2021/11/06 伊吹山で山菜定食、島津の退き口を下る(関ケ原古戦場、若いぶき)

 最近、本屋で偶然手に取った磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中央公論新社)で、長年疑問に感じていた関ケ原の戦いの謎が解けることとなった。 著名な歴史家が、古戦場巡りに興じるバイク親父と同じ疑問を持ち、その答えを古文書から探し出してくれたことがうれしくなり、その真説を確認すべく関ケ原古戦場に向け走り出すことにした。

 今更ながらではあるが、豊臣秀吉没後の1600年に起きた関ケ原の戦いとは、東軍徳川家康方(7万4000)と西軍石田三成方(8万200)に分かれて争われた、天下分け目の合戦である。 ご存知の通り家康率いる東軍が勝利し、家康は250年以上続く幕藩体制樹立の足掛かりを築くこととなった。

 そして、バイク親父が抱えていた長年の疑問は、西軍として参戦した島津義弘の撤退戦に関する謎である。 西軍が伊吹山方面に後方撤退する中、家康本隊に向けて敵中突破した壮絶な撤退戦は、”島津の退き口”として現在も語り継がれている。 その壮絶な戦いぶりが与えた衝撃が、家康が島津家や領地の存続を認める要因になったと言っても過言ではないだろう。

 これまでも、島津隊の捨て身の戦いが取り上げられてきたが、精神力だけで消耗した敗軍が敵本隊の真っ只中を突破することが可能なのだろうか?  磯田氏によると、やはりそこに合理的な理由があった訳である。 今回は、その理由を携えて島津の退き口ゆかりの地を巡り、幕末の歴史にも影響を与えた撤退戦を妄想してみることにした。 いまさら、島津武士の勇敢さを見習えと言われても無理だが、窮地を脱するための合理的な理屈であれば、へたれなリーマン親父が学べることもあるだろう。 

 旅の往路では、幕命による宝暦治水工事で犠牲になった薩摩藩士が祀られる治水神社を起点に、揖斐川の堤防道路から養老山地東麓の薩摩カイコウズ街道を北上した。 さらに、関ケ原市街を迂回する広域農道へと走り継ぎ、滋賀県最高峰伊吹山(標高1,377m)の麓で山菜三昧の昼食をとることにした。 伊吹山山麓で、半世紀にわたり山菜料理を供する”若いぶきでは”、年間を通して香り高い山菜料理をいただくことが出来る。

  そして復路では、関ケ原古戦場の島津義弘陣跡を起点に、島津隊の壮絶な撤退戦の軌跡をたどりながら、鈴鹿山脈と養老山地の狭間を流れる牧田川沿いの国道365を南下し、名古屋方面へと帰路に着いた。 

 さてさて、島津隊が不可能とも思える撤退戦を成しえた理由は何だったのか? そして、還暦を過ぎてリーマン稼業の撤退戦を控えるバイク親父は、薩摩武士の捨て身の撤退戦から何を学んだのであろうか?


磯田道史著「歴史の愉しみ方」で”島津の退き口”の疑問が解ける



ルート概要

伊勢湾岸道湾岸桑名IC-県69-県504(揖斐川西岸)-県613(揖斐川西岸)→国1(伊勢大橋)→中提入口-県106(揖斐・長良川背割堤)→治水神社-県220(揖斐川東岸)→福岡大橋東-県8(薩摩カイコウズ街道)→駒野-県56(薩摩カイコウズ街道)→上石津牧田-国365→名神高速関ケ原IC(手前)-広域農道(戦国ロード)-国365→藤川-広域農道→伊吹(若いぶき)-広域農道→藤川-国365→関ケ原古戦場(島津義弘陣跡、決戦地跡、松平忠吉・井伊直政陣跡)→JR関ケ原駅-国21→東公門(関ケ原醸造)-市道→鳥頭坂(島津豊久碑)-国365→琳光寺(長寿院盛敦墓)-国365→下多良-上石津農道(あじさいロード)→島津塚(島津豊久墓)-国365→上石津町打上→県107→志札石新田-国365→東海環状道大安IC


ツーリングレポート


 伊勢湾岸道桑名ICを降りると、直ぐに揖斐川西岸の堤防道路に駆け上がり、上流の治水神社に向けて走り出した。 年甲斐もなく、峠中毒を克服できぬバイク親父であるが、少し肌寒い初冬の空気を切りながら緩やかな堤防道路を流すのも悪くない。

