2021/09/13 犬山城から小牧長久手の戦いをたどる(尾張パークウエイ、松野屋)

 昨年十月、未曽有のコロナ禍で暮らしが一変する中、還暦を迎えると同時に受けたガン宣告...あれから一年が経とうとしている。 幸いなことに、選択した陽子線治療の結果は良好で経過観察の身の上、この日も治療を受けた陽子線科で定期検査を受けることになった。

 そして、緊急事態宣言で不要不急の外出自粛が要請される中、酔狂なバイク親父は貴重なライディングの機会を逃すまいと、ZX-6Rに乗り名古屋市内の病院へと走り出すことにした。 良好な検査結果の手土産が前提ではあるが、その帰り道、小牧長久手の戦いゆかりの地を巡る目論見なのである。

 さてそのルート、先ずは徳川家康が戦いの拠点とした小牧山城跡に立ち寄り、続いて羽柴秀吉が拠点とした犬山城を経由し、長久手古戦場、そして山崎城址へと、羽柴方が岡崎城に向けて進軍した戦いの軌跡をたどる行程である。 コロナ禍の緊急事態宣言下ゆえ、経由地の資料館など観光施設には立ち寄らず、遠巻きに史跡を眺めるショートツーリングとなった。

 小牧長久手の戦いは、豊臣秀吉と徳川家康が唯一戦った合戦として知られているが、どちらが勝者だったのか議論が分かれる戦いである。 その背景には、分かりやすく相手の首を奪い合うだけでは片が付かぬ、天下統一を前に殺された織田信長の後継をめぐる駆け引きがあるのだ。

 私事ながら、還暦を迎えてガン治療とともに没頭したのは、定年を迎えてリセットしたリーマン稼業。 やりきった感のある定年前の仕事を清算して、永年温めた新しいプロジェクト立ち上げることにした次第である...っと、目論むのは勝手だが、成り行きでは退職金を貰って”クビ”、自由契約の身の上(笑)。 新たなプロジェクトを立ち上げるために必要な肩書と、やる気になれるそれなりの処遇を手に入れるところからの挑戦となった。

 今回戦いの経緯をたどった小牧長久手の戦いには、還暦親父の新たなキャリア作りに限らず、リーマン稼業で己の志を実現するためのヒントが見え隠れする。 特に、人心掌握に長け大軍を動かす軍事の天才、秀吉の立ち回りには気づきを得ることが多い。 還暦リーマン親父のジタバタぶりなど、リアル命がけの戦国武将に比べるべくも無いが、失敗するとクビを刈られる境遇は同じなのである(笑)。

城下町の混雑を避け、遠巻きに木曽川越しの犬山城を望む


ルート概要

小牧山史跡公園-県197→弥生町-国41(名濃バイパス)→五郎丸-県27→犬山駅西-県183→松野屋-県183→四日市-市道(木曽川南岸)→ライン大橋-県95(木曽川北岸)→犬山橋(ツインブリッジ)-県27→犬山遊園駅西-県185(木曽川南岸)→氷室-市道→宮林-市道→犬山IC-県461(尾張パークウエイ)→今井南IC-県49(入鹿池)→小牧東IC-中央道→小牧JCT-東名高速→名古屋IC-県6→長久手古戦場公園-県57→岩崎城址公園

ツーリングレポー

 定期検査を終えてみると、陽子線照射で細胞死したガンは再発の気配無く、腫瘍マーカーなどの血液検査も全て正常であった。 型通りの治療ガイドラインの枠を越えて、再発転移リスクと対策の話し合いに、腹落ちするまで付き合ってくれた陽子線科の主治医には感謝するばかり。 その結果の経過観察ゆえに、目先の結果に一喜一憂することなく、淡々と過ごせる日常が存在するのである。  

 さて、造影剤を代謝するための水をあおり会計を済ませると、塩梅よく縮み上がっガン細胞と共に走り出すことにした。 ライディングが云々と語るに足りぬ街中ツーリングだが、コロナ禍にあって人に接することなく移動し、混雑する観光地も路側から眺められるのも、オートバイの機動力のおかげであろう。

 そしてまずは予定通り、家康方が拠点とした小牧山城を訪れることにした。 名古屋市北区の病院から国道41を北上して庄内川を渡り、名古屋高速楠JCTを過ぎて東名高速道路小牧ICが近づくと、視界が開けた路側から小牧山城跡に建つ模擬天守が目に留まった。

