2021/04/03 長篠設楽原の戦いと田峯城外伝(三河猪家)

 2021年の年明け早々、新型コロナウイルス感染拡大に伴う緊急事態宣言の発出に伴い、不要不急の外出自粛要請に応えツーリングを控えることにした。 そして何とか、宣言解除後に始まった愛知県独自の厳重警戒処置期間も終了し、満開の桜が散る前にZX-6Rと共に走り出すことが叶った次第である。 もとより、三密とは無縁のオートバイツーリングではあるが、不織布マスクとアルコール消毒剤を携帯する日常とともに、まずは愛知県内の旅へと独り静かに走り出す。

 目指したのは、新城にある長篠設楽原の戦い(1575年)の合戦地、徳川家康と織田信長の連合軍が、信玄亡き後に武田軍を率いる武田勝頼を破った舞台である。 この戦いが武田氏滅亡のきっかけとなっただけでなく、室町幕府将軍足利義昭の信長討伐令に応えた勢力は排除され、信長が天下人としての地位を引き継ぐことになった。

 豊川の上流、寒狭川と宇連川合流点の断崖に囲まれた長篠城址は、きっと満開の桜におおわれていることだろう。 今も残る当時の地形に戦いの様を想像してみると、徳川家康、織田信長だけでなく、勝頼に生き様を託しきれなかった武田信玄の無念さまで感じることが出来そうだ。

 さらに、長篠設楽原の合戦地から豊川沿いを遡り、田峯菅沼氏が徳川方と武田方に分かれ争うこととなった田峯城址に立ち寄ることにした。 天下泰平?となった世の中ではあるが、戦国時代の凄惨な内紛劇に現代のビジネス合戦との共通点が見え隠れ、引退間際のリーマン親父が伝えておくべきは多いと感じる次第である。


ルート概要

東海環状道豊田松平IC―国301→竹生神社南西-県21→三河猪家-市道→新栄-国151→新東名新城IC-国151→清井田-県439→牛渕橋(豊川)-県439-文化橋(宇連川)→飯田線長篠城駅→長篠城址-国151→設楽原歴史資料館南-市道→柳田橋(連吾川)→設楽原決戦場(馬防柵)-市道-県21→新城総合公園-国257→長楽-県436→玖老勢-県32-県389(稲目トンネル)→田峯-国257→新清嶺橋(手前上る)→田峯観音、田峯城-国257→押川大滝-県356→小渡-県11→西広瀬町-県355→勘八町勘八-国153→東海環状道豊田勘八IC



ツーリングレポート

 緊急事態宣言明けを待ち約3か月ぶりのライディングである。 久しぶりに、奥三河ツーリングの起点となる東海環状道豊田松平インターを駆け下りると、ツーリング自粛中に開通した国道301松平バイパスを新城方面へと駆け上がった。 予報によると、日中の気温は20℃近くまで上がりそうだ、レザージャケットで気持ちよく風を切れる季節の到来である。

 そして、国道301へと走り出して程なく、徳川氏の前身松平氏発祥の地である松平郷にさしかかったところで、松平家初代親氏と徳川家康を祀る松平東照宮に立ち寄り、旅の安全をお願いして行くことにした。

 ところで、古戦場巡りに勤しむバイク親父にはお馴染みの”戦国時代”、何気なく使う言葉だがその定義には諸説あるらしい。

 1476年の応仁の乱以降、室町幕府の守護大名による統治機能が衰退し、戦国大名による国の奪い合いが頻発した乱世。 1573年に織田信長が足利義昭を京都から追放し室町幕府が滅亡までとも言われるが、その後の豊臣秀吉の天下統一後も争いは絶えず、徳川家康が江戸幕府を開くまでという説もある。 いずれにしろ、“戦国時代”を最後まで生き抜いた家康の足跡をたどれば、戦国時代の様々な戦いを俯瞰して理解する助けになりそうだ。

