2021/12/04 奥浜名オレンジロード、三方ヶ原古戦場巡り(二俣城、浜松城、野田城、洋食宏松)


 2021年も師走に入り冬の冷え込みも徐々に厳しくなってきた。 コロナ禍変わってしまった暮らしは立て直せるのだろうが、その舞台となる地球環境が変わらず続くのか怪しいものである。 地球規模での異常気象報道を耳にする機会も増え、変わらぬ苦手な冬の寒さにさえ、ホッとするご時世になってしまった。

 兎にも角にも、バイク旅には厳しい冬の訪れである。 そしてこれからは、比較的温暖で凍結のリスクが少ない奥浜名湖の峠道が、冬場でもツーリングを楽しめるお助けルートとなる。 さらに、名古屋エリアからのアクセスも容易で、目的に応じた日帰りルートを組み立てられるのがありがたい。 今回も、冬の寒さの訪れと共にバイク親父の頭に浮かんだ、奥浜名湖のワインディングを目指し走り出すことにした。

 さて、今回の奥浜名湖エリアを旅する目的は、駿河から遠江へと侵攻してきた武田信玄軍2,5000が、織田信長から援軍を受けた徳川家康軍11,000を撃破した、三方ヶ原の戦い(1572年)にまつわる史跡巡りである。

 三方ヶ原の戦いは、武田信玄が織田信長・徳川家康攻略のため西へ侵攻した”西上作戦”の緒戦である。 桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が信長に討ち取られてから三方ヶ原の戦いに至る経緯と、後に武田勝頼が信長・家康に敗れた長篠設楽原の戦い(1575年)に至る結末は、戦国史マニアな方々にとってはたまらない展開であろう。

 コロナ禍の緊急事態宣言で、県境を跨ぐ移動ができなかった時期に、愛知県内の古戦場巡りを始めたバイク親父である。 付け焼刃ではあるが、戦国武将が背負いこんでいたものや時代背景を携えて史跡を訪れると、川の流れや崖などの地形、そこに築かれた土塁、堀、石垣などが、生々しい戦いの様を語り出すから不思議である。

 今回は立ち寄り先が多かったので、東名高速道三ケ日ICから奥浜名湖ワインディングの主役、奥浜名オレンジロードへと直接走り出すことにした。 そして、県道68など奥浜湖エリアのワインディングを走り継ぎ、信玄が浜松城の家康攻略の起点とした二俣城跡を訪れた。 その後、信玄の進軍ルートをたどりながら、祝田の旧坂、三方ヶ原古戦場、浜松城、犀ヶ崖古戦場、等の三方ヶ原合戦ゆかりの地を巡った。 古戦場巡りの道中では、洋食の老舗宏松に立ち寄り、デミグラスソースでいただく絶品トンカツをいただく算段である。

 さてさて、遠江・三河へと侵攻した武田信玄、それを迎え撃つ徳川家康、その背後の織田信長、それぞれどんな事情や思惑を抱えていたのか? その結末はどうなったのか? 思うように乗れないバイク親父のライディングとともに、奥浜湖エリアのバイク旅を紹介してみたい。


武田信玄が浜松城の徳川家康攻略のため攻め落とした二俣城本丸跡


ルート概要


東名三ケ日IC-県308-奥浜名オレンジロード-国民宿舎奥浜名湖-奥浜名オレンジロード→奥山氏居館跡-県303(新東名高架くぐる)-県68→新東名浜松いなさIC-国257→伊平-県68-県299-県68-新東名側道-県296-市道(浜松カントリークラブ北側)→坂之脇橋(阿多古川)-県9→平田大橋(阿多古川下流、渡って右折)-市道(天竜川西岸)→潮見渡橋(天竜川)-県297→青瀧寺、本田宗一郎ものづくり伝承館、二俣城跡-国362→鹿島橋-国362→小野高根西-国362(宮口バイパス)-都田テクノロード→白昭-県391,県381→根洗(祝田の旧坂)-国257→三方ヶ原古戦場(三方ヶ原墓園駐車場)-国257→洋食宏松-国257バイパス→中沢町-国152→浜松城-犀ヶ崖古戦場-六間道路→下池川町-国152→中沢町-国257バイパス→赤松坂-国257バイパス(浜松環状線)→三方ヶ原町-国257-国362→細江神社-国民宿舎奥浜名湖-奥浜名オレンジロード(東名三ケ日ICへの分岐を直進)→国301(宇利峠)→一鍬田畠中-県392→野田西-市道→野田城址-市道-国151→新東名新城IC


