2024/07/21 [1/2日目]武田信玄の進軍ルートをたどる:遠江/駿河/甲斐編(諏訪原城跡、本栖湖展望公園、武田神社、武田信玄公の墓、甲斐善光寺、小作、サドヤワイナリー、奥藤本店)
九州地方では梅雨明けが宣言され、梅雨明けを間近に控えた名古屋でも真夏の晴れ間が続くようになった。 そして気象庁の事後宣言を待ちきれぬバイク親父は、遠江を起点に甲斐で折り返す一泊ツーリングへと走り出すことにした。 旅を折り返した甲府盆地の躑躅(つつじ)ヶ崎館跡(現武田神社)は、晴れふら親父がその生き様に共感する武田信玄の拠点だった史跡である。
そして今回のツーリングは、武田信玄が徳川家康を撃破した三方ヶ原の戦い(1572年)に向けて、武田軍が進軍したルートを想像しながら企画した行程である。 孫子を学んだ信玄の「戦わずして勝つ」戦いぶりや、遠江侵攻の背景に興味がある方は、かつて三方ヶ原古戦場を巡ったときのレポートを参照いただきたい。
さて、これまで武田信玄の進軍ルートに関しては、信濃経由で秋葉街道を南下し兵越峠を越えたと言われてきたが、近年の研究で信玄本隊は駿河経由で遠江へと侵攻したことが明らかになっている。 山県正影の別動隊が信濃経由の奇襲ルートをたどり、浜松城の家康攻略の拠点となる二俣城を挟撃したのが実際のところらしい。
ツーリング初日の往路では、武田信玄本隊の大軍が一気に移動したであろう街道をイメージして、浜松から静岡経由で甲府まで新東名高速道路から中部横断道路を繋ぐことにした。
そして二日目の復路では、山県昌景の別動隊が奇襲をかけたであっろう峠道をイメージして、まずは甲府から諏訪湖経由で中央道を南下し、その後秋葉街道の兵越峠を越えて浜松まで南下することにした。
ちなみに今回の旅は、日曜に走り出して月曜に帰還する日程である。 ETC休日割引が適用されぬ二日目の高速道路移動を考え、中京圏発の二輪車限定ETC定額プランを事前に申し込んでの走り出しである。 あまり高速道路会社の商品に縛られたくは無いが、広域ツーリングの選択肢として検討してみても良いだろう。
最後に、戦国時代の遠征で重要だったであろう兵糧補給、それはバイク親父の道楽ツーリングでも同じである。 高速道路移動で浮いた時間で巡った信玄ゆかりの史跡に加え、高速道路のサービスエリアでいただいた土地々々の美味いもの、宿泊した甲府名産の美味い酒や郷土料理等々、盛だくさんの思い出を紹介できればと思う。 戦国史がらみのツーリングルートの講釈が長くなってしまったが、そろそろ初日のツーリングレポートに移りたい。
駿河から甲斐の道中、本栖湖越しに富士山を望む(2014/11/08撮影)
ルート概要
新東名高速道岡崎SA(上り)-島田金谷IC-国473→合格駅前-県81→堤間団地東-市道→島田市宮崎町-県381→諏訪原城跡-県381→島田市宮崎町-市道→堤間団地東-県81→合格駅前-国473→島田金谷IC-静岡SA(上り)-新清水JCT-中部横断自動車道(無料区間)-下部温泉早川IC-国300(本栖みち)→本栖湖展望公園-国300(本栖みち)→本栖-国139→赤池-国358(精進ブルーライン)→防災新館前(甲府駅南口)-防災新館東-県31→甲府駅北口-県31→武田神社-県119(愛宕山スカイライン)-武田信玄公の墓-県119(愛宕山スカイライン)→甲斐善光寺-県109→善光寺入り口-国411→甲州警察署前-国358→JR甲府駅(小作、奥藤本店、サドヤワイナリー)
ツーリングレポート
ツーリング初日の日曜、予想通り気温35℃を超える猛暑日予報となり、さらに熱中症警戒アラートも発令されることとなった。 焼け石に水であるが、気温が上がり切らぬうちにできるだけ距離を稼ごうと、明け方間もない早朝から朝飯抜きの走り出しである。
そして、通行車両がほとんどない早朝の街中を快適に駆け抜けると、事前申し込みしたETC定額エリア内のインターから高速道路に駆け上がり、新東名高速道路岡崎SA(上り)で朝食休憩を取ることにした。