 小牧山城は、1563年に織田信長がゼロから築いたはじめての城である。 中世城郭が、曲輪を幾重にも重ね、空堀や土塁で守りを固めた”土の城”であったのに対し、近代城郭の先駆けとなった小牧山城は、尾張地方で初めて築かれた”石垣の城”である

 小牧山城築城に際し信長は、美濃斎藤氏攻略だけでなく経済の活性化を図るために、本丸と山麓を居住空間とし、城周辺に武家屋敷を配し、さらにその周りに商人や職人の城下町をつくった。 濃尾平野に浮かぶような標高85.9mの小牧山、その山頂にそそり立つ石垣の城を敵や城下に示し、信長の権力や先進性を示したかったわけである。

 城下町から見上げる石垣の城を妄想しようと、小牧山城跡を見通せる場所に移動するも...「驚安の殿堂 MEGAドンキ」のド派手な看板に威圧される模擬天守(笑)。 ちと興ざめした感もあり、小牧山城跡公園駐車場の傍らにZX-6Rを待たせ、現在も発掘が続く石垣越しに模擬天守を見上げてゆくことにした。

 信長は、小牧山城築城四年後には斎藤氏攻略を果たし、稲葉山城を岐阜城と改めて大改修を施した。 それが、本格的な近代城郭の始まり安土城の築城へと繋がって行く。


「驚安の殿堂 MEGAドンキ」のド派手な看板に威圧される小牧山城模擬天守(笑)


発掘が続く史跡小牧山城跡の石垣、土の城から石垣の城への先駆け



 人もまばらな小牧山城跡を散策してひと汗かくと、家康方の拠点だった小牧山城跡を後にして、秀吉方の拠点だった犬山城へと向かうことにした。 遅ればせながら、ここで小牧長久手の戦いのあらましに触れておきたい。 簡単に言うと、1582年6月2日の本能寺の変で、織田信長と嫡男信忠が明智光秀に殺され、天下統一を目の前に控えた織田家と家臣の跡継ぎ争いが、織田家と同盟を結んでいた家康との戦に飛び火したものである。

 信長の死後、備中高松城で毛利氏を攻めていた羽柴秀吉が、”中国大返し”と呼ばれる京への大行軍を敢行し、6月13日山崎の戦いで光秀の首を取ったことはよく知られている。 6月27日の清須会議では、織田家の四宿老、柴田勝家、丹羽長秀、池田恒興、そして羽柴秀吉が参加し、信忠の遺児三法子(秀信)を跡継ぎにして、信長の次男信雄、三男信孝、四宿老、そして家康の7名が支えるという体制が話し合われた...がっ、その後、羽柴秀吉と柴田勝家の天下争奪戦が顕在化し、山崎の戦いにも駆け付けた宿老丹羽長秀、池田恒興は秀吉方につくこととなった。

 その後、信雄を織田家後継に擁立した秀吉は、1583年4月賤ケ岳の戦いで信孝を擁立した勝家軍を破り、敗走した勝家を北ノ庄城で自刃に追い込んだ。 また、勝家に担がれた信孝も、信雄により自害させられることになった。 その後秀吉は、大阪城の築城をはじめ大阪遷都の準備にかかり、多くの織田家家臣や大名が秀吉の天下取りになびきだす。

 そんな中、秀吉から織田家跡継ぎに担がれていた信雄が、「このままじゃ、親父の財産を全部秀吉に持っていかれる」と、家康に助けを求めたのが小牧長久手の戦いの背景。 1584年3月、信雄は秀吉に通じた家老3人を殺して秀吉と断交し、清須城で浜松城から駆け付けた家康と合流すると、小牧山に本陣砦を築き打倒秀吉の拠点とした。

 秀吉は、手に入れた光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、さらに胴体と繋ぎ合わせて粟田口で磔にまでした。 明智光秀が天下の大罪人で、羽柴秀吉が主君の仇を討った...というプロバガンダのためだろう。 しかし、信雄が家康に泣きついた局面を客観的に見ると、秀吉が天下の大罪人明智光秀の後釜に座り、主君の権力を簒奪している構図になる。 一方、家康にしてみれば、信長時代からの恩義を忘れず跡継ぎ信雄の手助けをする大義を示せるわけだ。