ツーリングレポート


 豊田JCTを過ぎて東名高速道路をさらに東へと走る。 これまで使い捨てカイロの助けなど借りながら、皮ジャケットの越冬を貫いてきたバイク親父だが、Kショップ店長の説得?に応じて購入した今時の冬物ウエアを羽織っての走り出しである。

 しかし、モータスポーツ色が強い皮ツナギの老舗も、随分とお洒落なウエアを創るようになったものである。 時代に取り残された昭和親父も、オートバイの客層や楽しみ方が変わったことを知る。 それでも、安心できるプロテクター類が揃っているのは流石、そして懸念したバタつきも無く快適に高速道路を移動する...しかし暖かい、今までのやせ我慢は何だったんだ(笑)。 昭和親父のお洒落云々の講釈はスキップするとしても、余分な力を抜いてライディングに集中できるメリットは計りしれず。

 前置きが長くなってしまったが、ライディングに集中できる防寒ウエアを仕入れたのは、奥浜名エリアのワインディングで矯正したい乗り癖があったからである。 走り出すのか億劫になる冬場だからこそ、ライディングのテーマを決めて有意義なバイク旅にしたいところ。

 そして矯正したかった乗り癖は、コーナー出口の視界確保ばかりに気を取られ、逆に見通しの良いコーナーでダラダラとインに付く癖、先を覗き込もうとする頭がアウト側に残り、イン側荷重がおろそかになる癖。 イメージできているので、リーンするポイントとイン側荷重だけを意識して走り込みたいところである。


奥浜名オレンジロード

 東名高速道三ケ日インターから県道308に駆け降りると、奥浜名湖エリアワインディングの主役、奥浜名オレンジロードへと分岐して国民宿舎奥浜名湖方面に向けて走り出した。 やはり、高速道路から直接アクセスできるロケーションはすばらしい。

 早速、リーンするポイントとイン側荷重だけを意識しながらコーナーリングを試行錯誤、徐々に立ち上がりで開けられる余裕度も増してくる。 トラクションをかけられると、さらに旋回性があがる正循環がかかりだすのだ。 しかし、モノにしたつもりがまた忘れ、何度も同じことを繰り返している気もする...っが、まあ、忘れたらまた修業の旅に出る口実になるかと開き直る(笑)。 

 奥浜名オレンジロードは、闇雲に進入速度を上げなくとも、コーナーの曲がり具合やアップダウンのバリエーションが多彩で、惰性にならず反復練習が可能なコースである。 この貴重なワインディングに二輪通行規制などかからぬよう、自重したペースを心掛けたいところだが、時折コーナーの先に広がる浜名湖の眺望がその助けになるだろう。

奥浜名オレンジロード、赤砂利神社脇から浜名湖を望む


 さて、奥浜名オレンジロードを奥浜名湖国民宿舎まで走りきると、さらに奥山に向けての区間へと走り続ける。 山間へと入り浜名湖を見下ろす眺望は望めなくなるが、走りごたえのあるワインディングはまだまだ続く。

 そして、県道303に突き当たって奥浜名オレンジロードが終ると、国道257を挟んで新東名浜松SAまで続く県道68の峠道を走り続けた。 ミカン畑の丘陵地を貫けるオレンジロードに比べると、山深い峠の切り返しやアップダウンのピッチは短くなる。 そしてなにより、観光ルートから外れるせいか遭遇する車も少なくなり、自分のペースでライディングに集中できるのがありがたい。

新東名高速道浜松SAに向け県道68を駆ける


 県道68が浜松SA付近で新東名高速道路にさしかかると、上り方面側道へと分岐して突き当たった県道296を天竜方面へと走り続ける。 県道296を北上すると、静岡県立森林公園の駐車場ゲートをやり過ごし、浜松カントリークラブ北側に回り込む。 そして、突き当たたった県道9を阿多古川と交差しながら下り天竜川西岸にたどり着いた。 東名三ケ日ICから走り出して、ここまで約50kmのワインディング、古戦場巡りの前のライディングに集中するに程よい距離であった。 季節を問わずバイク旅を楽しめる奥浜名湖エリア、これからも乗れぬ悩みを抱える度に足を運ぶことになるだろう。