 早速だが、徳川家康が戦国大名として登場するまでの経緯に触れてみたい。 尾張の織田氏と遠江の今川氏の狭間で、板挟みの戦いを強いられていた三河の松平氏。 8代当主の松平広忠は、今川義元の後ろ盾を得て三河を掌握して岡崎城に入り、その代償として嫡男の家康6歳が今川方の人質に取られることとなった。 しかし、駿府に向かう途上の家康は、織田信秀に連れ去られ尾張で2年の人質となり、その後さらに今川義元に奪い返され12年の人質生活を送ることになる。

 そして19歳になった家康は、1560年の桶狭間の戦いに今川方として初陣参戦し、今川義元が織田信長に討ち取られ人質暮らしを終えることになった。 岡崎城に復帰した家康は、織田信長と同盟を結んで三河国を統一し、遠江へと領地を広げ浜松城に拠点を移して徳川を名乗るようになる。

 今回古戦場をめぐる長篠設楽原の戦い(1575年)は、今川氏の衰退と共に駿河、遠江、そして三河へも侵攻してきた武田氏との争いである。 三方ヶ原の戦い(1573年)で武田信玄に大敗した家康と信長の同盟軍だが、信玄の病死で武田軍は甲斐に引き返すこととなった。

 その後、信玄の後を継いだ勝頼が武田軍1万5千を率いて再侵攻し、徳川方に寝返った奥平貞昌が守る長篠城を攻め、後詰めの徳川・織田軍3万と設楽原で戦うことになった...ツーリングレポートを謳いながら、戦国雑誌の妄想解説のようになってしまった(笑) 古戦場にたどり着く前にレポートが終わってしまいそうなので、ツーリングの話に引き戻したい。

 国道301で作手高原に差しかかると、大勢のバイク乗りで賑わう道の駅を横目に走り続け、豊川沿いに広がる新城の平野部を見下ろしながら、ダイナミックな九十九折れを駆け下りる。 路側を覆う満開の桜を眺めながら下り続けると、新東名高速道路の巨大な橋脚をくぐり菅原道真を祀る竹生神社に差しかかった。


 竹生神社をランドマークに県道21に分岐すると、新城の生活道路として混雑する国道151を迂回する里道で、新城東高校の裏手で営業する三河猪家にたどりついた。 三河猪家は猪肉を販売する精肉店が営む食事処である。 似非戦国マニアのバイク親父の優先順位はまず腹ごしらえ、花より団子、そして古戦場よりしし鍋なのである(笑)。

 ZX-6Rを駐車場に停めて不織布マスクを装着すると、入り口に設置されたアルコールで手指の消毒を終え入店する。 早速、疎らに配置された席に落ち着くと、お目当てのしし鍋定食1,850円也を注文した。 注文をうけた料理長から精肉販売部門にオーダーが飛び、熟練スタッフが猪肉を切り分け運んでくるシステム...言い回しが長いなぁ...簡単に言うと、爺様がたのむと婆様がもってくる(笑)

 固形燃料でグツグツと湧き立つ八丁みそ仕立てのしし鍋、「ふー、ふー」っと吹きながらコクのある出汁をまとった猪肉を噛みしめる。 厚手にスライスされた癖のない猪肉の歯ごたえ、特に甘みを感じる脂はひたすら滋味深く、新型コロナの渦中で無くとも黙食になることだろう。

 三河猪家でしし鍋定食を平らげて会計を済ませると、国道151に合流して長篠方面へと走り出した。 そして、新東名高速道路長篠ICを過ぎたところで県443に分岐し、寒狭川と宇連川の合流地点を臨む牛渕橋に立ち寄ることにした。 豊川に架かる牛渕橋から上流を眺めると、南西面を寒狭川の断崖、南東面を宇連川の断崖に挟まれた、長篠城の要害堅固な構造を見て取れる。 そしてこの時期、長篠城址は期待通り淡い桜色に染まっていた。