 そして、堤防道路が国道1号線伊勢大橋にさしかかると、橋の中ほどから始まる揖斐・長良川の背割堤に駆け降り、左手に揖斐川、右手に長良川の川面を眺めながら、さらに上流へと走り続けた。

揖斐川と長良川を分ける背割り堤、濃尾平野をつくった大河の川面を走る


 背割堤を走り続けると程なく、幕命による宝暦治水(1754~1755年)で薩摩藩が築いた油島千本松締切提にさしかかった。 宝暦治水工事では、薩摩藩は現在の貨幣価値で300億の負債を抱え、過酷な工事環境で多くの薩摩藩士が命を落とすこととなった。 薩摩藩の総指揮をとった家老平田靱負も、膨大な負債と犠牲を出した責任をとり自害している。

 締切提北端まで走ると、1938年に地元浄財で建立された治水神社にたどりつく。 治水神社には、平田靱負が治水の神として祀られ、犠牲となった薩摩藩士達も供養されている。 関ケ原の戦い後、西軍に加担した大名で唯一、島津家や所領の存続を取り付けた薩摩だが、宝暦治水など藩力を削ぐ為の嫌がらせは続くことになった。

 旅の始まりに治水神社に立ち寄ると、亡くなった薩摩藩士たちの冥福を祈り、島津の退き口ゆかりの史跡を巡る旅の安全をお願いした。

丸に十文字、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士を供養する治水神社


 治水神社の参拝を済ませると揖斐川東岸の堤防道路へと走り出し、福岡大橋を渡り始まる薩摩カイコウズ街道を、関ケ原方面にむけて走り続けた。 海津市から関ケ原まで35kmの県道を繋ぐこの街道沿いには、岐阜県と鹿児島県が姉妹県となった20周年を記念して、鹿児島県の花カイコウズが植えられている。 残念ながら、夏から秋にかけて咲くカイコウズの赤い花を目にしたことは無いが、左手に濃尾平野の西を縁取る養老山地が連なり、右手に養老鉄道がはしる田園風景のなかをゆっくりと北上した。

 薩摩カイコウズ街道は、県道8、県道56、そして国道365へと引き継がれ、名神高速道関ケ原インターに差しかかったところで、関ケ原町の市街地を迂回する広域農道戦国ロードへと分岐した。 戦国ロードでは、時折滋賀県最高峰の伊吹山を望みながら、国道21と交差して国道365に突き当たるまで、緩急ワインディングを楽しめる。 それにしても、広域農道に戦国ロードの愛称を採用する岐阜県、観光振興にかけるベタな意気込みを感じる(笑)。

戦国ロードで関ケ原町の混雑を迂回する、伊吹山を望む緩やかなワインディング


 戦国ロードは国道365に突き当たって終りとなるが、まだまだ走り足りない方々、または懐に余裕のある方々には、突き当たった国道365を古戦場方面へ右折したところに、伊吹山ドライブウエイの入り口がある。 自動二輪の往復通行料金は2,200円也。
 山頂駐車場からは山頂までの登山道が整備されており、国の天然記念物に指定された「伊吹山頂原植物群落」の中を、片道1km、40分程度の散策を楽しめる。 固有植物よりもおいしい山菜、腹をすかせたバイク親父は、伊吹山ドライブウェイと山頂散策を見送り、「若いぶき」の山菜定食をめざすことにした。

伊吹山ドライブウェイから伊吹山山頂を望む(2006年6月撮影)


 さて、戦国ロードが国道365に突き当り木之元方面へ左折すると、藤川交差点から国道を迂回する広域農道へと分岐した。 そして、岐阜県から滋賀県への県境を越えて走り続けると、伊吹山が白く削り取られた異様な景色が見えてくる。 さらに、大きく削れた伊吹山斜面へと広域農道を跨いで続くベルトコンベアらしき建屋。 調べてみると、その2.7kmに達するベルトコンベアは、伊吹山から削り出した石灰石を運び出すためのものだった。

 伊吹山では”白ジャレ”と呼ばれる崩落場所で漆喰の材料となる石灰岩の採掘が始まり、戦後にはセメント材料としての需要が高まり崩落場所上部での採掘が本格化した。 住友大阪セメントから事業譲渡された滋賀鉱産が現在も採掘を続けている。