浜松カントリークラブ北側へ回り込み天竜川をめざす


 さてさて、奥浜名湖のワインディングを走り継ぎ、二俣城跡を対岸に臨む天竜川西岸にたどり着いた。 いよいよここから、二俣城跡を起点に武田信玄の侵攻ルートに沿って三方ヶ原の戦いの痕跡をたどることにする。 川の流れや崖などの地形、そこに築かれた土塁、堀、石垣など、何てことは無い景色に約500年前の戦を語ってもらうため、三方ヶ原の戦いへの経緯を予習しておきたいところである。


三方ヶ原の戦いへの経緯

 桶狭間の戦い(1560年)以前、武田信玄は甲斐から信濃へと領国拡大し、越後の上杉謙信と北信濃の覇権争いが生じ、11年にわたる川中島の戦い(1553年~)を抱えていた。 強敵謙信との戦いに集中するため、背後の北条氏康(相模)、今川義元(駿河)とは、甲相駿軍事同盟を結んでいた。

 徳川家康は、人質になっていた今川方として桶狭間の戦いに参戦し、今川義元が織田信長に討ち取られると、12年(7-19歳)の人質生活を終えて岡崎城への復帰を果たした。

 桶狭間の戦い後、信玄は謙信と明確な決着がつかぬまま川中島の戦いを終え(~1564年)、尾張の織田信長と直接対決を避けるための甲尾同盟を結び(1565年)、三河の徳川家康とは今川侵攻の同盟を結び(1568年)、大井川を境に駿河(武田)と遠江(徳川)の割譲を約束した。 

 一方で、岡崎城に帰還した徳川家康は織田信長と同盟を結び(1562年)、東三河と奥三河を平定し三河国統一を果たした(1566年)。 そして上述の通り、信玄と今川侵攻の同盟を結び、遠江侵攻の拠点として浜松城を建設し本拠地とした(1570年)。

 武田信玄の遠江・三河侵攻のきっかけは、遠江侵攻をめぐる家康との小競り合いが発生し、さらには家康が信玄の宿敵上杉謙信と同盟を結んだことによる(1570年)、それはすなわち信玄との戦いへの備えを意味する。 また、甲尾同盟を結んだ織田信長も家康との調停に動かず、信玄は背後の信長攻撃(西上作戦)も念頭に置いた、家康領の遠江・三河侵攻(1572年)を決断することとなった。

 遠江・三河侵攻に備える信玄は、駿河に侵攻して以来敵対関係にあった北条氏康と同盟を結び直し、背後を攻められるリスクを排除した。 そして、家康の背後の織田信長を包囲する調略戦を展開した。

 まずは、秋山信友軍を東美濃に送り、伊勢・長島の一向一揆衆、畿内では本願寺や三好、近江では浅井・朝倉氏を信長に対峙させていた。 さらに、上洛のため信長に担ぎ上げられたものの、勢いを増す信長に危機感をもつ将軍足利義昭から、信長討伐要請の大義名分をもらっていた。 終には、三方ヶ原の戦いの結果を受けて、足利義昭自身が信長に対し挙兵することになる。

 戦わずして勝つ孫子の調略戦を信条とする信玄だが、何とえげつない念の入れようだろう。 信長にしてみれば、家康の後詰めに動けば畿内を失い、畿内に留まれば自領美濃への侵攻を許す...どうすることも出来ず、家康が浜松城での籠城戦に持ちこみ、できるだけ長く信玄を引き留めてくれるよう願うしかなかったのではなかろうか。

 信長は、家康の元に3000程の援軍を送っているが、武田方に寝返るなよ...という目付を貼り付けたようにも見える。 信玄も怖いが、信長はもっと怖いってのが、三方ヶ原の戦いに臨む家康の心情だったかもしれぬ。

 1572年10月、信玄は駿河から遠江に意表をついて侵攻し、高天神城小笠原氏助を降伏させた。 その後次々と、遠江の城主を従属させながら天竜川を北上して二俣城を包囲、信濃から奥三河ルートで侵攻した山県昌影ら別動隊と合流した。 信玄は奥三河侵攻にも備え、山家三方衆を調略していたのである。 侵攻に伴い間延びする駿河経由の帰還をさけ、奥三河から信濃への迅速な帰還ルートを確保する意図も垣間見える。


