2024/07/22 [2/2日目]武田信玄の進軍ルートをたどる:甲斐/信濃/遠江編(信玄堤公園、兵越峠、二俣城跡、うな濱)
武田信玄が徳川家康を破った三方ヶ原の戦いに向けて、武田軍がたどったであろう二つの進軍ルートを想像しながら企画した、遠江を起点に甲斐で折り返す一泊旅の二日目である。
初日の往路では、信玄本隊(22,000)が進軍したであろう甲斐から駿河経由で遠江へ侵攻するルートをイメージし、それを逆にたどる 行程を組み立てた。 信玄本隊の大軍が迅速に移動できる、太平洋沿いの平野部をたどるルートである。
結果的には初日のレポート通りに、新東名高速道路から中部横断道路経由で甲府まで一気に移動して、浮いた時間で道中の美味いものをいただきながら信玄ゆかりの地を巡り、思惑通りのてんこ盛り旅となった。
対して今回レポートする二日目の復路では、山県昌景の別動隊(3,000)が信濃経由で遠江へ南下した、山深い奇襲ルートをイメージしながら組み立てた行程である。 具体的には、甲府から諏訪湖経由で中央道を南下した後、秋葉街道の兵越峠を越えて浜松の二俣城まで南下するルートをたどった。
ちなみに長野県と静岡県の県境に位置する兵越峠では、飯田市南信濃の信州軍と浜松市水窪町の遠江軍による、国境をかけた国盗り綱引き合戦が毎年開催されている。 1967(昭和62)から続くこの地域イベントでは、勝った方が峠に立つ国境の立て札を1mだけ移動して、仮想領地を拡大できるってことになる。 武田軍が実際に兵越峠を越えたかどうかは定かでは無いが、この洒落の効いた地域イベントに敬意を表して経由地に選ぶことにした。
そしてまた兵越峠は、国道152が分断された難所とも呼べる峠越えルートでもある。 中央構造線に沿った崩落性の高い地盤のせいで、青崩峠を貫けるトンネル工事が断念された結果の迂回区間だが、戦国時代の進軍を想像しながら走るには格好のルートかもしれない。
さてさて、二日目の復路でたどった長野から静岡へ酷道峠を越える旅、初日の往路とは対照的に道中の美味いものを味わう余裕は無いかもしれぬ。 甲府駅近くの宿で朝飯をしっかり溜め込み、浜松の二俣城跡にむけた酷道ライディングに集中したいところである。
綱引きで国境を競う兵越峠で長野から静岡への県境を越える
ルート概要
JR甲府駅(武田信玄公の像)-県6→朝日町ガード南-穴切通り→県民文化ホール北-国52→信玄堤公園-国52→赤坂台総合公園入口-市道→道双葉スマートIC(下り)-中央自動車道(八ヶ岳PA、諏訪湖SA)→座光寺スマートIC(下り)-市道-県229→座光寺-県251→国474(小川路峠道路矢筈トンネル)→遠山郷標柱-国152→(青崩峠通行止め標識)-県369→兵越峠-国152→JR水窪駅-国152→二俣城跡-国152→浜松北IC→新東名高速道路(浜松SA)
ツーリングレポート
前日と同様、猛暑日予報と熱中症アラートが発表された二日目、日が高くなる前に街中の移動をすませて山間の峠道に駆け込みたいところである。 そのため未明には起き出して身支度を整えると、ホテルの朝食サービスを待って腹を満たし、通勤渋滞が始まる前の甲府市街へと走り出した。
そして中央自動車道に駆け上がる前に、釜無川(かまなしがわ)に御勅使川(みだいがわ)が合流する竜王町にある、信玄堤(しんげんつつみ)に立ち寄ることにした。
この信玄堤は武田信玄(21歳)が、1540(天文9)年に父信虎(44歳)を駿河に追放した直後に着手し、1560(永禄3)年に完成させた治水構想の一環である。 氾濫を繰り返していた釜無川の流域を俯瞰した治水構想は、半世紀近くたった現在でも機能し受け継がれ続けている。
具体的には、まずは南アルプスの雪解け水を集める御勅使川の流れを緩める堤、そして釜無川に合流する勢いを緩める流形や護岸構造を築き、念のためその下流に築いたのが信玄堤であった。 さらに、信玄堤の決壊を想定して氾濫水を戻す堤開口まで用意したのだから、戦国最強の戦いぶりに繋がる俯瞰的な思考の深さに驚かされるばかりなのである。