 1971年からは企業の自主活動として、発掘後の斜面に粘土やらネットを貼り付けての緑化作業が行われているとのことだが、日本百名山の一つが削り取られた姿は痛々しい限りである。 なりふり構わず経済を回してきた時代の傷跡は、伊吹山に限った話ではない。

 長年のリーマン稼業で海外に滞在すると、当たり前だと思っていた日本の自然や暮らしの景色の美しさを再認識する事が多くなった。 その反面、ツーリング先の山間で派手な看板や商業施設、産業開発の傷跡や廃棄物やらを見つけると、思わずため息が出ることになる。

 国際的な圧力も強い環境汚染や気候変動対策だが、日本独自の景観保護についても次世代を考えた国の対応を願いしたい。 自然や文化を資源に観光で食っていこうと言うのならなおさらのこと、支援策を含めたガイドライン策定や法整備など、日本のブランドに直結する景観づくりは必須であろう。 後世に観光資源が残る形で税金(借金?)を使っていただきたいところである。

採掘された石灰石を運ぶコンベア、百名山伊吹山が削られる姿は痛々しい


 伊吹山南麓を走る広域農道が、伊吹山登山口への分岐を過ぎると程なく、昼食をとる予定の「若いぶき」にたどりついた。 若いぶきは、半世紀にわたり伊吹山山麓で山菜やイワナ料理を供する庶民的な料理店である。 タイミングよく開店に合わせた来店となり、広い駐車場を独り占めにして、伊吹山を背景にした相棒の来店記念撮影を終える。

伊吹山と「若いぶき」、半世紀にわたり伊吹山の幸を供する老舗


 これまでに何度も訪れたお気に入りの店だが、注文は毎度変わらぬ”いぶき定食”税込み1,320円也。 山菜が揚る様を想像しながら配膳を待つと、程なく注文したいぶき定食が運ばれてきた。 定食のメインは伊吹山で採れた山菜の天ぷら、そして山菜のおひたしなど三品の小鉢、野菜サラダ、ご飯と味噌汁、香の物。 滋味深い山の幸が盛られた定食である。

 以前は、テーブルに置かれた山菜アルバムなどを参考に、供される山菜の種類をアレコレ探していたが...一箸、ひと噛み毎に、異なる香りが鼻に抜ける品種の多さに、最近は無駄な詮索をあきらめることにした(笑)。 食材が豊富な春先だけでなく、一年を通してこれだけの品数の山菜を、鮮度良く供する店主の、目利き、保存や料理の技術に感心する。

 今回も、香ばしさ、甘さ、ほろ苦さ、繊細な香りや味わいが異なる山菜のバリエーションに癒される。 旬の食感がのこるおひたしや煮付は、山菜ごとに味わいを活かす味付けがなされている。 あーっ、いつの日か、冷たいシャブリを傍らにここを訪れたいものである(笑)

 最後になったが、白飯の脇を固める、熟成感のある味噌汁とたくあんの古漬け、果実感のある大粒の梅干し、これだけで日本に生まれてよかったと思わせる味わいである。 食事が終わるタイミングできな粉が添えられた焼き草餅が供され、伊吹山の癒してんこ盛りの昼食を終えた。

いぶき定食1,320円也、伊吹山の滋味深い香りが盛られた一膳


 若いぶきで昼食を終え広域農道に折り返すと、国道365に合流して関ケ原古戦場にさしかかり、島津の退き口巡りの起点となる島津義弘陣跡にたどり着いた。 徳川軍の井伊直政、松平忠吉が宇喜多秀家に発砲した開戦地の直ぐ隣、島津隊が関ケ原の戦いの最前線に陣取っていたことが分かる。

 ここで、関ケ原の戦いにのぞむ島津隊が抱える状況について触れておきたい。 1598年豊臣秀吉の没後、16代当主島津義久は秀吉に分割された所領立て直しの内乱を抱え、十分な軍勢を編成することができなかった。 そのため義久の弟島津義弘を大将に、義弘を慕う甥の島津豊久、家老長寿院盛淳が加わり、1,500の島津隊を編成するのがやっとだった。

 そして島津義弘は、家康の要請に応じる形で徳川方の伏見城を訪れるも、島津隊の東軍加担を聞いていなかった鳥居元忠が入城を拒み、石田三成率いる西軍側に付くしかなくなった。 これは、戦後交渉向けの西軍加担の言い訳にも聞こえるが...