二輪ETC定額プランの走り出し、早朝の新東名岡崎SA(上り)で朝食
土地々々の美味いものを食らいながらの旅を謳うツーリング、その最初の地元飯は矢場とんの味噌カツである。 特にその選択にこだわりがあったわけでは無いが、人影もまばらな早朝のSAで唯一24時間営業していた名古屋飯一択となった次第である(笑)。
徳川家康が戦国大名として名乗りを挙げた三河発祥の八丁味噌、その豆味噌を用いた名古屋飯の代表格ゆえその選択に不足は無いのだが...寝起き間もない還暦親父の胃袋にとって、配膳されたみそかつ丼1,370円也のビジュアルはかなりのインパクト。
しかし、呼吸を整えて旅の爆食モードに突入したバイク親父、ボリューミーな名古屋飯を一気に平らげると、胃袋が朝飯らしからぬ一品に気付くまえに高速道路へと駆け出すことにした(笑)。
寝起き間もない名古屋飯、矢場とんの味噌カツ丼で旅スイッチを入れる
さて、早朝の名古屋飯で腹を満たすと、120km/hで移動可能な最新の東海道で距離を稼ぎ、諏訪原城跡最寄りの新東名高速道島田金谷インターを駆け下りた。 大井川を見下ろす相模原台地北端の崖っぷちに位置する諏訪原城跡は、甲斐武田流の実践的な築城術を今に伝える貴重な史跡で、1975年に国重要文化財に指定され、2017年には(財)日本城郭協会から「続日本100名城」に選定されている。
そして、新東名高速道路島田金谷インターから県道を繋ぎ牧之原台地に駆け上がると、城跡入り口にある「諏訪原城ビジターセンター」までわずか10分程でたどりついた。 まさに、ETC定額プランを使った広域ツーリングうってつけの立ち寄りどころであろう。
新東名高速道路島田金谷ICを降りて諏訪原城跡へと駆け上がる
早朝の訪問ゆえに、諏訪原城史やジオラマ展示を無料で見学できるビジターセンターは開館前だったが、灼熱の太陽が昇り切る前の城跡散策は思惑通りとなった。
前述の通り、諏訪原城は背後を大井川と牧之原台地の崖に守られた後ろ堅固の城であった。 そして、旧東海道がすぐ脇を通る城表には、武田氏特有の曲輪が幾つも備えられていた。 その三日月型の堀と馬出を組み合わせた武田氏特有の曲輪が、約半世紀経った現在でもよく保存されている。
ビジターセンター脇の小路を登って行くと、諏訪原城最大の”二の曲輪”にたどり着き、その深く切り立つ三日月掘りのスケールの大きさに圧倒される。 そして、二の曲輪北側の馬出しの崖からは、大井川越しに富士山を望むことが出来るらしいが、生憎この日は雲に遮られて富士を望むことはかなわなかった。
武田流築城の特徴、三日月型の堀と馬田出しを組み合わせた”二の曲輪”
二の曲輪北側の馬出しから大井川の眺め、雲に遮られ富士山は望めず
ところで諏訪原城は、1560(永禄3)年の桶狭間の戦いで織田信長に駿河の今川義元が討ち取られ、武田信玄が制圧した駿河と徳川家康が制圧した遠江の国境に位置する城であった。 信玄の遠江侵攻時には砦だったが、三方ヶ原の戦いの勝利後に信玄が病没してから、遠江侵攻を推し進める武田勝頼によって築城されたとのことである。 武田氏の守護神諏訪大明神を祀ったことから諏訪原城と呼ばれるようになったらしい。
そして、1575(天正3)年の長篠・設楽原の戦いで織田信長と徳川家康に武田勝頼が敗れると、同年諏訪原城も家康に攻め落とされて家康方の牧野城となり、1582(天正10)年の武田氏滅亡後に役目を終えて廃城となった。
家康は、諏訪原城と共に武田流の築城術を手に入れ、その実践的な構造をその後の城造りにに活かしている。 その他家康は、武田の遺法を幕府の軍政にを採用し、甲州金と正確な秤が江戸幕府の通貨制度の母体となり、さらに遺臣である「武田の赤備え」が「井伊の赤備え」として活躍したことも良く知られている。
敵であっても良いものは吸収してゆく家康の姿勢に学ぶところは多いが、それ以上に家康も共感したであろう信玄の思考の深さと、さらに家臣や領民など共感者との絆を大切にする姿勢には感銘を受ける。