 一旦、牛渕橋を渡りきって宇連川上流に架かる文化橋を渡り、牛渕橋から眺めたばかりの満開の桜に覆われる長篠城址に立ち寄ることにした。 現在の長篠城址北面にも堀と土塁の痕跡が残っているが、寒狭川と宇連川の要害に守られた南面に比べ攻略し易いように見える。 実際のところ、武田勝頼も長篠城北側に布陣して籠城する奥平貞昌を攻め落とそうとしていた。

 この奥平貞昌の籠城戦で、兵糧が尽きかけた長篠城から脱出した鳥居強右衛門が、岡崎城の家康に援軍を頼んだ帰路で武田方に捕らえられ、開城を促すと勝頼をだまして磔にされた忠義話は有名である。 既に岡崎城に集結していた信長は家康と共に援軍に向かい、長篠城の西方設楽郷に布陣した。

 そして信長は、布陣した設楽郷と長篠城との中間に位置する設楽原で、堀に見立てた連吾川に沿って”馬防柵”を築いたことが知られている。 設楽原には合戦当時の馬防柵が再現されており、乾堀、馬防柵、そして銃眼つきの土塁の三重の守りだったことがわかる。

 落城寸前の長篠城を目前に救援に向かうでもなく、簡易砦を築いての防衛戦を仕掛ける信長だが、目の前で徳川方の城が落とされるのを見守るしかない家康の心中は推して知るべし。 信長にしてみれば、援軍に駆け付けて家康への義理は果たしたってことだろうが、戦国最強ともいわれる武田軍に野戦を仕掛ける気にはならなかったのかもしれぬ。 

 しかし、歴史は信長の勝手な思惑通りに動き、寒狭川を渡って攻め込んできた武田軍が信長の防衛戦に応じて、敗退することとなったのである。

 「風林火山」の旗指物を掲げ十三篇の孫氏の兵法を実践した信玄ならば、寒狭川と宇連川の要害に守られた地の利で長篠城を落とし、何もできぬ信長と家康を横目にさっさと引き上げていたことだろう。 強力な軍隊を有しながらなお慎重に、外交と調略に始まる戦わずして勝つ戦略を改めて講じるわけである。 武田軍の敗因は、目先に現れた信長の首に釣られた勝頼が、戦いに有利なポジションを捨ててしまったこと、さらに野戦に長けた自軍への過信だったと考えられる。

 一方で、信長側が勝利した理由は、信長の徹底した合理主義と強力な行動力であろう。 長篠の戦いと同時期に信長は、将軍足利義昭の信長討伐令に挙兵した石山本願寺攻めで、籠城する雑賀衆の鉄砲攻撃に手を焼いていた。 そして、手返しが悪く白兵戦では不利な火縄銃が籠城戦では有効なこと、さらに射撃と弾込めを分担した複数の銃を撃ちまわす釣瓶撃ちが効果的であることを学んでいたらしい。

 使えるものは何でも使う合理主義者は、ただちに武田軍1,500丁の倍となる3,000丁の火縄銃を仕入れ、馬防柵による籠城戦と釣瓶撃ちの組み合わせを実戦導入した。 長篠設楽原の戦いにおける信長の戦術は、火力優位の時代のきっかけとなったと言われている。 もっとも、勝頼が欲を掻いて攻めてこなければ、目の前で徳川方の城が落とされるのを眺めているだけの結果になったのだろうが...まあ、信長にとってはそれでもよかった、というのも合理的ではある(笑)

 柵を突破して白兵戦に持ち込めば勝てるはずだと幾度もの波状攻撃を繰り返した武田軍は、機動力の要となる前線で指揮を執る重臣の大半を失い、一万人ともいわれる戦死者を出して壊滅状態となった。 10時間近くに及ぶ激戦で、徳川・織田方も8千人の死者を出したとの史記もあり、指揮官を失っても機能した武田軍の地力が伺える。 何とか甲斐の国まで落ち延びた武田勝頼だが、怖~い上杉謙信も逝った8年後に大軍を率いた信長の追撃を受け、武田家は滅亡してしまうことになった。

