2023/05/27 尾張~越前戦国旅(2/2日目)、金ヶ崎の戦い編(一乗谷朝倉氏遺跡、金ヶ崎城跡、国吉城跡、小谷城跡、姉川古戦場、奥琵琶湖パークウエイ、つるやパン)
尾張から越前へ走る戦国旅の初日、豊臣秀吉と柴田勝家が織田信長没後の覇権を争った賤ケ岳の戦いの軌跡をたどり、福井市街の宿で一夜を明かした。 越前から尾張へと折り返す二日目は、室町幕府十五代将軍足利義昭を擁立して上洛を果たした信長が、天下統一を目前に反信長勢力と戦いを繰り広げた時代に溯ってみることにする。
義昭が将軍に就任した元亀元年(1570)から、信長に追放され室町幕府が滅亡した元亀四年/天正元年(1573)の間には、信長が新たな中央集権体制を築く密度の濃い歴史が詰まっている。 そして、二日目のツーリングでは、信長と反信長勢力の最終攻防の起点とも言える、元亀元年(1570)に発生した「金ヶ崎の戦い」や「姉川の戦い」などの戦いの痕跡をたどることにした。
金ヶ崎の戦いとは、越前の朝倉義景が将軍義昭の上洛要請に従わなかったことに端を発し、天下静謐をかかげる織田連合軍が一乗谷城の義景討伐への行軍中に発生した戦いである。 結果的に、信長と同盟関係にあった北近江の浅井長政の裏切りで、義景軍と長政軍の挟撃を恐れた織田連合軍が一斉に敗走することになった。
その織田連合軍の撤退戦は「金ヶ崎の退口」とも呼ばれ、特に先陣として越前に深く攻め入っていた徳川家康は、朝倉軍の追撃を受けながら命がけの撤退戦を強いられたのである。
そして金ヶ崎の戦いから二か月後には、天下静謐を掲げながらも敗走し面目を失った信長が家康の援軍を伴い、裏切った浅井長政討伐のため北近江の小谷城へと出陣する。 姉川の戦いとは、織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍と近江の姉川を挟んで激突し、織田・徳川軍が浅井・朝倉軍を小谷城へと敗走させた合戦である。
姉川の戦いに敗れた朝倉・浅井勢だが、その後も、反信長を掲げ挙兵した大阪の石山本願寺、河内の三好三人衆らとともに信長包囲網の一翼を担い出陣を重ねた。 さらに翌元亀二年(1574)には、信長の実効支配に不満をつのらせた将軍義昭の要請で武田信玄も挙兵し、三方ヶ原の戦いで家康が信玄に大敗したことが知られている。
包囲網が拡大し、まさに四面楚歌状態の信長にとってかなり厳しい状態が続くのだが、結果的に三年後の天正元年(1573)には、将軍義昭は追放され室町幕府は終焉し、朝倉・浅井両氏も滅亡してしまうのは前述の通りである。
以上のような、「金ヶ崎の戦い」と「姉川の戦い」を起点とした争いの経緯を踏まえ、越前から尾張へと折り返す復路の行程を紹介してみたい。
福井市街から国道158で大野方面へ走り出すと、信長に焼き払われた越前朝倉氏の城下町が発掘された一乗谷朝倉氏遺跡に立ち寄った。 そして、国道8で敦賀の金ヶ崎城跡へ移動し、家康が決死の撤退戦で逃げ延びた若狭国吉城跡への行程を辿ることにした。
その後若狭湾から琵琶湖北岸へと南下し、奥琵琶湖パークウエイを経由して木之元で昼食休憩を取った。 昼食後は、国道365で近江平野を南下しながら、浅井氏が信長に攻め滅ぼされた小谷城跡、そして織田/徳川軍が浅井/朝倉軍を破った姉川古戦場に立ち寄った。
その後広域農道で関ケ原を経由すると、さらに美濃から尾張へと国道365を南下して、東海環状道大安ICから名古屋方面へと帰路に着いた。