二俣城跡と清瀧寺井戸櫓

 約500年前の戦国武将のいざこざの話から、現在のツーリングの話に戻ることにする。 奥浜名湖のワインディングを走り終えて天竜川沿いにさしかかると、二俣城跡の対岸の堤防道路に駆け上がり、ZX-6Rを舗装路に停めて城跡を臨む河原へ歩くことにした。 一応、車道らしき轍が河原へ続いているが、ターマック仕様の飛脚バイクで藪を漕ぐと、戦国妄想から帰還できなくなる可能性が高い(笑)。 

 そして、天竜川対岸から二俣城跡を見上げると、岩肌が切り立つ崖岸の上に築かれた二俣城を、信玄が攻略する様子が浮かび上がってきた。 二俣城には井戸が無いことを察した信玄は、天竜川に依存していた水の手を断つ策を講じた。 天竜川から水をくみ上げるために崖に掛けられていた井戸櫓を、上流から大量に流した筏で破壊したのである。 

 天竜川の要害に守られた二俣城攻略が難しかったこともあるのだろうが、戦国最強とも言われた赤備えの武田軍を有しながら、”戦わずして勝つ”にこだわる信玄の哲学が伺える。 水の手を断たれた城主中根正照は、一月ほどで二俣城を開城して浜松城に退却し、信玄は家康攻略基地を手に入れることとなった。

天竜川越しに臨む二俣城跡、切り立つ崖の天然要害


 しばし、上流から流された大量の筏が井戸櫓を破壊する様を妄想すると、堤防道路に停めたZX-6Rの元に戻り、天竜川上流の潮見渡橋で対岸へと渡った。 次に立ち寄る清瀧寺では、復元された井戸櫓を見学することが出来る。

 清瀧寺にたどり着くと、井戸櫓はなるほどと思える復元ぶりだが、それよりも石碑に刻まれた清瀧寺建立由来の方が興味深かった。 徳川家康が建立した清瀧寺は、今川方と内通の嫌疑で二俣城に幽閉され切腹した、家康の嫡男松平信康の廟所である。 切腹した信康の享年21歳。

 信康は家康が今川家人質時代に結婚した、今川義元の姪築山御前との間に生まれ、桶狭間の戦い後に同盟を結んだ信長の娘徳姫と結婚した。 そして、旦那信康や姑築山御前との仲が悪かった徳姫が、築山御前と信康が今川方に内通していると信長に密告し、信長は家康の嫁の殺害と息子の切腹を要求したのである。

 いやはや何とも、嫁を殺し息子に腹を切らせる親父の気持ちなど理解できないが、家康がそれもいとわぬ強い信念をもっていたことは分かる。 桶狭間の戦いで敗走した大樹寺で「厭離穢土欣求浄土」を説かれて切腹を思い止まった経験が、天下泰平の世の中を実現するため私情を捨てる覚悟に繋がったのだろう。

 信玄もしかり、桶狭間の戦い後、信長との同盟を結ぶため、今川の血を引き同盟に反対した嫡男信義を幽閉自害させた経験を持つ。 信玄は、長引く飢饉と戦争負担で家臣や領民に溜まった武田家への不満を解消するため、甲斐を統一した父武田信虎を国外追放して当主となった。 その経験が、甲斐と武田家の繁栄の大義のため、私情を捨てる覚悟に繋がったのだろう。

  今更ながら、現状を受け入れて的確な判断を下すために、より所となる大義の大切さを思い知る。 戦国武将の命がけの大義には及ばぬが、晴れふら親父の永いリーマン稼業においても、場当たり的に日和らず貫く拠所の大切さが身に染みている。

 ところで、清瀧寺の隣には、国の登録有形文化財に指定された旧二俣町役場を改装した、本田宗一郎ものづくり伝承館が公開されている。 本田技研工業の広報施設では無く、NPO法人本田宗一郎夢未来創造倶楽部の運営で、二俣出身の名士本田宗一郎の生き方や、モノづくりの歴史がわかる年譜や写真、歴史を刻んだビンテージバイクなどが展示されている。 バイク乗りの方々には、むしろこちらの方に興味が湧くかもしれぬ(笑)。