実際に竜王町にある信玄堤公園から釜無川の流れを眺めると、信玄が構想した広域的な治水事業の規模の大きさを感じることが出来る。 また、公園内には流れを弱めるたための”聖牛”が再現され、釜無川の河原にも数基の聖牛が置かれて当時の様子をしのぶことが出来る。
信玄堤から臨む釜無川、河原に流れを弱める"聖牛"が並ぶ
信玄が自ら創案したとされる”聖牛”、三角錐の合掌木に砂袋の重りを抱かせた構造が、角牛に見えたことからそう呼ばれたらしい。 武田信玄が、現代でも見習うべき広域治水事業を構想しながら、現場の細かい部分にまで拘る完璧主義者だったのは間違いなさそうである(笑)。
信玄が自ら考案したとされる聖牛、細部までこだわる完璧主義者(笑)
さて、信玄提の散策を終えて走り出すと、最寄りの双葉スマートIC(下り)から中央自動車道に駆け上がった。 猛暑日予報のこの日、早朝の中央自動車道を座光寺スマートIC(下り)まで一気に南下し、日が昇り切るまえに秋葉街道の峠道へと駆け上がる算段である。
とはいっても、退屈な高速道路移動と侮るなかれ、南北に繋がる南アルプス連峰と八ヶ岳連峰の狭間を貫け、諏訪湖を見下ろす高台を駆け抜ける中央道である。 中央道のビューポイントとして知られる八ヶ岳PA(標高816m)、そして山梨から長野への県境を越えた諏訪湖SA(標高828m)に立ち寄りながら走り続けた。
八ヶ岳PAの南側、甲斐駒ヶ岳(標高2967m)から南へと続く南アルプス連峰の眺め
八ヶ岳PAの北側、網笠山(標高2,524m)から北へと続く八ヶ岳連峰の眺め
諏訪湖SAから諏訪湖の眺め、対岸には八ヶ岳から霧ヶ峰高原へと続く稜線
ここで、山県昌景の別動隊が信濃経由で遠江へと南下した奇襲ルートについて、もう少し触れておきたい。
まずは1572(元亀3)年、何故、武田信玄は打倒徳川家康と織田信長を掲げて進軍を開始したのか? 武田信玄は甲斐から旧今川領駿河へと領地拡大し、一方徳川家康は三河から旧今川領遠江と領地を拡大、織田信長は足利義昭を奉じて上洛を果たした状況下の進軍である。
その西上作戦と呼ばれる信玄の侵攻は、旧今川領の分割占領の密約を交わした家康が、遠江から駿河側へ越境侵攻の小競り合いを仕掛け、さらには信玄の宿敵上杉謙信と同盟をむすんだこと。 織田信長もそれを制することなく、さらに織田領美濃と武田領信濃境界で中立を保っていた岩村城遠山氏を、織田方に取り込んだことが理由だと言われている。
その背景を考えると、遠江家康攻略にむけた駿河経由の信玄本隊(2,2000)と、信濃経由の山県昌景別働隊(3,000)、岩村城遠山氏攻略に向けた秋山虎繁隊(3,000)の三隊が、同時に侵攻開始したのも納得がいく。 そして、高遠城からともに出陣した山県昌影と秋山虎繁は、天竜川沿いの中馬街道(国153)を奥三河へと南下し、その道中で山県隊が秋葉街道(国道152)へと別れて遠江へ進軍したという想定である。
その進軍ルートには諸説あるが、昔も今も地形による進軍の容易さは同じであろうとGoogle MAPで検索し、今回の中央道経由の最短ルートにたどり着いた次第である(笑)。 実際のところ、高遠城から直接秋葉街道へ南下し分杭峠や地蔵峠を越える区間は、現代の鉄馬で分け入るにも少しばかり腰が引ける酷道ルートなのである。
さてさて、思惑通りに中央道を座光寺スマートICまで一気に南下すると、県道251で座光寺の街中を抜けて天竜川を渡り、秋葉街道へ続く峠道へと駆け上がって行った。 早朝の走り出したおかげで、猛暑日に蒸し上げられる前に林間の峠道に駆け込めそうである。 天竜川を渡り振り返ると、伊那谷越しに夏雲をまとった中央アルプスの稜線が続いていた。
中央アルプスを背景に、伊那谷から秋葉街道へと駆け上がる県道251
天竜川を渡って里を抜けると、矢筈トンネルに向けた峠道が始まる