己の話で恐縮だが、忖度だらけで正論を貫くことが難しい世の中、信玄のように己の大義や考え抜いた正論にこだわり実践して行きたいという思いは、長いリーマン稼業を終えても変わりそうにない。
信玄は遠江侵攻に備え、朝倉、浅井、三好、石山本願寺らと反信長包囲網を築き、思惑通りに孤立した家康を三方ヶ原の戦いで撃破した。 しかし、追い込んだ信長との決戦を前に病に倒れることとなった。 実際のところ、思い通りに事が運ぶかどうかは誰にもわからぬが、信玄のように己の大義や考え抜いた正論にこだわることができれば、時々の判断やその結果に後悔することなく、誇り高く生きることが出来るような気がするのである。
...武田信玄流の戦いの痕跡が残る諏訪原城に興奮したのか、手前味噌な信玄への想いがくどくなってしまった(笑)。 このへんで、お気楽極楽なツーリングのレポートに話を戻したい。
さて、諏訪原城跡の見学を終えて島田金谷インターまで折り返すと、新東名高速道路で大井川を渡り静岡SA(上り)で少し早い昼食をとることにした。 お目当てはもちろん駿河名物、焼津港直送の海鮮料理を供する「焼津丸」で、マグロとカツオ両雄そろい踏みとなる焼津堪能丼@1,280円也をいただくことにした。
焼津港直送を謳うだけあって、透明感があり角の立った切り身は、現地でしか味わえない新鮮さである。 戻りガツオの旬にはまだ早いのかもしれぬが、香ばしく炙られたもっち利したカツオのたたきは絶品であった。 地元でしか味わえない美味いものが、道中のサービスエリアで労せずいただけるのだがから、日頃は退屈だと否定しがちな高速道路も使い方次第なのである。
新東名高速道路静岡SA(上り)、焼津丸の焼津堪能丼@1,280円也
静岡SAから新東名高速道路に走り出すと、ETC二輪車定額プランの対象区間を走りきって、新清水JCTから中部横断自動車道(無料区間)へと分岐し、富士川沿いを溯って行った。
正直なところ、武田信玄が甲斐から駿河経由で遠江へどんなルートで進軍したのか、歴史家でもないバイク親父の想像など及ばぬところである。 しかし、道中で立ち寄った諏訪原城などの国境の城が攻め込まれたときに備え、後詰めの大軍を迅速に送り込むための進軍街道を整備するのは定石であろう。 案外、信玄が整備した街道も現代の高速道路と同様に、海や河川沿いの平野部に敷設されていたのかもしれぬ。
さて、中部横断自動車道を双葉JCTまで走って中央道に走り継げば、目指す甲府市街まであっという間に走りきってしまうことになる。 しかし、援軍を待つ味方や奇襲をかけたい敵もいないバイク親父は、中部横断道を下部温泉早川ICで降りて富士山を望む本栖湖経由で甲府盆地に駆け降りることにした。 高速道路移動がほとんどの往路ゆえに、標高900mを超える本栖湖へ駆け上がる国道300(本栖道)は、ライディングを楽しめる貴重な峠道となる。 そして何より本栖湖からの富士山の眺めは、甲斐路を旅するに欠かせない景色だろう。
中部横断自動車道(無料区間)下部温泉早川ICを降りて富士川を見下ろす
下部温泉早川ICを降りた県道9で富士川沿いを走ると、程なく国道300本栖道への分岐にさしかかり、下部温泉を抜けて本栖湖へと駆け上がって行った。 甲州いろは坂と呼ばれる九十九折れの旧道に変わり、拡張工事を終えた中之倉バイパスで難なく標高を稼ぐことが出来るようになった。 それでも、緩やかな弧を描く”灯第一トンネル”を貫けると、万人受けするバイパスでは物足りぬバイク乗りも、ライディングを楽しめるトリッキーな九十九折れが始まる。
下部温泉から国道300本栖道の九十九折れを本栖湖へと駆け上がる
その後、深い緑に覆われた九十九折れを上りきると、最後に中之倉トンネルを貫けて本栖湖を見下ろす本栖展望公園にたどり着いた。 そしていよいよ、富士山の眺め!っと、盛り上がりたいところだが、残念ながら均整の取れた山裾は雲に覆われ、時折日本一の頂が顔を覗かせてくれるのみであった。