家康の嫡男信康の廟所、清瀧寺に移された井戸櫓


 本田宗一郎ものづくり伝承館を見学して清瀧寺を後にすると、天竜川と二俣川に挟まれた市街を移動し二俣城跡にたどり着いた。 二俣城本丸崖下の天竜川を覗き込むと、上流がら流された筏で井戸櫓が壊れる様とともに、勘弁してくれよと頭を抱える二俣城主中根正照の様子が浮かんでくる。 信玄の、天然の要害に守られた城の強みを弱みに変える発想、戦場での機転に感心するばかりだが、当事者になってみると絶対に戦いたくない相手だろう(笑)。

 二俣城跡を後にし、国道362から都田テクノロードへ走り継ぐと、信玄の進軍ルートをイメージしながら浜松城方面へと南下することにした。

二俣城跡本丸から井戸櫓が掛かっていた天竜川崖岸を覗き込む


祝田旧坂と三方ヶ原古戦場

 1572年10月に駿河から遠江に侵攻した武田信玄は、12月には二俣城を手中にし浜松城への進軍を開始した。 武田軍25,000に対して徳川軍は信長の援軍3,000を入れても11,000、兵力で劣る徳川軍が野戦で勝てる見込みは無く、家康が浜松城での籠城を覚悟した矢先...信玄は浜松城へ向かう進路を三方ヶ原台地に変え、家康の本国三河への侵攻をうかがわせた。

 この時の家康の心中を察すると、武田軍に勝ち目のない野戦を挑んだら討死しかねない、かといって何もせずに三河から先へと進軍させたら、信玄の調略で四面楚歌状態の信長からどんな仕打ちを受けるか分からず...思案した結果、家康は信長が逆上する顔の方が怖かったらしい(笑) 家康は転進した武田軍の追撃を決断する。 二俣城へ進軍する武田軍との前哨戦、一言坂の戦いで逃げ帰るのがやっとだった家康なのに、いったいどれだけ信長が怖かったのだろう。 

 兎にも角にも、武田軍を追撃することを決めた家康は、三方ヶ原から祝田坂を下る武田軍を背後から攻撃することを目論んだ。 しかし、浜松城をやり過ごすと見せかけた信玄は、祝田坂で陣形を整えて待ち構え、三方ヶ原で徳川軍を迎え撃ったのである。 

 信玄にしてみれば、浜松城攻めで時間と兵力を費やすリスクを避け、また浜松城を素通りして家康から追撃されるリスクを避け、その両方を満たす策が浜松城から誘い出しての迎撃だった。 信玄が、調略で信長を畿内にくぎ付けにしたうえで、家康と信長の力関係を把握しているが故の策であろう。

 その結果徳川軍は、中根正輝、夏目義信、鳥居忠弘、本田忠真ら、織田援軍平手汎秀ら1,000を超える兵を失う大敗となったが、家康は本田忠勝らの奮戦と日没の助けもあり、何とか討死をまぬがれ浜松城へと退却した。

 さて、そんな三方ヶ原の戦いの経緯を踏まえた今回のツーリング、まずは、武田軍が転身して徳川軍を待ち構えた旧祝田坂を訪れることにした。 根洗い交差点から旧祝田坂へ路地を進むと、当時の雰囲気を残した未舗装の林間道となる。 途中の舗装路にZX-6Rを停めて旧祝田坂へ歩き下り、武田軍が家康を待ち構える様を妄想する。 現在残っている旧祝田坂は道幅も狭く、25,000もの兵が陣形を組むには無理があるが、三方ヶ原台地から都田川に向けて下る起伏斜面一帯に布陣していたのだろう。

 そして、旧祝田坂を後にして国道257を南下すると、国道沿いの三方原墓園駐車場の一角に建てられた三方ヶ原古戦場碑に立ち寄った。 正確な合戦地は分かっていないらしいが、祝田坂で転進した武田軍が家康の不意をつき、迎撃した場所としては妥当かもしれない。

 武田軍は祝田坂の両翼に展開しにくい地形を考慮したのだろうか、起伏地形に強い魚鱗の陣形で家康を待ち構え、不意をつかれた家康は鶴翼の陣形で戦いに臨んだ。 武田軍の半数にみたぬ徳川軍が、兵力で勝る場合に有利な鶴翼の陣形を組んだのはなぜか...付け焼刃の戦国知識では解けぬなぞが深まるが、ここらが、古戦場巡りに興じて間もないバイク親父の限界(笑)。 史実研究は専門家にゆずり、好き勝手な妄想を土産に次の史跡へと走り出す。