県道251で天竜川支流小川川沿いの林間峠道を駆け上がって行くと、三遠南信自動車道小川路峠道路(国道474)へ分岐する巨大なループ橋にたどり着く。 そして、ループ橋を昇って直ぐに始まる矢筈トンネル(4,176m)を抜けると、いよいよ秋葉街道こと国道152に突き当たった。
ループ橋を昇り矢筈トンネルを貫けると、秋葉街道こと国道152に突き当たる
国道152に突き当り浜松方面へ舵を切ると、遠山郷集落を抜けるまでは上村川沿いを下る緩やかなバイパスルートが続いている。 道中には、素朴な田舎蕎麦やジビエ料理、廃校になった小学校舎など立ち寄りどころもあり、名古屋からの日帰りツーリングで度々訪れた見覚えのある景色にさしかかる。
かつて道の駅遠山郷には、塩っぱい源泉が特徴の「かぐらの湯」が賑わっていたが、2021年から汲み上げ施設の故障により休業中になっている。 平日朝のせいか観光客の姿は見えず、賑わっていた頃とのギャップに驚きを隠せない。 三遠南信自動車道の開通に合わせてか、2025年開業を目指して温泉の掘削工事が開始されたようなので、営業再開に期待したいところである。
バイク旅で訪れる過疎地域では、昭和親父を癒してくれる小さな食堂や里の景色が消えてゆく現実を間のあたりにする。 人口減少の現実に蓋をした地方の、無駄なハコモノやインフラへのバラ撒き行政も限界にきている、国にも地方を俯瞰した維持可能な投資施策を期待したいところである。
国道152を浜松方面へ、まずは上村川沿いの快走路で遠山郷を駆けぬける
さて、国道152が遠山郷集落を抜けて林間の峠道へと駆け上がると、程なく青崩峠越えの通行止めにさしかかり、兵越峠を越える県道369の迂回区間が始まった。 この迂回区間は、中央構造線に沿った崩落性の高い地盤により、青崩峠を貫けるトンネル工事が断念された結果だが、戦国時代の進軍を妄想するには格好のルートかもしれない。
それでも、車線の無い林間狭道の路面状況は意外に良好で、W800 streetのアップライトなポジションと低速型エンジンの助けもあり、そこそこのペースで酷道ライディングを楽しむこととなった。
その後、冒頭で紹介した国盗り綱引き合戦で決まった国境の立て札にたどり着き、予定通り長野県飯田市南信濃から静岡県浜松市水窪への県境を越えた。
ちなみに、トンネル工事断念から約半世紀を経た2023年、三遠南信自動車道の青崩トンネルが貫通して現在も開通工事が進められている。 三遠南信道の開通後も、地元の生活道路として廃道になることは無いと思うが、戦国時代を妄想できる程よい酷道っぷりを楽しめるのは今のうちかもしれぬ。
山県昌景が越えたであろう兵越峠、国盗り綱引き合戦で決まる国境
兵越峠で県境を越えて林間狭道を下ってくると、2005年に浜松市に編入された水窪の市街地にさしかかった。 丁度昼時、北遠地方有数の街で食堂でも探す目論見だったが、一見バイク親父が立ち寄れそうな店を探すことは叶わなかった。 かつて、日帰りツーリングで訪れた道の駅や食堂の心当たりもあったのだが...営業の痕跡すら探し出せぬ街の寂れ具合に驚きを隠せぬ結果となった。
とりあえず水分補給だけでも済ませようと、水窪川を挟んだ高台にあるJR水窪駅で休憩することにした。 JR飯田線の特急伊那路も停車する水窪駅だが、1時間に1本の列車発着の狭間だったせいもあり、2010年に無人化された駅舎で人影を目にすることは無かった。
蛇足ながら、”静岡飛ばし”への恨み辛みもあってかリニア新幹線工事に反対し続ける静岡県だが、それを交渉ネタに国政を巻き込んで包括的な過疎問題解決支援を引き出せばよいのに...などと、水窪駅のベンチで南アルプスの天然水を飲みながら、日本の将来を暗示するような山里の将来を憂うバイク親父。 武田信玄の進軍ルートを辿る旅の道中、一瞬だが、甲斐国繁栄のために戦った信玄公の想いが憑依したかもしれぬ(笑)。