 体裁の悪い秀吉は、「若輩の信雄をそそのかして家老三人を斬った家康を成敗する」の体で出陣を命じ、秀吉方に付いた池田恒興が奪った犬山城に大軍を率いて入城し、小牧長久手の戦いが始まった。 1万7000程度の信雄・家康連合軍に対し、秀吉軍は10万とも言われる圧倒的な兵力を有しながら、野戦陣地を築いて小競り合いを続けることになったのは、天下統一に向けた人心掌握のため、織田家跡継ぎの信雄を安易に殺せぬ事情があったのだ。

...少しばかりややこしいことを考えていると腹がすくものである(笑)。 早朝からの検査を終えて小牧山にたどり着いたのは既に昼時、国道41名濃バイパスから県道27に分岐して犬山市街に入ると、明治創業のでんがく専門店「松野屋」に立ち寄ることにした...っが、コロナ禍の緊急事態宣言で臨時休業の貼り紙を見つける(泣)。 凝縮した旨味が香ばしく焼かれたでんがくはもちろん、季節の青菜で和えられる絶妙な塩味の菜飯、緊急事態宣言が終了して営業再開したら訪れてほしい老舗である。

 県内の、野外散策が可能な観光地や郊外の道の駅は、長引く県境跨ぎ自粛で行き場の無い家族ずれなどで大賑わい。 趣向を凝らした店がならび食べ歩きが可能な犬山城下町も、コロナ禍以前にも増して大勢の観光客で溢れかえっている。 混雑する通りからは外れてはいるが、老舗でんがく屋の休業判断も妥当だなと、店の脇の自販機で水分補給を済ませ飯抜きで帰路に着くことにした。


明治創業でんがく専門店「松野屋」、コロナ禍で臨時休業中


コロナ禍の臨時休業でお目当ての菜めしでんがくはお預け(2009年撮影)


 松野屋から県道183に走り出すと、ほどなく木曽川南岸につきあたり、ライン大橋で対岸の県道95に渡った。 ライン大橋と犬山橋を繋ぐ木曽川北岸はお気に入りのビューポイント、天然要害に守られた犬山城を木曽川越しに望むことが出来る。 四輪が安全に停車できる路側スペースは見当たらず、車上からこの景色を楽しめるのはバイク旅のありがたさ。

 ところで、犬山城は織田信長の叔父信康が室町時代1537年に築いた城、1935年には国宝に指定された現存する最古の天守閣。 廃藩置県で取り壊されたり戦災で焼失した城が多いなか、オリジナルの天守が維持保存されているのは奇跡に近い。


木曽川の天然要害越しに国宝犬山城を望む、現存する日本最古の城


 秀吉にとって、織田家の跡継ぎを振りかざす信雄をむやみに殺すと、己が大罪人に仕立てた明智光秀と同じ立場になってしまうのは前述の通り。 天下簒奪のための人心掌握を目論む秀吉にとっては何とも悩ましいところである。

 一方、この戦いに際しての家康側のモチベーションを考えてみると...織田家跡継ぎの信雄を、織田家と同盟を結ぶ家康が助ける”大義”は十分である。 見返りとして、三河、遠江、駿河に加え、信長と共に武田氏を滅ぼして手に入れた甲斐と信濃の既得権、そして天下人を簒奪する秀吉に対する発言権を確保できれば十分だったのだろう。  秀吉との全面戦争を避けた局地戦で、秀吉軍を追い返して実力を見せれば良いのである。

 秀吉も家康も、本気で首を取り合うつもりがなく、正面衝突を避けたいわけだから、両軍野戦砦にこもっての睨み合いが続く結果になるのは当然のことだったのかもしれぬ。

 なんとも微妙な合戦であるが、現場が常に命がけであることに変わりない(笑)。 池田恒興と森永可が秀吉に提案したとされる、三河中入りで小牧長久手の戦いが動き出すこととなった。 「中入り」というのは奇襲作戦のひとつ、小牧山城の背後をついて家康の拠点岡崎城を攻めてかく乱する目論見である。

 それではこれから、犬山城から小牧山城の東を抜けて長久手古戦場へ、さらに岡崎城に向けて岩崎城へ、1584年4月6日~9日に渡る、秀吉方の三河中入れ作戦と家康方の追撃の軌跡をたどることにする。 犬山城の眺めを後にして犬山橋で木曽川を渡ると、名鉄犬山遊園駅の脇を抜けた木曽川南岸を走り継ぎ、尾張パークウエイ(県461)へと駆け出した。