信玄が追撃する家康を待ち構えた旧祝田坂、当時の雰囲気を感じる


旧祝田坂で転進した武田軍が徳川軍を迎撃した三方ヶ原古戦場


洋食宏松

 信玄の進軍ルートをたどる三方ヶ原古戦場巡りも、武田軍に大敗した家康が浜松城に退却するところまでの行程を終えた。 丁度昼時、浜松城への家康敗走ルートをたどる前に腹ごしらえすることにした。

 三方ヶ原古戦場から国道257をさらに南下し、四ツ池公園方面に左折すると、お目当ての洋食宏松にたどり着く。 人気の洋食屋はほぼ満席だったが、運よく待ち時間なく厨房を覗くカウンター席に案内された。

 宏松は浜松で43年続く人気の洋食屋である。 厨房を囲むようなカウンター席と幾つかのテーブル席、柔らかい照明で落ち着く店内には、アーリースタイルのジャズが流れる。 この段階で、昭和親父のまだ見ぬ一皿への期待は早くも振り切れる(笑)。

 注文したのは、この店のフラグシップ「特とんかつライス(210g)」1,830円也。 店のこだわりは、10日間かけて仕込まれるデミグラスソース。 自慢のソースをたっぷりまとったとんかつを食べたくて、ついつい足を運びたくなる洋食屋である。 ロース肉がブロックから分厚く切り出され、フライパンで香ばしく揚げられる様子まで、舞台裏を覗ける特等席で配膳を待つ。

 すると程なく、洋食屋らしいステンレス皿に盛られたボリュームあるとんかつと付け合わせのナポリタン、そしてライス、味噌汁、香の物が配膳された。 食べやすくカットされたとんかつは、妄想した絵面通り、たっぷりのデミグラスソースに浸っている。

 そしてまずは、エンドの脂身を口に運ぶ...サクッとした衣の歯ごたえとひたすら柔らかいロース、甘い脂が口に広がりそれを香ばしいデミグラスソースのコクが追いかける。 たっぷりのソースをまとっても適度な食感がのこる揚げ衣、主役のロースの旨味を引き立てる主張し過ぎないデミグラスソース。 これがこのスタイルを40年以上研究してきた老舗洋食屋の実力、ここのとんかつは次元が違う。

 「ヒレじゃなくロースだよなぁ」などと心で呟きながら、ボリュームある肉を一気に平らげる脂身親父であった(笑)。 フワフワの千切りキャベツにはさっぱりとした自家製ドレッシング、全てが全体のバランスの良さにたどり着く。

三方ヶ原古戦場巡りの合間、40年続く老舗洋食屋宏松で昼食


厚く切り出された特とんかつが、自慢のデミグラスソースに浸る


浜松城と犀ヶ崖古戦場

 洋食広松で極上のランチを平らげると、国道257バイパスをさらに南下して国道152へと走り継ぎ、敗走した家康が眺めたであろう浜松城の天守を眺める。 片側一車線の国道257は渋滞することが多く、片側二車線の国道257バイパスに移動して南下した方が流れが良い。

 三方ヶ原から敗走した家康は何とか浜松城にたどりつき、全ての城門を開いて篝火を焚き空城の計を講じた。 浜松城まで追撃してきた山県昌景隊は、空城の計によって警戒心を煽られ、城内に突入することを躊躇しそのまま引き上げたとされる。 さらに同夜、家康は犀ヶ崖付近で野営中の武田軍を夜襲させ、混乱した武田軍が犀ヶ崖から転落し多数の死傷者を出した、徳川軍が崖に布を張って橋に見せかけた逸話も残る。

 後に天下人となった家康である。 通常ならば勝ち組となった武将は、己の権威を上げるために、負け組となった敵の成果を消し去るのが普通である。 しかし家康は、三方ヶ原の戦いで信玄に敗れた事実をもみ消すことなく、むしろ教訓として信玄の戦いぶりをたたえているようにも見える。

 ちなみに、家康は信玄の軍法を採用し徳川の武田仕立てとも呼ばれ、山県正景が率いた「武田の赤備え」は井伊直政の「井伊の赤備え」として引き継がれ、現代も機能する信玄堤の治水技術は徳川に引き継がれ完成した。 さらに、甲州金の貨幣制度は江戸幕府の貨幣制度の土台となり、その流通を支えた正確な秤は幕府の公定秤として採用された。