新幹線で静岡を移動する際に富士山を眺める機会は多いが、山梨側からの眺めに出会う機会はまれである。 水深121.6mと富士五湖の中で最も深く、穏やかで透明度が高い本栖湖越しに眺める完璧な円錐形のシルエットは本当に素晴らしい。 残念ながら今回は、千円札にも描かれた本栖湖に映る逆さ富士の景色もお預けとなった。
雲間から山頂を覗かせる富士山、本栖湖展望公園からの眺め
本栖湖展望公園を後にしてさらに本栖湖岸を走ると、青木ヶ原樹海を貫ける国道139に分岐して精進湖方面へと走り続けた。 富士山の北西に広がる青木ヶ原樹海は、富士箱根伊豆国立公園に属し富士山原始林及び青木ヶ原樹海っていうのが正式な名称。 富士山頂からの眺めが波立つ海のように見えることからその名がついたらしい。
しばらくの間、 苔むす樹海を覗きこみながら国道139を走り続けると、程なく精進湖を経由して甲府盆地へと駆け降りる、国道358(精進ブルーライン)へと分岐した。
本栖湖から精進湖へ本栖道で青木ヶ原樹海を抜ける
精進ブルーラインこと国道358、甲府市街へと続く観光道路ゆえペースは上がらぬが、信号停止が無いため渋滞に煩わされることはないだろう。 車列に繋がりながら下って行くと、路側の見通しが開ける場所からは、甲府盆地に敷き詰められたような甲府市街を一望できる。
そして、市街地まで下ってさらに国道356を北上し続けると、JR中央線甲府駅に突き当たり駅脇に陣取る巨大な武田信玄像のお出迎えを受ける。 この1969(昭和44)年に建てられた6.2mの信玄像は、全国の信玄ファンからの寄付によるとのことである。 風林火山ののぼりを掲げた名将の、地域を超えたファンの多さには感心させられる。
JR甲府駅南口の武田信玄像、全国の信玄ファンからの寄付で建てられた
余談だがこのJR甲府駅前の信玄像、戦国最強とも言われた武田信玄のイメージ通りの豪傑さである。 しかし個人的には、弟の逍遙軒信綱(武田信廉)が描いた、屈強な戦国武将らしからぬ穏やかな容姿の方が気に入ってる。 父親の武田信虎や息子の勝頼の肖像に似た細面、享年53歳で病没した体調などを考えると、実弟の忖度無い描きっぷりにより説得力を感じるのだ。 そして、それは、見かけに騙されて油断するなと言う戒め、頼りないくらいの風貌の方が本当に恐ろしい人だったりするのは、戦国時代も現代社会も変わらない。
逍遙軒信綱(武田信廉)筆、武田信玄像(山梨県立博物館蔵)
JR甲府駅前の武田信玄像への挨拶を済ませると、駅周辺の信玄ゆかりの地をめぐる観光ツーリングへと走り出した。 今更ながらではあるが、街中に走り出すと...暑いっ! 猛暑日の気温はピークを迎え、アスファルトの照り返しと車の排気熱は熱風となり、さらに股火鉢と称されるダブハチの空冷エンジンは、容赦なく還暦親父の股間を蒸し上げる。 正直なところ、暑くて寒い甲府盆地の街中をバイクで巡るなら、気候が穏やかな春秋の観光シーズンがお勧めである。
さて、甲府駅を東にかわしてJR中央線を越えると、県道9を真っすぐに北上して目指す武田神社にたどりついた。 参道脇に相棒を停めて門前の茶店で水分補給すると、さっそく拝殿に向けて参道階段をのぼることにした。
武田信玄を祀る武田神社、明治初期からの地元運動で1919(大正8)年に創建
武田信玄を祀神とする武田神社は、明治初期から始まる地元の建設運動で、1919(大正8)年に創建された神社である。 戦国時代の名将を祀っているだけあって「勝運」がご利益だが、勝負事に限らず「人生そのものに勝つ」「自分自身に勝つ」という哲学的なご利益が謳われている。
参拝するだけではピンとこないかもしれないが、多数出版されている専門家の解説書などで、信玄の「戦わずして勝つ」ための戦いぶりや、家臣や領民などの共同体を大切にする政治手腕に触れてみると、己のビジネスや生き様に役立つ「気づき」というご利益が得られるかもしれぬ。
個人的に武田神社に限って言えば、苦しい時の神頼みというよりは、苦しくなる前の神頼みというのがピンとくるのである。
武田神社拝殿、勝負ごとに限らず己に勝つための「勝運」がご利益
武田神社でいただいたご朱印と御守り、これで己に勝つことができるか...