特急伊那路も停車するJR飯田線水窪駅、無人化された駅舎に人影は無し
水窪駅から見下ろす水窪の街、崖下には水窪川を渡るつり橋
昼飯をあきらめて二俣城跡まで一気に走りきることを決めた晴れふら親父、道沿いに空き家が目立つ水窪市街をぬけて、水窪川沿いの国道152をさらに下って行く。 しばらくはセンターラインの無い林間狭道が続くが、佐久間方面へ続く国道418の分岐を過ぎると、天竜川沿いを下る緩やかな両側二車線道路が始まる。
その後、天竜川沿いの快走ルートを一気に南下して天竜区二俣の市街地に差し掛かり、いよいよ旅のゴール二俣城にたどり着くこととなった。
旅のゴール二俣城に向け、天竜川沿いの緩やかな国道152を一気に南下する
国道152が二俣市街に差し掛かかり車の流れが滞りだすと、アスファルトの照り返しや車の排気熱で蒸し上げられ、熱中症警報アラート発令される日常に舞い戻ってきたことを実感する。 そして、街中を抜けて二俣城跡にたどり着くやいなや、ヘルメットとメッシュジャケットを脱いで人心地着き、木陰の散策道をたどり本丸へと歩き出した。
さて、駿河経由で進軍した武田信玄本隊と、信濃経由の山県昌景の別動隊が合流し攻め落とした二俣城、現在の城跡でも天竜川と旧二俣川の天然要害に守られた堅固さが見てとれる。 武田方の、大量の筏を流して天竜川の井戸櫓を破壊した水の手攻めが知られており、二俣城攻略後に信玄は浜松城に籠城する家康を誘い出し、三方ヶ原の戦いで大勝することとなった。
二俣城跡右手北曲輪から左手本丸へ、堀切から天竜川を見下ろす
本丸に復元された天守台、武田軍が攻略した二俣城跡で旅を終える
二俣城跡の散策を終え、武田軍の進軍ルートをイメージして組み立てた、遠江を起点に甲斐で折り返す二日間のツーリングを無事終えることとなった...っと、旅を〆ようとして我に返ると、峠道のライディングに夢中になり昼飯抜きであったことを思い出した(笑)。
とは言っても、猛暑の市街地で蒸し上げながら飯屋を探す気にはなれず、新東名高速道浜松浜北ICから名古屋方面へと帰路に着き、最寄りの浜松SAで遅い昼食をとることにした。 そしていただいたのは、「うな濱」の浜名湖産うな濱ひつまぶし3,500円也。 ふっくらと蒸し上げられて香ばしく焼かれた調理は関東風、昼飯には少し贅沢な気もするが、遠江で始まり遠江で終わる旅を〆るにこれ以上ない昼食となった。
新東名浜松SA(下り)、浜名湖産うな濱ひつまぶし3,500円也で旅を〆る
さてさて二日間の旅を終えてみると、往路では高速道路移動で浮いた時間で美味いものと名所旧跡を巡り、復路では戦国時代の進軍を妄想した峠道のライディングを満喫する...その思惑どおりにメリハリの効いたツーリングを楽しめたと思う。 さらに、二輪車限定のETC定額プランを利用した今回の旅は、平日の高速道路をリーズナブルに利用して足を延ばすツーリングの試金石にもなった気がする。
また、武田信玄が敢行した二つの進軍ルートを走り終えて、迅速に大軍を移動させたい信玄本隊の侵攻と山深い峠を越えて不意を突きたい別動隊の侵攻、それぞれの進軍ルートがが持つ意味を改めて体感することとなった。 結果的に今回も、事前の調略で反信長勢力と連携して信長の後詰めを絶ち、孤立して浜松城に籠る家康を三方ヶ原に誘い出しボコボコにした信玄の、戦わずして勝つ強かさにたどり着くこととなった。
改めてになるが、戦国時代とかわらぬであろう稜線や川の流れ、体を晒しながらその景色を駆け巡るバイク旅は、時を越えて古の旅の臨場感を味わえるのではなかろうか。
あとがき
長いことリーマン稼業に身を置いてきた自分が、なぜ武田信玄の生き様に共感を覚えるのか? 今回の、甲斐武田氏の本拠を訪れ信玄ゆかりの地を巡る旅で、その答えにたどり着けたような気がする。 ここでは、レポート本編のツーリングスポットや美味いものとは別に、あとがきとしてリーマン親父が共感する理由の一端に触れてみたい。 戦国大名の生き様やリーマン親父のジタバタぶりなど興味無い方は、読み飛ばしていただいた方が賢明かもしれぬ(笑)。