旅を終えて見ると、信長と同盟を結び実妹お市の方を妻にまでしていた浅井長政が、越前朝倉氏に寝返り滅ぼされた顛末と、度重なる援軍要請に応え信長を支え続けた家康の立ち回りの違いが印象に残ることとなった。
そしてリーマン稼業も残り少ない還暦親父は、滅亡した浅井長政と天下人となった徳川家康の立ち回りの違いに何を学んだのか? 己の大義を果たすために長年のシガラミ整理し、納得できるプロセスにこだわりたい今だからこそ、そこに学ぶべきことが多いのかもしれない。
一乗谷朝倉氏遺跡、信長に焼き払われた越前朝倉氏の城下町
ルート概要
福井駅西口恐竜広場-県5→西方-国158→天神-県31→安波賀第2(バス停)-県18→一乗谷朝倉氏遺跡-県18→河和田町-県243(高雄山トンネル)→領家-県2→岩本町-県200→南小山-県198→万葉の里-県201→庄田-国8→道の駅河野-国8→敦賀新港-金ヶ崎臨港トンネル→金ヶ崎城跡、敦賀赤レンガ倉庫-臨港道路→気比の松原-県33(馬背峠トンネル)→水晶浜-県33→ダイヤモンドビーチ-県33(旧道)→佐田-県225→若狭国吉城歴史資料館(国吉城跡)-国27→岡山町1丁目-国161→野口-国303→海津-県557→大浦-県513(奥琵琶湖パークウエイ)→つづら尾崎展望台-県512(奥琵琶湖パークウエイ)→塩津浜-国303→木之本宿(つるやパン)-国303→田部東-国365→小谷城戦国資料館(小谷城跡)-国365→姉川古戦場(野村橋)-国365→野村橋北詰-県271→広域農道→道の駅伊吹の里旬彩の森-広域農道→藤川-国365→玉-広域農道(戦国ロード)→上石津町牧田-国365→上石津町打上-県107→志礼石新田-国365→東海環状自動車道大安IC
ツーリングレポート
二日目の朝、JR福井駅で”フクイ”の学名を冠するご当地恐竜達に見送られながら、一乗谷朝倉氏遺跡に向けて走り出す。 福井県は日本の恐竜化石の約8割が発掘された恐竜王国として知られており、旅の起点としたJR福井駅西口には、フクイラプトル(全長2.7m)、フクイサウルス(約4.7m)、フクイティタン(約10.0m)の、動く実物大模型が設置されているのだ。
また、福井市に隣接する発掘地勝山市には、50体の恐竜骨格標本やジオラマ展示が充実した、福井県立恐竜博物館が人気を博している。 山間を貫ける九頭竜湖経由の国道158で福井を訪れる際には、是非立ち寄りたい道中施設であろう。
残念ながら、琵琶湖周辺の古戦場を巡る今回の旅ではそれも叶わず、肉食恐竜の捕食シーンよりも血生臭い戦国大名の殺し合いの痕跡をたどる次第である(笑)。
2007年に福井県勝山市で発掘されたフクイティタン全長10m
さて、県道5から国道158へと走り継ぎ福井市街を抜けると、一乗谷朝倉氏遺跡の案内標識に従って県道31に分岐して羽足川を渡った。 その後、羽足川対岸から道なりに県道18に分岐して、朝倉氏が築いた城下町の痕跡が残る一乗谷朝倉氏遺跡に差しかかった。
越前朝倉氏は、南北朝時代に但馬国朝倉庄から越前に入国し、応仁の乱を契機に越前国を治める戦国大名となり、天正元年(1573)に5代義景が信長に滅ぼされるまで100年を越えて続いた。
その越前朝倉氏が築いた一乗谷城下は、南北5キロの谷の両端を堅牢な城戸が守る構造で、1万人を超える人々が暮らすインフラが整備され、京都との文化交流もあったことから北の京都と呼ばれていた。 朝倉氏滅亡後、都市として再興されることなく埋もれたことが、遺跡を450年以上も良好に保つ要因となったらしい。