 設楽原合戦地を後にして県道20で設楽運動公園脇に抜けると、寒狭川沿いの国道257に合流して上流へと遡り、勝頼が退却したルート沿いにある田峯城址を目指すことにした。 川沿いの狭道区間は快適な県道32に迂回し稲目トンネルを貫ければ、道なりに国道257に再合流することができる。  

 国道257に復帰して寒狭川沿いを遡ると、新清嶺橋の手前で田峯城址へと続く九十九折れに駆け上がった。 1470年に菅沼定信が築城した田峯城、奥三河の代表的な山城は遠江と尾張、そして信州の狭間にあり、今川氏と織田氏、さらに徳川氏と武田氏の勢力争いに巻き込まれてきた。

 今川氏の支配下にあった奥三河で織田氏に寝返った四代目城主の菅沼定継は、今川氏の討伐を受け自刃させられてしまう。 幼かった五代目城主の定忠は、叔父貞直の働きで三河を掌握した徳川家康の後ろ盾を得ることになる。 しかしその後、成長した定忠は三河に侵攻してきた武田氏の調略に乗り家康を裏切ってしまった。

 そして、武田側として長篠の戦に参戦した菅沼定忠は、織田・徳川連合軍に敗れた武田勝頼とともに田峯城に帰還したが...家康に恩義を感じていた叔父の定直に裏切りで追い返されてしまう。 定忠は勝頼とともに信州に一旦敗走し、恨みエネルギーをみっちり蓄えて復習の鬼と化す。 そして、田峯城に舞い戻り夜襲をかけると、老若男女96名の家臣を皆殺し。 地面に埋められた首謀者の首は、ゴリゴリとのこぎり引きにされた。

 その後、定忠は武田勝頼の自害と共に自らも討死し、田峯菅沼さんの本家は断絶ってことになった。 何とも恐ろしい話だが、身内の血みどろの争いってのはよく聞く話、信頼していた部下の裏切りってのがどうにも許せないってのは世の中の常らしい。 現代のリーマン稼業でも、首謀者の首が切られる話に思い当たるところは少なくない。

 現在の田峯城址には、曲輪、土塁、空堀などの遺構が残るが、当時の資料が少なく再現された模擬御殿や大手門は他の中世の山城を模したものである。 駐車場にたどり着くと、満開の桜に覆われた田峯城址を見上げながら、空堀に架かる橋を渡り山城らしい急な斜面をのぼっていった。

 城址に立つ解説板で、血なまぐさい内紛の経緯など知ると、春のひたすらのどかな景色もまた違って見えてくる。 再建された本丸御殿の入場料200円也ってのはちとお高い気もするが、標高350mに建つ物御台からの眺めは素晴らしい。 眼下に見下ろす寒狭川の流れに田峯城が別名蛇頭城と呼ばれた所以を知り、その先には鳳来寺山から平山明神山へ繋がる変化に富んだ稜線を望むことが出来る。

 田峯城址を後にすると田峯小学校の脇を抜け、境内から田峯集落を見下ろす田峯観音に参拝して行くことにした。 さてこの観音様、1470年に菅沼定信が田峯城を築城した際に、城鎮護のため谷高山高勝禅寺を建立して松芽観音菩薩と十二面観音菩薩をまつり、田峰観音と呼ばれるようになったことにはじまる。

 菅沼氏の内紛後もここに暮らす人たちの田峯観音への信仰は続き、1644年に寺が焼失した際には、村人が協力して段戸山から切り出した材木で寺を再建した。 そのときに幕府直轄林の伐採木が交じっていたらしく、怖~い代官様が村人を取り調べのため村に向かったが・・・