 仕方なく、西軍に加担することとなった島津義弘だが、関ケ原の合戦を前に石田三成への不信感が膨らんでしまう。 三成に、前哨戦の美濃墨俣の戦いで前線の島津豊久が見捨てられる、島津が得意とする奇襲戦の提案が一蹴されるなど、総勢15万ともいわれる大合戦で1,500の島津軍は当てにされてなかったのかもしれぬ。

関ケ原古戦場の島津義弘陣跡、開戦地と決戦地に挟まれる合戦最前線


 そして、合戦の結果はご存知の通り...午前8時の開戦後乱戦が続くが、家康の調略が功を奏し、西軍主力として関ケ原に着陣した毛利秀元勢は動かぬまま、寝返った小早川秀秋が西軍に攻撃を仕掛けると戦況は一気に東軍に傾き、午後2時には西軍は総崩れとなり敗走を始めた。

 島津義弘は、合戦前に溜まった三成への不信感からか、または百戦錬磨の勝負勘で西軍の負けを直感していたのか、三成からの援軍要請にも応じず自軍の防衛に徹していた。 防戦に徹しながらも数百にまで兵を失った島津隊...ここから、島津豊久や長寿院盛淳の説得で切腹を思いとどまった義弘の敵中突破の撤退戦が始まる。

 ここで冒頭で書いた通り、古戦場巡りに興じるバイク親父の頭に湧いてきたのは、防戦に徹しながらも数百にまで目減りした島津軍が、家康本隊を敵中突破し逃げ延びることが可能であろうか?という疑問である。 しかも、家康本隊重臣の井伊直政、松平忠吉、そして本田忠勝らに致命傷を与えたのである。

 島津義弘陣跡から500mほど移動し、笹尾山の石田三成陣跡を背に激戦の中心となった決戦地跡に立って見ても、右手島津義弘陣跡から左手の井伊直政、松平忠吉の陣跡、さらに徳川家康の本陣跡へ、寡兵の島津軍が切り込んでいって大将らにたどりつき致命傷を与える様を想像するのは難しい。

笹尾山の石田三成陣を背に、右手島津陣から左手徳川本陣への敵中突破を妄想する


 そして、レポートの冒頭で紹介した通り、磯田道史著「歴史の愉しみ方」(中央公論新社)で、なるほどと思える島津の退き口が成功した理由を知ることとなった次第である。

 磯田氏は、長州毛利の家臣粟屋家旧蔵「古実聞書」という古文書を探り出し、「島津勢は腰さし鉄砲を装備していた、それが数千挺、侍も足軽も打ったので井伊直政は肘を撃たれた。」という記述にたどりついた。 島津軍の強さの秘密は銃装備にあった訳である。 当時の武士は、鉄砲は卑怯な飛び道具と考え足軽のみに携帯させていた、薩摩には勝つためには武士も鉄砲を使う合理性があったのである。

 また、島津軍は少数の兵で兵数に勝る相手を撃破する、「釣り野伏せ」という戦法を得意にしていた。 具体的には、全軍を三隊に分け二隊が左右に待ち伏せし、まずは中央の隊が敵に正面から突撃し敗走を装い後退する(釣り)。 そして、追撃してきた敵を両側から伏兵が攻撃すると(野伏せ)、敗走していた中央部隊が反転して逆襲するという戦法である。 

 この戦法も、高度な撤退戦術や十分な銃装備があって効力を発揮したのだろう。 実際のところ、秀吉の朝鮮出兵に従軍した島津義弘隊2,000が、泗川(シチョン)の戦いで明・朝鮮の大軍100,000を撃退したとされる戦績もそれを証明している。

 戦いにたらればは無いのかもしれないが、石田三成が、始めから島津義弘をその気にさせて采配を託せば、天下分け目の合戦は違った結果になっていたのかもしれぬ。

島津隊が敵中突破した井伊直政、松平忠吉陣跡、JR関ケ原駅近く


 決戦地跡から島津隊が敵中突破した井伊直政、松平忠吉陣跡に立ち寄り、JR関ケ原駅前を抜けて島津の退き口にまつわる史跡をたどることにした。 JR関ケ原駅前から国道21を大垣方面へ少し走り、関ケ原醸造脇の旧伊勢街道へと分岐して南へ下ると、島津豊久が捨てがまり戦法に身を投じた鳥頭坂にたどりつく。