拝殿で参拝を終えて御守りをいただき参道階段を降りて行くと、甲府盆地北端の境内から甲府駅へ真っすぐに延びる道路と、周辺に広がる甲府盆地の景色が目に留まる。
さもありなん、武田神社が創建された躑躅(つつじ)ヶ崎館跡は、武田信虎、信玄、勝頼が武田氏三代に渡り甲斐武田領を治める拠点であった。 遡ると信虎は、1519(天正16)年に背後を山に囲まれ甲斐盆地を見下ろすこの地に躑躅ヶ崎館を造り、翌1520(天正17)年にはその背後に緊急時に立てこもる要害山城を築いたのである。
そして、1582(天正10)年天目山の戦いで武田氏が滅亡すると、躑躅ヶ崎館は破棄されて甲府城が築かれ、豊臣大名による徳川家康への牽制や徳川幕府甲府藩の居城の役目を果たすこととなった。
武田神社の参拝を終えて参道脇に停めた相棒の元へ戻ると...日曜補習か塾帰りであろうか、制服姿の女子高生が参道鳥居で一礼する姿を目にする。 半世紀近くたった現在でも、武田信玄への畏敬は地元で抱き続けられているのである。
武田家三代の拠点躑躅ヶ崎館跡に建つ、武田神社参道から甲府盆地の眺め
武田神社の参拝を終えると、愛宕山スカイラインこと県道119を経由して、甲斐武田氏ゆかりの甲斐善光寺を訪れることにした。 そして走り出して程なく、愛宕山に駆け上がる前の住宅街で、「武田信玄公の墓」の観光案内板が目に留まり立ち寄ることにした。
ところで、遠州三方ヶ原の戦いで家康を破った武田軍は、奥三河の野田城を攻略した後に信玄の病状が悪化し、信長との戦いに向けた進軍をあきらめとされる。 そして信玄は、奥三河、南信濃を経て甲斐へ帰還する途上で病没したと言われており、彼が埋葬されたとされる墓はその道中をはじめ全国に存在する。 遺言により信玄の死は三年間伏せられ、埋葬地も秘密にされたことも、現在でも真の埋葬地が明らかになっていない由縁であろう。
今回訪れた「武田信玄公の墓」の真偽や見栄えの良し悪しは兎も角、信玄の故郷甲斐を巡る旅の道中で、彼に手を合わせる場所があるだけでもありがたい。
武田神社にほど近い武田信玄公の墓、信玄の故郷を巡る旅で合掌
「武田信玄公の墓」へのお参りをすませ住宅地を抜けると、いよいよ甲府盆地の北東部の愛宕山(423m)高台を走る愛宕山スカイラインを駆け上がって行った。 甲府市街から程近い5km程のワインディング、暴走抑制の減速帯も敷設されておらず、緑に覆われた木陰が涼しげな峠道を快適にクルージングする。
全長約5kmの愛宕山スカイライン、緑に覆われた峠道を快適にクルージング
そして、愛宕山スカイラインの見通しが開ける場所からは、足元に広がる甲州ワインのブドウ畑越しに甲府盆地を一望することができる。 この日は雲に遮られ叶わなかったが、その先に富士山も望むことが出来るとのことである。 短い距離ではあるが、甲府市街から程近く、時間が許すならば観光ツーリングの道中に立ち寄りたい、お勧めのワインディングである。
愛宕山スカイラインから甲州ワインのぶどう畑越しに甲府盆地の景色
愛宕山スカイラインを走りきって街に降りると、つきあたった県道6をわずかに走り継いで甲斐善光寺にたどりついた。 甲斐善光寺は、1558年に武田信玄により創建された甲斐の名刹で、国の重要文化財に指定されている。 上杉謙信との川中島合戦(1553-1564年)の最中、信州善光寺の本尊阿弥陀如来をはじめ、諸仏や寺宝類を甲府に移したのが創建の由来。
