような人名や年号暗記に終始させられた授業が何だったのか、色々と考えさせられる次第である。

 さてさて、手近な清須城からスタートした初回のツーリング企画であったが、気になることを調べるうちに新たな発見もあり、なんとも小難しい古戦場レポートの体となってしまった(汗)。 ややこしい日常を忘れられる峠道、昭和親父の琴線に触れる食堂飯など、発信して行きたいテーマから随分とかけ離れてしまったが、凍える冬場にバッテリー充電を兼ねて街にくりだすネタにでもなれば幸いである。

 また、レポートの始めにも触れたが、戦国時代の三英傑を輩出した尾張三河地方ゆえ、戦国史にのこる史跡や物語に不自由することは無い。 機会があれば、大高城から岡崎城へと逃れた家康、信長との同盟を経て、武田信玄、勝頼との戦いへと続く物語や、古戦場をめぐる旅を紹介してみたいものである。



ツーリング情報


清須城  愛知県清須市朝日城屋敷1-1 電話:052-409-7330

http://kiyosujyo.com/


喫茶K  愛知県名古屋市西区香呑町1-50 電話:052-524-1847

https://foodplace.jp/kissa-k/


NPO法人桶狭間古戦場保存会  名古屋市緑区桶狭間2311番地 電話:090-7861-8413 

https://okehazama.net/


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