県道18に分岐して北側を守る下城戸を越えると、道路沿いに発掘された建物の区割りが続き、当時の繁栄ぶりが偲ばれる。 さらに一乗谷遺跡の中心部まで走ると、5代当主義景が暮していた朝倉館跡の背後に、標高473mの一乗谷城跡を望むことが出来る。 一乗谷城跡には、現在も曲輪や空堀などの遺構が残り、戦国時代の堅固な山城の守りを伺わせるが、信長に侵攻されたときに実際に使用されることなく廃城となった城である。
朝倉屋敷跡に程近い駐車場にW800を停めて遺跡に歩き出すと、様々な遺構が残る谷は静寂に包まれ、信長に焼き払われた当時にタイムスリップしたような不思議な感覚を覚える。 できれば、観光客で賑わう前の早朝に訪れ、その雰囲気を味わっていただきたいものである。
5代当主義景が住んだ朝倉館跡、背後に一乗谷城跡を望む
早速一乗谷遺跡に歩きだすと、まずは当主義景が暮らした朝倉館跡を訪れた。 土塁と濠で囲まれた館跡には、主殿、会所、台所、厩、蔵など、暮らしや政に必要な施設だけでなく、日本最古の花壇や京風石組みの庭園跡が残り、義景の文化人としての趣向がうかがい知れる。
ところで、後の室町幕府第十五代将軍足利義昭は、かつて三好氏に都を追われた際に越前朝倉氏を頼り、後見となった朝倉義景がこの朝倉館で元服までさせた経緯がある。 しかし、義景が足利義昭の上洛支援要請に応えることは無く、結果的に義昭は信長を頼って上洛を果たし十五代将軍の座につくこととなった。
そんな背景もあり、将軍義昭の名を借りた信長からの上洛要請に応えずとも、越前朝倉が攻め滅ぼされることになるなど思いもよらなかったのかもしれぬ。 実際に、元亀元年(1570)に天下静謐の命を受けた信長の討伐対象は反幕府を掲げる若狭武藤氏であり、信長が越前朝倉氏に矛先を変えたのは、朝倉氏の武藤氏への支援を知ってからだと言われている。
朝倉義景が暮していた朝倉館跡、後の将軍足利義昭はここで元服した
朝倉館跡の散策を終えて駐車場に戻ると、午前9時を過ぎて開場した”復元町並”を見学することにした、入場料は税込み330円也。 福井市が運営する”復元町並”では、発掘調査で出土した塀の石垣や建物礎石をそのまま使い、約450年前の町並が忠実に再現されている。
そして、武家屋敷から町家に至るまで各屋敷には井戸があり、トイレや排水溝などの生活インフラが整備されていたことに驚かされる。 また、還暦過ぎの昭和親父にとっては、幼いころに祖父母が暮す農村で見かけた、主家に土蔵、土間、釜土、便所等々、懐かしさすら覚える暮らしの様が意外であった。 ついこの間まで日本の農村には、戦国時代と変わらぬ暮らしが残っていたわけである。
復元町並に再現された武家屋敷、土塀に囲まれた建屋や庭園
復元町並の通りに面して商人や職人の町家が並ぶ
さて、一乗谷を訪れるに際し朝倉義景のことを調べてみると、越前国の統治や文化人として優れていた評価にたどりつく。 実際に一乗谷朝倉氏遺跡を訪れ、北ノ京とも呼ばれた城下町の痕跡に触れ、その評価の意味を知ることとなった。
一方で、戦国大名でありながら戦いの才覚が欠けていたとも言われており。 実際に、元亀三年(1572)反信長を掲げ挙兵した武田信玄が、遠江側から信長に同盟する家康を攻略している最中に、近江側で浅井長政と共に信長を引き付けていた義景は独断で帰陣し、信玄に厳しく批判された逸話も残っている。