甲斐武田氏滅亡後、本尊阿弥陀如来は、織田信長によって岐阜へ、徳川家康が再び甲斐へ、そして豊臣秀吉が京都へと各地を転々とし、現在は秀吉により信州善光寺に戻され落ち着いている。 現在の甲斐善光寺の本尊は前立像だった阿弥陀三尊像である。
歴史的な意味に於いても訪れる価値はあると思うが、実際にそこに立つと朱に塗られた金堂の迫力に圧倒される。 1796年に再建された金堂は、撞木造りと呼ばれる様式で27mの高さを誇る。 金堂の中に入ると圧倒される外観とは逆に、穏やかで包まれるような感じを受け、お参りの後しばし佇み古の甲斐時間に身をゆだねた。
武田信玄により創建された甲斐善光寺、高さ27mの撞木造り金堂に圧倒される
武田信玄所縁の武田神社、信玄公の墓、そして甲斐善光寺を巡った後、JR甲府駅近くのビジネスホテルにチェックインしてツーリング初日の行程を終えることにした。 そして、ここまでバイク親父を運んでくれたW800streetをホテルに休ませ、さらにお酒をたしなみながらの美味いもの巡りに繰り出すことにした(笑)。
JR甲府駅近くのビジホに相棒を停め、いよいよ美味いもの巡りの第二部へ
明け方間もない早朝に走り出したおかげで、旅を楽しむ時間はまだまだ残っている。 そして、昼食が早かったせいか小腹も空いてきた。 兎にも角にも、冷たいビールにありつきたいと、宿泊するホテルから程近い「小作」で甲州名物のほうとうをいただくことにした。
早速、猛暑の外界からエアコンの効いた店内に逃げ込むと、まずはキンキンに冷えた生ビールで生き返る。 そして運ばれてきた甲州名物は、アツアツの熟瓜(かぼちゃ)ほうとう1,400円也。 味噌仕立ての鍋で煮込まれた南瓜などの野菜の旨味が、極太の平麺に打たれたほうとうに滲みた滋味深い郷土料理。 真夏日のツーリングで消耗した親父エネルギーを補うに申し分ない。
店内で「ほうとうは、稲作に適さない甲州で生まれ、武田信玄が野戦食に用いた」の紹介文をみつけ、少しばかりの背徳感と共に、エアコンの効いた店で、キンキンに冷えたビール片手に、アツアツのほうとうを平らげる(笑)
甲州ほうとう「小作」甲府駅前店で、熟瓜(かぼちゃ)ほうとう1,400円也をいただく
さて、冷たいビールに合わせて熱々のほうとうで腹を満たすと、JR甲府駅北口にある甲州ワインのワイナリーに向けて歩き出した。 1917(大正6)年創業のサドヤは甲府駅から徒歩5分の立地、日本で一番駅に近いワイナリーかもしれない。
そしてサドヤワイナリーでは、3日前までの予約が必要な地下ワイナリーの見学ツアー@1,000円/人が開催されており、土日最終枠の16:00~のツアーを予約しての訪問である。 食を楽しむワインにこだわるサドヤだが、早朝から食べっぱなしのこの日、食事抜きの試飲で甲州ワインを味わう目論見である(笑)。
1917(大正6)年創業のサドヤで、地下ワイナリーの見学ツアーに参加する
受付をすませてツアーが始まると、ひんやりとした地下の醸造/貯蔵庫に案内され、樽貯蔵庫、一升瓶貯蔵庫などを案内される。 そして、かってのタイル貼り貯蔵タンク内に設けられた展示室では、日本で初めて醸造された甲府ワインの歴史を解説してもらった。
瓶詰されたワインがエステル化で香りが立つ仕組み、戦時中はワインの副生物酒石で潜水艦の超音波ソナーを作っていた話、甲斐善光寺から譲り受けた土地を開拓してぶどうの栽培を始めた話など、昔のワイン造りの道具の説明と合わせて甲州ワインの歴史が分かりやすく解説される。