 つまり、信玄の遺産が家康が250年以上続く江戸幕府をつくる土台になったとも言える。 それゆえ、信玄をけなすことは天唾状態(笑)、せめて空城の計や犀ヶ崖の布橋などで一矢報いた逸話を残すのが精一杯だったのかもしれぬ。

 また、家康が天下分け目の関ケ原の戦いで調略戦に力を注ぎ、毛利軍吉川広家と小早川秀秋の裏切りで勝利を手繰り寄せたことは有名である。 さらに、大垣城を素通りして野戦に持ち込み鱗の陣形で戦いに臨むなど、家康は三方ヶ原の戦いで手痛くやられた、信玄の戦い方まで受け継いだのかもしれぬ。

浜松城公園駐車場越しに天守閣を望む 


 浜松城天守を浜松城交差点駐車場越しに望み、家康の空城の計で武田軍が退却する様を想像してみるも...やはり、1,000を超える徳川勢を斬り倒した武田の赤備えが、開け放たれた条右門の前で退却する様を妄想するのは正直難しい。

 しばらく浜松城を遠くから眺めた後、国道257沿いの犀ヶ崖古戦場に移動すると、古戦場脇から長さ約115m、幅約30m、深さ約13mの崖下を見下ろす。 やはりここでも、崖に張られた白布を橋と間違えた武田軍が、次々と転落する様を妄想するのは難しいのは正直難しい。

家康が武田軍を夜襲したとされる犀ヶ崖古戦場


古戦場から夜襲に慌てた武田軍が転落した犀ヶ崖を見下ろす


野田城跡

 犀ヶ崖古戦場から流れの良い国道257バイパスに移動して往路へ折り返すと、三方ヶ原古戦場手前で国道257に移動して祝田坂を都田川方面へと駆け降りた。 これから、宇利峠を越えて三河へと進軍した武田軍の足取りをたどり、新城経由で名古屋方面への帰路に着く算段である。

 国道257で都田川を渡ると、突き当たった国道362を気賀まで走り、国民宿舎奥浜名湖から奥浜名オレンジロードを三ケ日方面へと駆け出す。 そして、往路の起点となった東名高速三ケ日ICを過ぎてさらに走り続け、三ケ日の街中をバイパスして突き立った国道301で宇利峠へと駆け上がった。 三ケ日と新城をつなぐ幹線国道301の交通量は多いが、リーンポイントとイン側荷重を意識しながら、この日のライディングをおさらいする。

 そして古戦場巡りの最後に、宇利峠で静岡県から愛知県への県境を越えて豊川を渡り、信玄が三河攻略の起点として攻め落とした野田城に立ち寄ることにした。 三方ヶ原の合戦当時、野田城主の菅沼定盈は、桶狭間の戦い後三河統一を果たした徳川方に帰属していた。

 現在の野田城跡は、鬱蒼とした杉林に覆われているが、三の丸・二の丸・本丸と続く連鎖式の山城の形を良く残している。 当時城の周囲は、自然の川を堰き止めた堀で囲まれていたとのことである。 三の丸脇にZX-6Rを停めて城跡内に歩き出すと、三の丸から本丸まで分断された曲輪を、団子の串のような土橋が繋ぐ構造を確認することが出来る。

 信玄は、小城ながら守りが固い野田城を攻略するために、甲州の金堀職人を呼んで横穴を掘り、城内の井戸を枯らしてしまった。 二俣城同様に兵力を温存し開城させる手腕がここでも見て取れる。 信玄の思惑通り、三方ヶ原の戦いでダメージを負った家康に援軍を送る余力は無く、城主菅沼定盈は野田城を明け渡すことになった。  

三段曲輪の地形が残る野田城跡、三河攻略の起点として武田軍が攻略した


 振り返ってみると、1572年10月駿河から遠江に侵攻した武田信玄は、同年12月に遠江浜松城の家康を三方ヶ原の戦いで撃破し、翌1572年1月から2月にかけて三河に侵攻し野田城を陥落させた。 その結果を受けて、将軍足利義昭も織田信長に対して挙兵することとなり、四面楚歌状態の信長は武田軍に侵攻されても防ぎようのない状態だったと考えられる。