 井伊直政と松平忠吉の陣跡から伊勢街道を2km程下ったこの坂で、島津義弘の身代わりとなった豊久が徳川の追手を待ち受け、足軽から武士まで島津勢が装備していた腰さし鉄砲を撃ち続けた訳である。 槍と刀を振り回して追手を食い止めるに限界があるが、狭い街道の物陰から途切れなく銃撃して来る相手を突破するのは容易ではあるまい。

 現在の鳥頭坂を見下ろす土手の上には、大正時代の当主忠重により”島津豊久の碑”が建立されている。 後に紹介するが、豊久は重傷を負いながらも義弘を追い、伊勢街道をさらに10km程南下した瑠璃光寺で息絶えたと伝えられている。

敵中突破した徳川勢陣跡から約2km、島津豊久が追撃を足止めした鳥頭坂


 旧伊勢街道にある鳥頭坂から国道365に合流してさらに南下すると、大垣市役所牧田支所の隣にある琳光寺に立ち寄った。 鳥頭坂からさらに2km程下った琳光寺の境内には、豊久に続く捨てがまり戦法で、徳川勢の追撃を断念させ絶命した長寿院盛淳が葬られている。

鳥頭坂からさらに2kmの琳光寺、追撃を食い止めた長寿院盛淳の墓がある


 琳光寺の山門をくぐり境内に入ると、本堂の傍らに子孫らが建立した供養碑があり、その奥に長寿院盛淳の墓がある。 自然石を積み上げただけの質素な墓だが、それがかえって凄惨な合戦中に埋葬された生々しい状況を伝えている。 盛淳の墓標の周りに積まれた石は、盛淳と共に討死した家臣達の墓標とのことである。

大正時代に建立された供養碑、その奥に自然石が積まれた長寿院敦盛と家臣の墓標


 琳光寺を後にしてさらに国道365を南下すると、往路でたどった薩摩カイコウズ街道から分岐して、牧田川に沿った国道365をいなべ市方面へと走り続ける。

 島津豊久や長寿院敦盛の捨て身の防衛線で、徳川勢の追撃を諦めさせた島津義弘隊は、鈴鹿山脈と養老山地の狭間を流れる牧田川に沿って、旧伊勢街道を南下していったと考えられる。 左手に養老山地、右手に鈴鹿山脈を見上げながらクルージングすると、当時も同じ稜線を見上げながら敗走したであろう島津義弘らの姿が浮かんでくるようだ。

 その後国道365から上石津農道(あじさいロード)へと分岐し、農道脇の林の中にある島津豊久の墓と言われる島津塚に立ち寄った。 鳥頭坂で深手を負い義弘らを追った豊久は、琳光寺から10km程下った上石津瑠璃光寺付近で亡くなりここに埋葬されたとされる。 丸十字の旗を目印にZX-6Rを停め林に入ると、長寿院盛淳の墓同様に自然石を積み上げただけの質素な墓があり、後に建てられた立派な碑よりも生々しく合戦当時の様子を伝えている。

  島津豊久の享年30歳の若さは残念ではあるが、平和ボケの日本でアイデンティティも定まらぬ我々に、若いのに可哀そうだなどと言えるはずもない。 人生の意味は死の瞬間にイメージとして現れ、それは積み重ねた生き方によって決まると思っている。 父島津家久や義弘らと共に戦ってきた思い出、島津のために覚悟した捨て身の戦い...戦国武士の価値観まで考えも及ばぬが、豊久が描いていたであろう誇り高い死に様と、それに備えた生き方は推して知るべし。

 第二次世界大戦後の1947年、フランクルが著作「夜と霧」の中で提唱した、人生の意味(創造価値、経験価値、態度価値)は、時代を越えて名を遺した人々の生き様を、ポジティブに学ぶ助けにもなる。

国道365から旧伊勢街道上石津農道へ分岐し、農道沿いの島津塚に立ち寄る


島津塚と称される島津義久の墓、自然石が積まれた質素な墓


 島津豊久と長寿院盛淳らの犠牲で関ケ原から退却した島津義弘は、上石津から牧田川沿いを遡った五僧峠越え、伊勢街道を南下した関からの鈴鹿峠越え、など諸説ある鈴鹿山脈越えのルートをたどり、大阪から海路で薩摩へと生還することとなった。 東軍勢が大阪入りする前に、大阪に滞在していた妻の宰相殿と、義弘の子忠恒の妻亀寿を救出しての帰還である。