 6月だというのに降った大雪で道を阻まれ取調べを断念、村人は盗伐の重罪を免れたという逸話が伝えられている。 季節外れの大雪が降ったのは、村が三軒になっても芝居を奉納するから助けてくれと、村人が観音様に願をかけたおかげだったとのこと。

 その約束通りに、現在も毎年2月の奉納歌舞伎が続けられているが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため今年の一般公開は中止されたようである。 コロナ禍の影響がのどかな山里にまで及んでいるのは残念だが、田峯の暮らしを守ってくれる観音様への信仰を続けている、地元の人達だけで行う神事が本来の姿かもしれぬ。

 参道石段を登り境内から振り返ると、昭和親父のノスタルジーを刺激する田峯小学校の懐かしい校舎越しに、満開の桜に覆われた田峯城址を望むことが出来る。 境内脇にある歌舞伎小屋で演じられる奉納歌舞伎の様子を想像しながら静かな参拝を済ませると、田峯集落から寒狭川沿いの国道257にむけ下って行った。

 国道257に復帰して道なりに走ると、寒狭川沿いから離れて田口の町並みへの駆け上がりとなる。 そして、田口を越えてバンキングを楽しめるコンディションのよい切り返しを駆け上がり、矢作川支流の名倉川にそって緩やかな快走路が始まった。 稲武集落を貫けるとさらに速度が乗る高速コーナーが続くが、移動を兼ねたクルージングと割り切った方が無難であろう。

 やがて国道257が愛知/岐阜県境に差しかかると、県境を越える手前で奥矢作湖南岸を縁取る県道356へと舵を切ることにした。 分岐した県道356のタイトな切り返しで少しばかり足掻いてみるが、雨水が流れ込む沢や川砂採取場ゲート付近では浮き砂も目立ち、メリハリを付けたライディングを心掛けたいところである。

 国道257で岐阜県境を越えて岩村城址まで足を延ばせば、長篠設楽原の戦いの武田軍敗退の影響で信長に磔にされた女城址の物語にたどりつく。 信長が叔母さんを磔にした経緯などに興味は尽きぬが、それはまた先の楽しみにとっておくことにしよう。

 さて、奥矢矢作湖沿いを矢作ダムまで走りきって小渡にたどり着くと、桜に彩られた県道11で矢作川沿いを下り続け、東海環状道豊田勘八インターから名古屋方面へと帰路に着いた。 今回、県をまたぐ移動自粛ルートを探した結果、期せずして東三河を流れる豊川を遡り西三河を流れる矢作川を下る、三河地方を周回する行程をたどることとなった。

 あらためて地元愛知のツーリングルートを探し、土地々々に伝わる歴史や物語にふれてみて、その奥深さに気付かされる旅となった。 また、慌ただしい日常で気が付けば逃してしまう桜の季節、自粛明けの旅は桜に彩られた山里を駆け抜けその美しさに癒される旅ともなった。 レポート中では紹介しきれなかった、長篠城址史跡保存館、設楽原歴史資料館等々、地元愛に満ちた観光施設も多いので、県外へ足を延ばせぬ分旅の行程に組み入れてみるのも良いだろう。 

エピローグ

 長いことリーマン稼業を続けてきたせいか、戦国時代の古戦場で命がけの合戦の痕跡に触れると、現代のビジネス合戦を生き抜くヒントが得られないかと妄想が始まる。 今回の長篠設楽原の戦いを巡る旅でも、徳川家康や織田信長、そして勝頼に託しきれなかった武田信玄の生き様の違いが、戦国大名のポジショニングマップとして浮かび上がってくる...もはや職業病である(笑)。

 次に示すのは、横軸に貢献したい共同体志向があるか否か、縦軸に大局的な戦略的思考があるか否か、をとった戦国大名のポジショニングマップである。 リーマン親父がビジネスシーンで目にしてきた人物像に、聞きかじった戦国大名のイメージを当てはめた妄想であることはご容赦いただくとして、各戦国大名が持っていいたであろう理念(存在する意味)とその実現に向けてとっていたポジショニングに触れてみたい。