そして翌年の天正元年(1573)、義景軍は小谷城への再布陣を信長に阻まれ、その撤退戦で大きな打撃を受けて越前朝倉氏は滅亡、小谷城の浅井氏も滅ぼされることになる。 その他、堅固な一乗谷城を備えながら籠城戦を戦わず、逃れた大野郡司朝倉景鏡の元で裏切られ自刃する結末まで、朝倉義景の実戦の戦いぶりには疑問符がつきまくるのである...450年前の一乗谷が、平和ボケした現在の日本にだぶって見えてしまうのは私だけだろうか。
さてさて、乗谷朝倉氏遺跡の散策を終え県道18に走り出すと、次の目的地である敦賀の金ヶ崎城址に向けて南下を開始した。 一乗谷を貫けると里を繋ぐ林間ワインディングが始まり、W800Stが奏でる空冷並列二気筒360°クランクエンジンの心地よい排気音とともに、小気味良い切り返しが続く峠道でライディングを満喫する。
ところで、越前海岸で日本海に臨む越前地方だが、意外にも平野部の割合は二割程度らしい。 西側海岸沿いの丹生山地、東側内陸の両白山地が南北に走り、東西の山間部が福井平野を挟み込む地形を成している。 そのため、峠中毒のバイク親父は混雑する平野部を避け、海岸沿いと内陸の山間を移動することが多くなる。
今回の復路ルートも、県道18で内陸の山間を南下して裾野の田園へと県道を繋ぎ、越前市街で合流した国道8で混雑する平野部を短く貫けて、そのまま海岸沿いの山間へと駆け上がる算段である。
一乗谷から県道18を南下、林間の峠道にW800の排気音が心地よく響く
国道8で越前市街を抜けて郊外の山間へと駆け上がると、信号停止も無く流れの良いダイナミックなワインディングが始まる。 高めのギアで大きくアクセルを開けながら、W800の粘るエンジン特性でクルージングを楽しんでいると、いよいよ、切り立った海岸線の先に目指す駿河湾が見えてきた。
国道8で山間を抜け、切り立った海岸線の先に目指す敦賀湾を望む
その後も、越前海岸特有の直線的に切り立った隆起海岸の景色を眺めながら走り続け、路側に見つけた敦賀新港の案内標識に従い国道8から離脱した。 そして道なりに臨海道路を走ると、敦賀湾岸の先に金ヶ崎城址を望むフェリーターミナルにたどりついた。
金ヶ崎の戦いが勃発した元亀元年(1570)当時は、敦賀湾に突き出た金ヶ崎山(海抜86m)に築かれた金ヶ崎城であったが、残念ながら現在は金ヶ崎城址へと続く海岸線は埋め立てられ、三方を海に囲まれた天然要害の景色を眺めることは叶わない。
敦賀新港フェリーターミナルから、敦賀湾岸の先に金ヶ崎城跡を望む
敦賀新港フェリーターミナルから遠く金ヶ崎城跡を眺めた後、金ヶ崎臨港トンネルで金ヶ崎山(海抜86m)を貫けて、「敦賀赤レンガ建物」が傍らに建つ金ヶ崎城跡の足元にたどりついた。
ちなみに敦賀赤レンガ建物とは、明治から昭和初期にロシア経由の貿易港として栄えた敦賀湾を象徴する建造物として、国の登録有形文化財に指定された観光名所である。 戦国妄想に夢中のバイク親父は、観光客で賑わう近代日本の産業史跡を横目に、越前朝倉氏の敦賀守護拠点だった金ヶ崎城を見上げる。
さて元亀元年4月、若狭国吉城を拠点に敦賀金ヶ崎城を攻略した織田・徳川連合軍は、朝倉義景の本拠地一乗谷城に向け越前への侵攻を開始した。 そして、先陣を切った家康軍が越前に入る木ノ芽峠に差しかかった時、信長の妹婿で同盟を結んでいた北近江の浅井長政が離反し、朝倉方へと寝返ったのである。