 薩摩にたどり着いた藩士は80名とも言われ、その少なさに歴史に残る撤退戦の凄まじさを再認識する。 そして、全滅してもおかしくない状況から生還する島津隊の突破力、一見無謀な正面突破を判断しさらに戦後交渉を妨げる人質の奪還など、鬼島津と恐れられた義弘の采配にも感心する。

 島津豊久や長寿院盛淳らが、当時65歳だった島津義弘を命がけで帰還させたいと思った理由は、叔父や主君への感傷的な忠義心だけでなく、島津存続のために経験豊富な指揮官が必要だと合理的な判断があったと思わせられる。


 島津塚で、島津の退き口にまつわる史跡巡りを終えると、上石津農道から国道365に復帰していなべ市方面へと走り出す。 戦国妄想から舞い戻った煩悩まみれのバイク親父には、観光ツーリングで溜まったライディング欲が湧き上がる。 それを解消しようと、大垣市からいなべ市への市境を越えたところで、いなべ梅林公園方面へ国道365を迂回する県道107に分岐した。

 水嶺湖と鈴養湖の間の峠道を駆け上がり、梅林公園脇を緩やかに下る県道107は、距離にして10km程度のショート・ワインディングだが、古戦場巡りの観光ツーリングをライディングで締めくくるに十分であろう。 県道107の峠越えを走りきって国道365に復帰すると、東海環状自動車道大安ICから名古屋方面へと帰路に着いた。

県道107の峠越えで島津の退き口巡りの旅を終える


 今回実際に、関ケ原古戦場を訪れて島津の退き口の現場に立ち、島津勢の並外れた銃装備と足軽から武士まで銃を撃つ、すなわち勝つための合理性が、不可能と思える撤退戦を成功させたであろうことを実感した。 旅を締めくくるにあたり、島津の退き口、その後の経緯について触れておきたい。

 薩摩に帰還した島津義弘は謹慎と称しながら、無傷の島津本隊を指揮して防衛線の城を固め、かわって16代当主島津義久が家康との戦後交渉にあたることとなった。 島津存続の交渉は1年以上続き、西軍に加担した大名が改易または大きく減封されるなか、島津だけが唯一薩摩・大隅・日向の三州の領主として生き残ることに成功したわけである。  

 家康が争いの長期化を避け島津存続を認めた背景として、戦後交渉当時はまだ大阪城に豊臣秀頼が存在し、旧西軍大名が大勢いる中を長い補給線を引き、薩摩まで攻め込むリスクを冒したくなかった、幕府財源として当てにする南海交易を妨害されたくなかった...等々、色々な軍事背景が挙げられているが、大量の銃装備で信頼する重臣らを死傷させ恐怖を抱かせたことが、家康に島津征服を諦めさせた根底にあるのではなかろうか。

 銃を用いた合理的な戦術思考は薩摩藩へと受け継がれ、幕末には四斤山砲を装備した洋式軍をいち早つくり上げた。 そして、鳥羽伏見の戦いで徳川軍に砲弾を撃ち込み、関ケ原の戦いの復讐を遂げることになる。

 ここまで後の展開を知り、関ケ原の戦いで討死した島津豊久や長寿院盛淳、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士に思いを馳せると、命がけの戦いの先に何を見ていたのか分かるような気がする。 死んでしまえば、その先の本懐を遂げた様など知る由も無いのだが、後の成り行きに関わらず納得の行く態度価値を手に入れたのかもしれぬ。

 平和ボケした現代の日本で、リーマン稼業の傍らバイク道楽に興じる還暦親父。 命がけで己の名を遺す気概など湧くはずも無く、来春の芽吹きの季節に伊吹山を訪れ、新鮮な山菜料理にありつきたいなぁ...などと、煩悩まみれの首が繋がったまま無事旅を終えることとなった。


あとがき


なぜに、島津の退き口か


 昨年還暦を迎えたバイク親父、長年のリーマン稼業も定年の節目を迎え、様々な”撤退戦”が控えるお年頃となった。 ”撤退”とせずに”撤退戦”としたのは、島津の退き口の史跡を巡り、戦う気満々となった親父の意気込みであろうか(笑)。 諦観したふりをして、成り行きの後方撤退を選ぶ道もあったが、己が納得できる創造価値、経験価値、そして態度価値が得られるとは思えず、新たなリーマン稼業のステージで悪あがきを続けてみることにした。