  第一象限(共同体志向&戦略思考)の武田信玄は、自国甲斐の繁栄を理念にしていたと考えられる。 現在も甲府盆地で機能している信玄堤の治水工事、甲州法度次第と呼ばれる分国法の制定など、信玄の長期的な国造り政策からもそれが見て取れる。 軍神とよばれた強敵、越後の上杉謙信と20年に渡り戦った川中島の合戦も、北信濃の肥沃な土地を手に入れることが目的であったと聞く。 農地、農民、そして農兵を動員した武田軍からなる甲斐国への貢献、共同体志向が戦国大名としての行動の原動力、合戦の大義だったと感じるのである。

 そして、それら国造りには代を越えた長期的で大局的な政策が必要であり、信玄が孫子の兵法で示される戦略思考に傾倒していたのもうなづける。 戦国最強とも言われる武田軍を率いながら、戦わずして勝つ戦略にこだわり開戦にも慎重だった理由は、己が貢献すべき甲斐国や武田軍を失うリスクを考えていたためだと思える。

 次世代に甲斐を引き継ぐインフラを構築しながら、長篠設楽原の戦いで勝頼が見せた場当たり的な判断で、全てが台無しになってしまった信玄の無念さは推して知るべし。 しかしそれを信玄は知るすべも無し、やりきったという満足感とともに世を去ったと思いたい。


 第三象限(個人志向&戦術思考)の織田信長は、武田信玄と全くの対極に位置する。 信長が朱印に用いていた”天下布武”の宣言は、共同体への貢献などの大義を成す手段ではなく、個人的な天下統一の欲求だったと考える。 そして、「人間五十年...」の人生観と行動力で天下統一に猛進する信長に、信玄のような長期的・大局的な戦略思考は持てなかったのは成り行きであろう。

 しかし、戦術面でそれを補ったのが信長の革新的な合理主義であろう。 従来の手法にとらわれず役に立つものは何でも活用する天才には、「重要な経済拠点を侵略して新しい城下町を創りだす」、「火縄銃をいち早く取り入れ有効な戦法を導入する」等々、現代のM&A経営にも似たワンマン経営者のイメージがだぶる。 家臣の側から見れば、義理人情浪花節が微塵もないシビアな付き合いが要求され、優秀な人材が流出するリスク、しっぺ返しを食らうリスクは今も変わらず。


 第四象限(共同体志向&戦術思考)の徳川家康は、「厭離穢土欣求浄土」の旗印を上げていたことが知られている。 ”煩悩まみれの戦国の世を終わらせ天下泰平の世をつくる”という家康の理念を表すこの言葉は、今川方として参戦した桶狭間の戦いから敗走した大樹寺で、自刃を思い留まるきっかけとなった住職の説法だとされる。

 家康も信長同様に戦略的には武田信玄に及ばぬが、戦術的には天才的謀略家であり、粘り強く勝機を待つ忍耐強さを備えていた。 実家が敵方に寝返った母親とは生き別れ、父親は家臣に謀殺された孤独な身の上で、6~19歳に渡る人質経験がその才能に寄与していたのではなかろうか。

 また、人質時代から苦楽を共にした、酒井忠次、本多忠勝、鳥居元忠ら三河武士との結束は、合戦での突破力だけでなく譜代大名につながる支配体制のもとになった。 親兄弟のだまし打ちが横行した時代に、損得勘定抜きに命を投げ出す共同体の存在は、合戦相手からすれば手に負えなかったであろう。 信長と違って、天下泰平の世をつくるという大義を掲げていたことも、共感を広げる手助けになっていたのではなかろうか。