そんな越前朝倉軍と北近江浅井軍に挟撃される極めてやばい状況から、織田・徳川軍の金ヶ崎の退き口と呼ばれる撤退戦が始まる...といっても総大将の信長は、浅井長政の裏切りを察知した未明には、「是非に及ばず」と十数名の馬廻とともに京へと帰還してしまう。
本当にやばかったのは、信長軍殿となった豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)に知らされるまで浅井氏の裏切りに気付かず、最前線の木の芽峠に取り残された家康軍であろう。 また、もよりの金ヶ崎城は戦国時代の最新防御構造を備えておらず、信長が朝倉攻めの拠点とした若狭国吉城まで約10kmの撤退戦を強いられることになったのである。
ちなみに、金ヶ崎城は麓に建つ気比神宮の神域であったために、朝倉氏は南北朝時代の城の改修補強が出来なかったらしい。 実際に、赤レンガ建物の傍らから金ヶ崎城跡を見上げても、小高い丘を覆う木々の下に難攻不落な曲輪や切岸、空堀などの痕跡が隠れているようには見えない。
近代史跡赤レンガ倉庫の傍らから、戦国史跡金ヶ崎城跡を眺める
敦賀市街から幹線国道27をたどれば、家康達が撤退目標とした若狭国吉城にたどり着くのは容易である。 しかしツーリングルートとしてはあまりに味気ないので、敦賀半島を横断する峠道で敦賀湾から若狭湾にぬける県道33をたどってみることにした。
そして、赤レンガ建物を後にして道なりに湾岸を走ると、三保の松原・虹ノ松原と並ぶ日本最大松原の一つで、国の名勝にも指定されている気比の松原にさしかかった。 敦賀湾の最奥部西側半分を占める気比の松原には、約1kmの海岸線に樹齢約200年の17,000本の赤松・黒松が並び、白浜青松のコントラストを眺めることが出来る。
万葉集や日本書紀にも詠まれている気比の松原、1300年以上前から砂地の塩害環境で生き続ける木々のエネルギーを感じながら、松原を貫ける海岸線をゆっくりとクルージングする。 古から気比神社の神苑だった気比の松原だが、元亀元年に越前侵攻した信長に没収されている。
そんな旅の途中で耳にする逸話にも、神社に遠慮して要の城を改修しなかった朝倉義景と、問答無用で神社の神域を没収した信長の、人間性や天下統一に向けた覚悟の違いがうかがい知れる。
日本三大松原の一つ気比の松原、13,00年続く松原の生命力を感じる
気比の松原を貫けると道なりに県道33へと走り継ぎ、敦賀湾に振り返りながら敦賀半島東岸を北上する。 その後、県道33は海岸線から離れて馬背峠方面へと駆け上がり、馬背峠トンネルを貫けると同時に若狭湾の眺望が一気に広がった。
そして、馬背峠から水晶浜にむけて駆け降りると、海岸線の先に家康達が撤退目標とした若狭国吉城を望む県道33旧道に分岐し、さらに走り続けた。 若狭国吉城は、若狭武田氏の重臣栗屋勝久が戦国時代に築いた城で、越前朝倉氏の二度の来襲を撃退した堅固な防御構造を有する城である。
元亀元年当時、若狭武田氏勢は足利将軍派と反将軍派に二分されており、織田・徳川軍は将軍派だった栗谷津久の居城国吉城を越前侵攻の拠点とした。 また、反将軍派の武藤氏討伐が、その後ろ盾となっていた越前朝倉氏討伐へと拡大したのは前述の通りである。
敦賀半島西岸の海岸線の先に、城山(197.3m)に築かれた国吉城跡を望む
家康達が必死で目指した国吉城の姿を妄想しながら若狭湾岸を走り、さらに椿トンネルで国吉城跡の下を貫けて若狭国吉城歴史資料館にたどり着いた。 資料館で入場料100円を支払えば、五層の曲輪を尾根伝いに連結した連郭構造など、越前朝倉氏が攻略できなかった要塞堅固な城の守りを知ることが出来るだろう。