  尾張パークウェイは2008年に無料化された観光道路、飛騨木曽川国定公園に位置する全長7.7kmは起伏に富んだ快走ルートである。 無料化された現在でもよく整備され、今回の行程で唯一ツーリングルートらしき区間、少しだけ腰を入れて荷重移動を楽しんでみる。 尾張パークウエイを走りきった入鹿池では、冬場のワカサギ釣りの下見を兼ねて、湖畔を流してみるのも良さ気である。

 さて、尾張パークウエイをあっというまに走りきると、中央道小牧東インターへと駆け上がり、秀吉方の三河中入りを家康方が追撃した長久手古戦場に向かうことにした。


飛騨木曽川国定公園を走る尾張パークウエイ、起伏に富んだ快走ルート


 中央道小牧東インターから東名高速道名古屋インターまで走り継げば、長久手古戦場は目と鼻の先である。 猿投グリーンロードへと繋がる県道6を瀬戸方面へと走ると、程なく長久手古戦場公園にたどりついた。 公園内には小さな資料館があり、戦いの布陣を再現したジオラマや解説板などが用意されているが、今回は公園入口に立つ古戦場公園石柱脇にZX-6Rを停め戦いの妄想にふける。


 史跡長久手古戦場公園、戦死した池田恒興・元助親子の塚がある


 さて、三河中入り作戦で岡崎城攻略にむかった秀吉側の軍勢は、第1隊が池田恒興・元助親子、第2隊が森長可、第3隊が堀秀政、第4隊が総大将の三好秀次、総勢約24,000の大部隊である。 しかし、奇襲作戦の目論見もむなしく秀次軍の動きは完全に捕捉されており、家康軍は小牧山城に酒井忠次・石川数正・本田忠勝を残し全軍で追撃に向かった。 そもそも、尾張・三河に地の利がある家康・信雄の目前で、それだけの大軍をひそかに動かすに無理がある様な気がするが...

 その結果、しんがりの三好秀次は家康軍の逆奇襲に遭って敗走し、掘秀政は追撃に気付き先鋒を破るも戦線離脱してしまった。 さらに、三河中入り先鋒の池田恒興・元助親子は、進軍途上の岩崎城を落としたところで秀次の敗走を知り、援軍に折り返した長久手で森長可とともに討ち死にすることになった。

 このように、4月6日から9日に至る三好秀次を総大将とした中入り作戦の結末は、家康の追撃を受けて失敗に終わる。 秀吉方は、重臣池田恒興・元助親子、森長可を失うが全体の戦況に変わりはなく、早々に小牧山城に帰還した家康と秀吉の睨み合いはさらに続くことになる。 小牧長久手の戦いの結末がどうなるのか? その応えは後に譲るとして、池田恒興が三河中入りの先鋒として落城させた岩崎城を訪ねてみることにした。

 長久手古戦場公園を後にして、県道57を豊明方面に走り日進市に入ると、左手に岩崎城址の案内看板が目に入った。 岩崎城址に建つ現在の模擬天守は、1987年に地域住民の寄付で建築されたもので、よく手入れされた手作り感あふれる施設からは、今も地元に大切にされる史跡であることがうかがえる。 この日は、コロナウイルス感染防止のため臨時休館中だったが、模擬天守や隣接する歴史記念館も入場無料なのがありがたい。

 合戦当時、城主の丹羽氏次は家康方として戦いに参戦し、若干16才の弟、氏重が200名ほどの家臣とともに城の留守を預かっていた。 そして、中入り作戦の第1隊池田恒興・元助親子が岩崎城にさしかかると、進軍に気付いた氏重が討死覚悟の攻撃を仕掛けたのである。

 当初岩崎城をやり過ごし進軍する予定だった池田恒興だが、反撃に転じると氏重はじめ岩崎城を守る家臣は皆討死することとなった。 その間に家康の追撃隊が最後尾の三好隊に追いつき急襲を仕掛け、劣勢となった秀次の援軍に向かった池田恒興・元助親子は、長久手で討死したのは前述の通りである。


池田恒興軍が丹羽氏重に三河中入れを足止めされた岩崎城、模擬天守


 岩崎城址でツーリングの行程を走り終えた最後に、再び秀吉方と家康方の睨み合いになった小牧長久手の戦いの結末がどうなったのか触れておきたい。

 秀吉は小牧山の戦線が膠着していることを利用して、余剰兵力を用いて信雄の所領伊勢に侵攻する。 その後ろ盾として、位階を持たぬ平民だった秀吉は、10月はじめには正親町天皇から信雄を上回る官位をもらった。 一年後には天皇補佐役の関白の座にまで上り詰め、天皇の勅命に従わぬ諸大名を成敗する大義を手に入れた訳である。