 そして幸いにも、それなりの肩書と処遇を手に入れ、構想していた新しいプロジェクトを立ち上げるに至った。 約束した成果物を提供する責任は問われるが、己の描いたコンセプトを具体化して検証できる、管理業務の頻度も減り本業に集中できる...等々、理想的なステージを準備できたような気がする。

...と、良いことづくめのリーマン稼業を手に入れたようにも聞こえるが、現実はそう甘くない。 例えれば、東軍西軍いずれにも相手にされぬ少数のはれふら隊が、関ケ原の最前線に布陣したばかりという感じだろうか(笑)。 もちろん、最初から撤退戦を前提にしているわけでは無いが、寡兵で大軍を撃破してきた島津隊の合理性や戦い方は、限られたリソースで大組織に対峙する己の境遇のケーススタディーになる。


島津の退き口から学んだこと


  • 何のための戦いか、よりどころになる大義を持つ

 戦後に島津と所領を守るには義弘の力が必要、という島津豊久と長寿院盛淳からの説得で、島津義弘は切腹を思い止まり薩摩への撤退戦を決断する。 撤退するという目先の目標では無く、撤退後の島津存続を大義として共有したことが、不可能とも思える撤退戦を成功させたと思える。 チームをはじめステークホルダと共感できる大義をもつことが目標達成の核となる。 

  • 逆境に立たされた時こそ、正面突破に活路を見出す

 多くの戦国大名が伊吹山方面へ敗走するなか、後方退却してもやられるだけと判断した島津義弘は、家康本隊に向けての正面突破を決断した。 逃げるだけの戦いは背中を晒し追撃を受けるだけになる、防衛を兼ねた正面攻撃を仕掛けることにより、相手にダメージを与えて突破口が見えてくる。

  • 精神力だけでは突破できない、勝ち貫けるための武器が必要

 島津軍は皆「腰さし鉄砲」を装備し、他軍から見れば異様なほどの火力を持っていた。 それにより、敵中突破を果たすだけでなく井伊直政ら家康側近の大将に致命傷を与えた。 敵にダメージを与え戦いに勝つためには、敵に勝る物理的/心理的武器を用意しておかなければならない。

  • 既存枠にとらわれず、合理的に勝てる道筋を描く

 飛び道具は卑怯なので足軽だけが装備していた時代に、島津軍は足軽から侍まで全員が銃を装備し銃撃する合理性を持っていた。

 自分の仕事の範囲や前例などの枠にとらわれず、ゼロベースで目的を達する道筋を描く。 正解は無いのでやってみる、必要に応じて修正する。

 また、現在のリーマン業界でも、部下や委託先にあれこれと指示を出すだけ...何て光景はよく見る。 構想にしろ、実践にしろ、己の付加価値が何なのか、自分にも周りにも問いかける必要がある。

  • 優位に立つ相手の油断や隙を攻める

 島津軍は少数の兵で兵数に勝る相手を撃破する、「釣り野伏せ」という戦法を得意にしていた。 具体的なやり方は色々あるのだろうが...えげつない話になるのでやめておく(笑)。 相手の肩書や己のリソースを前提に、合理的な思考が止まらぬようにしたいところである。 戦国合戦あるいはリーマン合戦いずれにしろ、大軍に寡兵で臨む難易度は高くリスクが付きまとうので、それなりの経験と覚悟が必要なのかもしれぬ。

  • 最後には、共に逆境を乗り越えた仲間が助けになる。

 島津義弘と共に戦ってきた、島津豊久と長寿院盛淳が合戦に志願し、命を捨て義弘を生還させた。 肩書や利害だけに興味がある人達は、本当に困った時にはいつの間にかいなくなる、場合によっては敵になると考えた方が良い。 立場を越えて最後に助けてくれるのは、共に逆境を乗り越えた信頼できる仲間である。 義弘隊の銃弾を受けた井伊直政が、戦後交渉の仲介に尽力してくれたように、時にそれは、尊敬しあえる敵にも当てはまる。


ツーリング情報


若いぶき  滋賀県米原市伊吹1840 (電話)0749-58-8080

関ケ原観光ガイド(関ケ原観光協会)  岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1167-1 (電話)0584-43-1600

伊吹山ドライブウェイ(管理事務所)  岐阜県不破郡関ケ原町寺谷1586 (電話)0584-43-1155


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