結果的に最前線に取り残された家康軍は、国吉城に駆け込んで朝倉軍の追撃をかわし、無事京への帰還を果たすこととなった。 その撤退戦では、朝倉軍に包囲された豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)を救援した活躍ぶりまでが伝えれている。
最も遠方から参陣した徳川軍が織田軍よりも敵陣深く攻め込み、総大将の信長は家康に浅井氏の裏切りも知らせず逃げ去った状況で、見捨てても文句を言われる筋合いの無い秀吉まで助けた理由が何だったのか? 金ヶ崎の戦いから生還した織田徳川連合軍の復讐戦、姉川の戦いの痕跡を訪ねた後で改めて考えてみたいと思う。
若狭国吉城歴史資料館の背後に、木々に覆われる難攻不落の国吉城跡
若狭国吉城歴史資料館の見学を終え国吉城跡を後にすると、国道27から国道161、さらに国道303へと幹線国道を走り継いで、琵琶湖北岸をトレースする県道557へと走り出した。 県道557で琵琶湖岸を時計回りに走りだすと、道なりに奥琵琶湖パークウエイへと走り継ぐことが出来る。
日本一の広さを誇る湖面はひたすら穏やか、鏡のような湖面を走るような錯覚を覚えながら、緩やかな湖畔ルートのクルージングを楽しむ。 W800の低速トルクを活かして高めのギアで開けながら立ち上がると、パルス感のある心地よい排気音が湖面に響き渡る。
奥琵琶湖パークウエイへ続く県道557、琵琶湖北岸をクルージング
やがて奥琵琶湖パークウエイは湖面から離れ、つづら尾埼展望台に向けての駆け上がりにさしかかる。 タイトな九十九折れはなかなかトリッキーだが、空冷二気筒360°クランクエンジンの鼓動とトラクションを感じながら、相棒の車重も忘れて小気味よいライディングを楽しむ。
今更ながらではあるがW800stは、様々な道路環境や速度域でエンジンの存在感や操る楽しみを感じることが出来るオートバイだと感じる。 左右一対のシリンダー、バイクと乗り手、それぞれが調和して折り合いを付けながら、共鳴して高め合うライディング感が、これまで溜め込んできた様々な価値観に折り合いを付けたい還暦親父の境遇にはまるのかもしれぬ。
己の年齢を、挑戦を諦める言い訳にはしたくは無いが、速い遅いなどと言う物理的な尺度を、精神的な達成感や満足感に淘汰させるべきお年頃に差しかかったことは間違いない。 時折我を忘れて右手を捻る還暦親父が、「そんな乗り方をするバイクじゃ無いだろう」っと、良識ある友人に窘められるのはご愛敬(笑)。
さて、奥琵琶湖パークウエイを駆け上がり、路側の青々とした桜並木越しに琵琶湖を見下ろしながら標高を稼いで行くと、ほどなく、観光客でにぎわうつづら尾埼展望台にたどりついた。
つづら尾埼展望台に向け奥琵琶湖パークウエイを駆け上がる
葛籠尾半島の高台にあるつづら尾埼展望台は、奥琵琶湖から近江平野を挟んだ伊吹山まで、北近江の景色を一望できる人気の展望台である。 湖岸道路から眺める湖面も素晴らしいが、展望台から望む対岸が霞む琵琶湖の眺望からは、日本一を誇る湖のスケール感を再認識することが出来る。
つづらお展望台から、浅井長政が信長に攻め滅ぼされた小谷城、織田・徳川軍が浅井・朝倉軍と激突した姉川の戦いの古戦場など、今回の旅を締めくくる史跡の位置関係をリアルなジオラマで確認し、長浜方面へ続く奥琵琶湖パークウエイに走り出すことにした。