 小牧山で秀吉と対峙して何もできず、所領の城が落とされてゆく状況に耐えられなくなった信雄は、11月に秀吉との講和を単独で受け入れてしまう。 講和と言っても、伊勢、伊賀、尾張の所領のうち、伊勢と伊賀の一部を秀吉に割譲した事実上の降伏である。 秀吉は思惑通り、天下簒奪の障壁信雄を排除したのである。

  一方、頼ってきた織田信勝が和睦して、争う大義を無くした家康も講和に応じることになった。 講和に際し、相模の北条氏との同盟もちらつかせながら、秀吉軍と対等にやり合った実績を活かし、本能寺の変3か月前に空席となった甲斐・信濃の既得権を手に入れた。 長宗我部氏や島津氏のように、理不尽な領土割譲等を要求されることも無く、思惑通りに、他の大名とは異なる待遇を得て臣従に傾くことになったのである。


 大将同士が首の取り合いをするつもりがない戦の結末としては納得がゆくものである。 それどころか、小牧山、長久手、そして岩崎城の争いそのものが無駄に思えてしまう。 リーマン親父が身につまされるのは、そんな戦いで討死した、秀吉方池田恒興・元助親子、森長可、そして全滅した岩崎城丹羽氏重と家臣、”現場は常に命がけ”の身の上である。

 戦国武将としては潔い死に様を後世に残す機を得た、と言えるのかもしれぬが、リーマン稼業の身の上で学ぶべきことは多いと感じる。 現代のリーマン稼業で命まで取られることは無いと思うが、現場がバカを見る状況は頻繁に起こりうる。 大局を見極めてそもそもの目的が何なのか?自分なりに情報を集め、撤退の節目を決めた仮説検証のプロセスを腹に持つ必要がある。 秀吉や家康のように天下統一の素養と経験をもったリーダーの思惑まで見極めるのは難しいかもしれぬが、単視眼な上司の指示に過剰な期待を持たぬ方が得策である。


 さてさて、新型コロナの緊急事態宣言の中、病院帰りの回り道ツーリングを無事終えることとなった。 戦国史に残る史跡を巡りながら、観光施設や老舗の食事処に立ち寄ることは叶わなかったが、地元の歴史をふりかえる良い機会になった。 何より、八方塞がりの自粛生活や味気ない病院通いの気分転換になった。 やはり、還暦親父の気持ちも立て直すオートバイの高揚力は計り知れない。

 このレポートをアップする頃には緊急事態も解除され、感染対策前提ながら旅先のお立ち寄りも可能になっていることだろう。 小牧メナード美術館のマルク・シャガール、国宝犬山城の軋む階段、長久手トヨタ博物館の懐かしい昭和の車...心に刷り込みたい景色は尽きることは無い。 寝て起きて、食って排泄して、それ以外は不要不急という概念は既に破綻している。


あとがき


 豊臣秀吉が一般人から天下人まで上り詰めた理由に、”人たらし”とまで呼ばれた人心掌握力が挙げられる。 その人心掌握力で大軍を組織し操るのが、軍事の天才秀吉の根幹と言っても過言では無いだろう。

 織田家の家督を争った弟信行を清須城でだまし討ちにした信長ならば、世間体など気にせずにごねる織田信雄を速攻で殺していただろう。 いざとなったら命を投げ出す三河武士を有する家康ならば、家臣を操るための気配りに秀吉ほど心をくだく必要もなかったのかもしれぬ。 身分の後ろ盾や家臣を持たぬ秀吉が、人心掌握力にこだわるのは、成り上がるための必然だったと思える。

 そして、今回紹介した小牧長久手の戦いにおいても、史実や逸話の端々に秀吉の人心掌握術が垣間見える。 冒頭に触れた、再雇用親父の新プロジェクト立ち上げにかかわらず、日頃のリーマン稼業に役に立つ情報が詰まっている。 あとがきとして、親父が気づいたヒントをいくつか紹介してみたい。


仮の上司

 秀吉は、家督継承を振りかざす織田信雄を排除するために、信雄を上回る官位を天皇から貰った。 より大局をみた社会貢献や事業貢献、抜本的な課題解決を志す場合、直属上司が志の妨げになることは頻繁んに起こりうる。 そのためにも、最低でも一段飛ばしの上司を後ろ盾として確保しておいた方が良い。 当然だが、その目線での大義や成果物を企画し提供できねばならぬ。 一段飛ばしの後ろ盾が確保出来たら、直属上司は仮の上司となり、目線が高い志を妨げることは出来なくなる。