リーマン親父のポジショニング

 歴史に名を刻んだ戦国大名と比較しようもないが、リーマン稼業を生業としてきた晴れふら親父が共感するのは、武田信玄の生き様である。

 その第一の理由は信玄の戦略思考である。 勝てる仮説をもって戦いに臨むことにより、成り行きの結果に一喜一憂するだけでなく、実現するプロセスを楽しむことができるのではなかろうか。 旨く行こうが行くまいが勝負は時の運、少なくともやることはやったと言える満足感が最大の報酬だと感じる。 また、ビジネス戦略のフレームワークは、自己実現に必要なキャリアやポジションを築くためにも極めて有効なのである。   

 第二の理由は信玄の共同体志向である。 ビジネスの局面で永続的な運命共同体を築くのは難しいかもしれぬ。 しかし、共に仕事する期間に限ったとしても、成し遂げたい志を共有した仲間だから乗り越えられる壁、共有できる達成感は間違いなく存在する。 ビジネス上の成果や報酬ばかりでなく、仲間との感動が己が存在する証として心に刻まれる事にもなる。

 そして今回の旅で、長篠設楽原の戦いの傍らで起こった田峯城の惨劇、城主菅沼定忠が裏切った家臣を皆殺しにした復讐劇を知ることになり、己の理念を明確にした戦略とそれを仲間と共感共有することの重要性を感じた。 うまく行かぬのは世の中の常だが、恨みつらみに苛まれながらの後悔だけは避けたいものである。

 今川氏の後、織田氏、徳川氏、そして武田氏の狭間で揺れ続けた菅沼氏、今どきのリーマン稼業でも、成り行きで遭遇する上司は少なからず存在する。 そんな時、己の理念とのギャップを考えてしたたかな付き合い方を考えるべきであろう。 露骨な出世欲は限りなく、卑屈な人間関係に名を連ねても、その末路は大体のところ想像できる。 天下の席取りゲームを横目に、共感貢献したい仲間のために毅然とした態度がとれる、武田信玄を見習いたい所以である。 


ツーリング情報


三河猪家  愛知県新城市矢部字広見53-5 電話(0536)22-4429


長篠城址史跡保存館  愛知県新城市長篠字市場22番地1 電話(0536)32-0162


設楽原歴史資料館  愛知県新城市竹広字信玄原552 電話(0536)22-0673


田峯城址  愛知県設楽町田峯字城9  電話(0536)64-5505



2コメント

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  • 晴れふら

    2021.05.08 14:56

    @ササこんにちは、ササさん、コメントありがとうございます。 また体調の件ご心配いただき恐縮です、おかげさまで治療から半年が過ぎ、経過を見ながら変わらぬ暮らしを続けております。 何気ない日常の大切さや有り難さが身に染みて、テキストリッチのツーリングレポートがますますくどくなってしまいそうです(笑)。 なかなか収束しないコロナ禍の影響で様々な自粛を強いられる日々ですが、お互い感染には気を付けて二輪旅を楽しみましょう♪  今後ともよろしくお願いいたしますm(_ _)m
  • ササ

    2021.05.08 13:28

    こんばんは。 初めまして「ササ」と申します。 突然のコメント申し訳ありません。 ZRX時代からホームページを拝見させて いただいておりますが、プロフィールを 見てびっくりしました。 思わず会員登録しコメントした次第です。 その後、お加減はいかがでしょうか? 4/11にツーリングレポートが更新されて いましたので、安堵しておりますが。 引き続きご自愛いただきながら、バイク ライフをエンジョイください。 因みに、私の現在のバイクはGSX-S1000F ですが、晴れふらさんの影響を受けてるか もしれません。 本当はR1000に乗りたかったのですが、 年齢的にポジションに耐える自信が無く、 現在の相棒に至りました(笑) しかし、晴れふらさんがZX-6Rに乗り換え られた時は、驚き&感服しました。 ※私は5年後に還暦を迎えます。 また、ホームページを拝見させていただき、コメントさせていただこうと思っております。 よろしくお願いいたします。