葛籠尾半島の先端、つづら尾埼展望台から奥琵琶湖の絶景を望む
つづら尾埼展望台駐車場から奥琵琶湖パークウエイへと走り出すと、木之元方面に向けて一方通行のダウンヒルが始まる。 一方通行規制前の名残かセンターラインが引かれており、身に沁みついた習性が邪魔をするのか、どうしても対向車線を割ったライン取りができず(笑)。
そして、荒れた路面のトリッキーな下りを慎重に下りきると、合流した国道303を道なりに走り北国街道木之本宿にたどり着いた。 木之本宿は地蔵院の門前町として栄えた宿場で、本陣薬局など江戸時代の街道の面影を残す町屋が立ち並び、参拝客で賑わった当時の雰囲気をしのぶことが出来る。
丁度昼時、宿場にさしかかり直ぐに目に留まった1951年創業のつるやパンで、名物のサラダパンを頬張り簡単に食事を済ませることにした。 刻んだたくあんをコッペパンに挟んだサラダパン、独創的な具材もさることながら、コッペパンのフワッフワの食感に老舗パン屋の実力を知る。
店前のベンチに腰掛けて、冷たい麦茶を片手にどこか懐かしい菓子パンを頬張っていると、生まれ育った福岡の田舎町の駄菓子屋で菓子パンを頬張っていた頃のことを思い出した。 傍らにW800stが停まっていなければ、学生に混じり菓子パンを食らう怪しい井出達の親父、ノスタルジーに浸るのも程々に古戦場巡りの旅へと走り出すことにした。
創業1951年のつるやパン、軒先のベンチで名物のサラダパンを頬張る
独創的な具材だけでなく、フワッフワのパンに老舗パン屋の実力を知る
国道303が木之本宿を貫けると道なりに国道365へと走り継ぎ、信長を裏切り攻め滅ぼされた浅井長政の居城小谷城跡をめざし南下する。 近江平野の田園風景を眺めながら流れに乗って走ると、国道沿いに見つけた小谷城跡の案内看板に沿って分岐し、程なく小谷城跡麓にある小谷城戦国歴史資料館の駐車場にたどりついた。
浅井氏三代の居城小谷城は、北近江の小谷山(495m)から南へ延びる二筋の尾根に沿って築かれた山城である。 曲輪や土塁などの遺構は木々に覆われているが、麓から見上げたその険しさから守り堅固な城であったことがうかがい知れる。
さて、元亀元年(1570)4月の金ヶ崎の戦いで、浅井長政の裏切りにより撤退することになった織田・徳川連合軍は、同年6月に長政討伐のため小谷城に迫り、姉川河畔で浅井・朝倉連合軍と激突した。 結果的に、姉川の戦いで敗れ小谷城に撤退した浅井・朝倉勢は、反信長勢力の一角として戦い続けたが、後三年後の天正元年(1573)に両氏とも攻め滅ぼされることとなった。
上洛をめざす信長が、長政の才能と手腕を認めて自ら同盟を申し入れ、実妹お市の方を嫁がせた経緯がある。 それゆえ長政の裏切りに恨み骨髄の信長は、長政の頭蓋骨を漆塗りにして金粉を掛けた箔濃(はくだみ)に仕立て、諸将に披露したことが知られている。
また小谷城落城の際、お市の方は娘の三姉妹(茶々、初、江)とともに助け出され、浅井氏滅亡後に柴田勝家と再婚した。 賤ケ岳の戦いで秀吉に敗れた勝家は越前北ノ庄で自刃し、三姉妹を秀吉方に逃がしたお市の方は勝家と共に自害したことは、昨日のツーリングレポートでも紹介した通りである。
助け出された長女茶々は秀吉の側室淀殿となり、息子秀頼とともに大阪の陣で自害して豊臣氏滅亡に立ち会った。 次女初は徳川方の大名に嫁ぎ大阪の陣で姉淀殿との和平交渉にあたり、三女江は徳川二代将軍秀忠の正室となった。