 もちろん、志を共有した上司であればむりに後ろ盾を用意する必要は無いが、骨をうずめる覚悟で追い続けるのか、状況に応じて乗り換えてゆくのか、どこかで腹をくくる必要がある。 小生も、有能で尊敬する上司の後ろ盾に恵まれてきたが、大人の事情で退場してしまうのはリーマン社会の厳しさ。 最後は運任せの部分はあるが、日和らずに志を貫いておけば、創造した価値、経験した価値、そしてリーマン人生を終える態度に、誇りと自信が持てる。


共感の巻き込み

 秀吉は、織田信長の死後、中国大返しでいち早く京へ上り、四大老の二人池田恒興、丹羽長秀を巻き込み、総大将として明智光秀を討伐した。 その後、主君の弔い合戦を共に戦ったその二人を味方に付け、清須会議で信長の後継者の話し合いを主導した。 さらに、秀吉と対立した残る四宿老の一人柴田勝家との賤ケ岳の戦い、織田信雄との小牧長久手の戦いにも、秀吉軍として参戦させた。

 現代のリーマン社会においても、国の枠を超えて義理人情浪花節の世界は存在する。 特に、共通の価値観で苦しい壁を乗り越えた仲間との経験は、リーマン人生の記憶に刷り込まれ消えることは無い。 その経験の積み重ねは過去のものでは無く、きっと将来の志実現の助けになる。 組織やステークホルダが目まぐるしく変わる世の中だが、職種や専門分野、職位に関わらず、積み重ねた経験と繋がりが役立つときは必ず訪れる。


プロバガンダ

 秀吉は、山崎の戦いで討ち取った明智光秀の首を本能寺の焼け跡に晒し、さらに首と遺骸をつないで粟田口で磔にした。 天下簒奪にむけて、信長・信忠亡き後を引き継ぐ覚悟と、羽柴秀吉のプレゼンスを世の中に示したのである。

 多くの組織が関わるプロジェクトや業務を円滑に起動し回すためには、それにかかわる全てのメンバーと何を成し遂げたいのか共感を得る必要がある。 組織の長やサブプロジェクトのリーダを介した伝言ゲームでは、その志は十分に伝わらないと考えた方が無難である。 晒し首や磔とまでいかないが(笑)、今時の情報発信手段を駆使すれば、効果的なプロバガンダも可能であろう。 当然ながら、キーとなるステークホルダへの根回しが前提となる。


敵の排除

 秀吉は、天下簒奪を争う四宿老の一人柴田勝家を、賤ケ岳の戦いで破り自刃させた。 リーマン稼業のステークホルダとの間に、多少の利害得失が存在するのは当然のことである。  

 しかし、基本的な考え方の違いや許容できないリスクが存在する場合、どんなに優秀な戦力であっても早々に切り捨てる必要がある。 または、関わらずに目的を達する道筋を模索する必要がある。 ”話せばわかる”というが大ウソであることは、私がしくじりを力説するよりも養老孟子著「バカの壁」を参照いただきたい。  


 てなややこしいことを、常に考えながらリーマン稼業を営んでいる訳でなないが、小牧長久手の戦いをたどり思い返せば、そうだったかなぁという感じである。 動画全盛のこの時代、長々とクドイ文章に付き合っていただいた方々の一助になれば有り難い。

 昨年還暦を迎えて定年を迎えると共に受けたガン宣告、それと同時に志したプロジェクトの立ち上げも、何とか必要な肩書を手に入れ立ち上げ終えてところである。 個々の課題は山積みだが、治療と仕事が足を引っ張り合うのではなく、補い合うことで自分が生きる意味をみつけたいと思う気持ちは変わっていない。 もちろん、オートバイの旅もそれらを繋ぐ大切なピースであることは間違いない。


ツーリング情報


史跡小牧山  愛知県小牧市堀の内一丁目1番地 小牧市歴史館 (電話) 0568-72-0712

国宝犬山城  愛知県犬山市犬山北古券65-2 (電話)0568-61-1711

松野屋  愛知県犬山市犬山北首塚28-1 (電話)0568-61-2417

長久手古戦場  長久手市武蔵塚204 (電話)0561-62-6230  


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