 しかし、野田城攻略後長篠城に入った武田軍は信長攻略を前に進軍を停止し、その理由は信玄が病に倒れ容体が重篤になったためだと伝えられている。 そして、4月には信長との決戦を諦めた武田軍は信濃への帰還をきめ、その途上で53歳の信玄は死去することとなった。 その後、武田軍を率いて再侵攻した武田勝頼が、1575年長篠設楽原の戦いで徳川織田連合軍に大敗し、武田家滅亡への道をたどることになったのである。

 旅の終わり、野田城跡をあとにすると、国道151に乗って新東名新城インターをめざし走り出した。 その道中、冬の日が沈む国道沿いから設楽原の戦いの場を眺め、甲斐武田家の繁栄を託し成しえなかった信玄の無念さを想いながら、新城インターから名古屋方面への帰路に着くことになった。 

 そして、奥浜湖エリアのワインディングは期待通り、リーンポイントとイン側荷重を反復練習することが出来た。 その修業の成果は不明だが、色々なコーナーがバランスよく組み込まれたルートは、乗り癖の矯正にも重宝する標準ワインディングであることは間違いない。 これからも、二輪の通行規制などが入らぬよう十分な安全マージンを確保しながら、浜名湖周辺の観光を組み入れたバイク旅を楽しみたいところである。


あとがき

 三方ヶ原の戦いで徳川家康を撃破した武田信玄、その大敗から多くを学び天下泰平を成し遂げた家康、その二人の戦国武将には共通する部分が多いと感じる。

 レポート中でもお伝えしたが、信玄は、飢饉や戦の負担で人心が離れた父景虎を追放し、甲斐国と武田家繁栄の大義を持った。 一方で、幼年期から今川氏の人質となり、今川方として参戦した桶狭間の戦いで敗走し、天下泰平の大義を持ち自刃を思い止まった家康。 いずれもその境遇から、どうにもならない現状と受け入れて、何ができるかを考える論理思考を身に着けたと考えられる。 今時のリーマン稼業では、クリティカルシンキングなどと横文字で語られるマネジメントを、命がけの経験から身に着けていた訳である。

 信玄は嫡男義信を、家康は嫡男信康を、共に粛清した厳しさの根っこには、それぞれの大義のために成すべきことの客観的な判断があったと考えられる。 また、信玄が傾倒した戦わずして勝つ孫子の調略戦や、それを学び引き継ごうとした家康の思考もしかり。 さらに、武田信玄を実戦でささえた戦国最強とも言われる武田の赤備え、徳川家康を人質時代から身を挺して支え続けた三河武士、いずれもリーダを支える実践部隊の存在も共通している。

 そんな共通点が多い信玄と家康で異なっていたのは、信玄が没した53歳と、家康が没した75歳の寿命であろうか。 それが、信玄亡き後に滅亡した甲斐武田家と、家康亡き後も250年続いた徳川幕府との、結果の違いになったのかもしれぬ。  信玄には、完璧な戦略の遂行にこだわるあまり時間の概念が欠けていた、信玄しか使いこなせぬ武田軍を後世に引き継げなかったなどと評されることが多い。 しかし、結果よりも納得のいくプロセスにこだわりたい晴れふら親父は、甲斐武田信玄の生き様に憧れるのである。



ツーリング情報


二俣城跡  静岡県浜松市天竜区二俣町二俣 (電話)053-457-2466(浜松市役所市民部文化財課)


本田宗一郎ものづくり伝承館  静岡県浜松市天竜区二俣町二俣1112 (電話)053-477-4664


信康山 清瀧寺  静岡県 浜松市 天竜区二俣町二俣1405 (電話)053-925-3748  


三方ヶ原古戦場碑 静岡県浜松市北区根洗町三方原墓園駐車場敷地内 (電話)053-457-2021(浜松市役所企画調整部広聴広報課)


犀ヶ崖資料館  静岡県浜松市中区鹿谷町25-10 (電話)053-472-8383


浜松城公園 静岡県浜松市中区元城町100-2 (電話)053-457-0088


野田城跡 愛知県新城市豊島字本城 (電話)0536-22-0673(設楽原歴史資料館)


洋食 宏松  静岡県浜松市中区幸3-5-17 (電話)053-473-9134



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