ちなみに、現代のリーマン稼業も戦国時代と同様に、勝ち負けなど誰も担保できない世の中であることにかわりないだろう。 そして結果だけを見れば、三方ヶ原の戦いの勝ち戦の途上で信玄が病没すると、息子勝頼が長篠設楽原の戦いで信長と家康に敗れ、それをきっかけに滅亡の道をたどった甲斐武田氏である。 それ故信玄に対する共感の理由は、勝つための方法論では無く、勝ち負けに左右されぬ志の貫き方なのかもしれぬ。
その観点で、今回のツーリングで最も印象に残ったのは、500年近く経った現在も甲府盆地の暮らしを守り続けている”信玄堤”である。 正直なところ、堤防を訪れても信玄が築いた包括的な治水システムの全体を見渡すことは出来ないが、今回の旅をきっかけにその背景を知り信玄の志を垣間見ることとなった。
まずは信玄が治水事業に着手する前、21歳の信玄が44歳の父信虎を国外追放した理由に、領民の疲弊や家臣の不満があったとされている。 甲斐国を統一し信濃侵略を始めた信虎だが、度重なる水害や飢饉、そして相次ぐ戦乱により領民は疲弊し、独断専行で成果が上がらぬ軍役負担に家臣の不満が蓄積していたのである。
クーデターと言うよりも、信虎との親交が深かった駿河への強制隠居と言うのが正しいのかもしれぬ。 信玄の信虎追放の大義は、離れた人心を取り戻して甲斐国と武田氏を永く繁栄させることだったと考えられる。 実際のところその大義は領民と家臣達に受け入れられ、信玄は信虎に変わり混乱なく甲斐国のかじ取りに着手している。
それらの背景を考えると、信玄堤による氾濫を繰り返していた釜無川と御勅使川の治水事業は領民に支持され、原資確保のために制定した税制度も受け入れたのではなかろうか。 また家臣達に対しても、戦わずして勝つ兵法に徹底してこだわり、感謝状だけでなく金を支給する褒美制度まで用意した...
等々、信玄が実践したことを挙げてみると、リーマン稼業を永く続けてきた還暦親父がその大切さに帰り着いた、Mission(社会貢献の大義)、Vision(中長期的に目指すあるべき姿)、Value(実践するための共通の価値)の共有そのものであった。 それを示し共有して行くリーダーシップが重要であることも、信玄が生きた戦国時代から現代まで変わっていないと感じる。
さらに、病を抱えながらも妥協せず、己が示した大義に沿った決断を示し続けた信玄は、死の淵にあっても後悔することは無かったと思う。 唯一あるとすれば、次期当主を遺言した孫信勝の後見を、息子勝頼に託すもどかしさだったかもしれぬ。 なぜ、風林火山ののぼりを勝頼に渡さなかったのか? その真意を直接聞くことは叶うはずもなく(笑)、歴史学者の方々の研究に期待したいところである。
そして、引退間際のリーマン親父が武田信玄に共感する理由に立ち戻ると、いまだにMVVの共有に苦労する身の上であること、妥協や忖度無しにやりきたいという想い、決断を託さねばならぬ雇われの身のもどかしさ...こんなところであろうか。
リーマン稼業の具体的な話は紹介できないが、高い受講料を払ってビジネススクールに通うよりも、競合との命がけの駆け引きや組織マネジメントをゼロベースで実践していた信玄の生き様に触れた方が、より実戦的なスキルを学べるかもしれぬ。
ツーリング情報
信玄堤公園 山梨県甲斐市竜王1989 (電話)055-278-1669(都市計画課)
国盗り公園(兵越峠) 長野県飯田市南信濃八重河内 (電話)0260-34-2277(遠山郷商工会)
二俣城跡 浜松市天竜区二俣町二俣 (電話)053-922-0086(まちづくり推進課)
うな濱 新東名高速道路浜松SA(下り) (電話)053-428-1101
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