見学を終えると売店に設けられた試飲場へ、お気に入りは山梨県産のぶどうにこだわったオルロージュ(白)、爽やかな味と香りが特徴の甲州種とソービニヨン・ブランがアッサンブラージュされた深みのある辛口...ようするに、塩を振った焼き鳥、冷しゃぶなどしっかりした味の和食とのバランスが良いらしい(笑)。 メッセンジャーバックで持ち帰るボトルの購入を思案するが、明日の復路でたどる奇襲ルートの峠越えに備え購入を思い止まる。
サドヤの地下ワイナリー見学と試飲で、甲州ワインの歴史と味わいを体験する
サドヤワイナリーで見学ツアーを終えると、明治~昭和初期の甲府城下の雰囲気がコンセプトの、「甲州夢小路」を散策しながら甲府駅方面に戻ることにした。 山梨の特産品が並ぶ店や、山梨産の食材を使った飲食店が並んでいるので、土産物や地元飯を探すに重宝しそうである。
そして一旦ホテルに戻って汗を流し一息つくと、1913(大正2)年創業の「奥藤本店」甲府駅前店で夕食をいただくことにした。 奥藤本店は甲府名物「鳥もつ煮」発祥の蕎麦屋、1950(昭和25)年に考案された鳥もつ煮は、最近のB級グルメブームにも乗っかり今に続いている。
新鮮なレバー、ハツ、砂肝、玉道を、醤油と砂糖で甘辛く炒煮にした鳥もつ煮。 食欲をそそる照り、滋味深い味わいはもちろん、部位毎に楽しめる弾力のある食感は、ここでしかいただけない一品。 甲斐の酒大冠の純米酒と共に、甲府の夜を〆てもらうこととなった。
1913(大正2)年創業「奥藤本店」甲府駅前店、甲府鳥もつ煮発祥の蕎麦屋
ツーリング初日、武田信玄本隊の大軍が一気に移動したであろう街道をイメージして辿った、浜松から静岡経由で甲府まで新東名高速道路から中部横断道路を繋ぐ旅を無事に終えることとなった。
思惑通り、高速道路移動で浮いた時間で巡った信玄ゆかりの史跡に加え、道中の高速道路SAの地元飯や甲府の美味い酒や郷土料理を堪能する密度の濃い旅になったと思う。
特に、晴れふら親父が共感する武田信玄の生き様の痕跡や、地元で引き継がれる信玄に対する畏敬に触れることが出来たのは何とも感慨深い。
明日の復路では、山県昌景の別動隊が奇襲をかけたであっろう峠道をイメージして、まずは甲府から諏訪湖経由で中央道を南下し、その後秋葉街道の兵越峠を越えて浜松まで南下する予定である。
初日の美味いものまみれの観光ツーリングとは対照的に、二日目は酷道まみれの峠越えツーリングになるはずである。 果たして、昭和親父の記憶に残るコマーシャル「一粒で二度おいしい」を体現する旅になるだろうか。
・・・二日目に続く
ツーリング情報
矢場とん 新東名高速道路 NEOPASA岡崎 上り (電話)0564-45-8889
焼津丸 新東名高速道路 NEOPASA静岡 上り (電話)054-295-9105
小作(甲府駅前店) 山梨県甲府市丸の内1-7-2 (電話)055-233-8500
甲斐武田神社 甲府市丸の内1丁目7-4 (電話)055-232-0910
武田信玄公の墓 甲府市岩窪町 (電話)055-237-5702(甲府市観光課)
甲斐善光寺 山梨県甲府市善光寺3-36-1 (電話)055-233-7570
サドヤワイナリー 山梨県甲府市北口3丁目3−24 (電話)055-251-3671
奥藤本店(甲府駅前店) 山梨県甲府市丸の内1丁目7-4 (電話)055-232-0910
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