大河ドラマ感満載のフィクションは行く先々の古戦場に詳しく解説されており、戦国大名に関わる女性にもまた、生き残るしたたかさや命がけの判断が必要だったことを再認識することとなった。
現在の日本では斬首切腹のけじめこそないものの、生き残る強かさや人生を左右する決断が必要な状況は変わらないだろう。 ただし、戦国時代とは男女の立ち位置が入れ代わってきているように見えるのは、昭和親父の偏見であろうか(笑)。
小谷城戦国歴史資料館で小谷城跡を巡る地図が入手できるが、小谷山の尾根伝いのルートはどうみても軽登山(笑)。 お気楽ツーリングの道中に立ち寄ったバイク親父は、トレッキング姿で城跡巡りに興じる方々を横目に、旅の最終目的地である姉川古戦場を目指して走り出すことにした。
小谷城戦国歴史資料館越しに、尾根伝いに小谷城跡が残る小谷山を望む
小谷城跡から国道365に走り出して7km程南下すると、織田・徳川連合軍25,000と浅井・朝倉13,000が、姉川を挟んで対峙した姉川古戦場にたどり着いた。 そして古戦場から振り返ると、浅井長政が拠点とした小谷山を望むことが出来る。 余談だが、姉川を渡る野村橋は老朽化による通行止め、姉川北岸の古戦場碑には北側からアクセスした方が良い。
さて元亀元年(1570)6月、姉川南岸から織田信長と援軍の徳川家康が布陣し、北岸には浅井長政と援軍の朝倉景建がそれぞれに対峙した。 現在も古戦場付近には、血原、血川など物騒な地名が残り、姉川の戦いの激しい白兵戦がうかがい知れる。
古戦場碑がある姉川北岸に合戦地を伺わせる地名が残ることから、織田・徳川軍が姉川を渡り浅井・朝倉陣へと攻め込んだとも言われている。 そしてその戦いでも、金ヶ崎の戦いの命がけの撤退戦から折り返し遠征してきた家康軍が、酒井忠次・本多忠勝・榊原康政などの主力家臣団が加わり、劣勢の織田軍を救う活躍を見せている。
そして結果的には、遮るものが無い平野戦の通説通り、数に勝る信長・家康連合軍が勝利し、浅井・朝倉連合軍が小谷城に敗退したのは、これまでに紹介してきた通りである。
姉川野村橋からみた姉川古戦場、遠く左手に長政の拠点小谷山を望む
姉川古戦場で、越前から敦賀、若狭を経て近江まで、元亀元年(1570)の戦いの痕跡を巡る旅を終え、今回の旅のテーマである織田信長を裏切った浅井長政と、対照的に信長への滅私奉公?を続けた徳川家康の立ち回りの違い、それぞれの思惑について妄想してみることにした。
浅井長政の思惑
北近江の新興大名だった浅井氏は越前朝倉氏の後ろ盾を得ていた経緯があり、その恩義から越前攻略に向かう信長を裏切ったと言われている。 しかし、永禄三年(1560)に若干16歳で南近江六角氏の大軍を破り、信長も認める実力を示した長政である。 義理人情だけで勝ち目のない舵を切ったとは思えない。
実際に長政の思惑通り、姉川の戦い後の元亀元年(1570)9月に、大阪の石山本願寺、三好三人衆が反信長の戦いに加わった。 さらに、元亀三年(1572)には将軍足利義昭とその要請を受けた武田信玄が信長包囲網に加わり、信長は追い込まれて行くことになる。
にもかかわらず、長政の思惑が外れ滅亡に至った要因は、長政が忠義を示した朝倉義景の無能さであろうか。 10月に西上作戦を開始した信玄が、12月の三方ヶ原の戦いで家康を大敗させ、将軍義昭が二条御所で挙兵するタイミングで...小谷城に籠城していた朝倉義景は独断で越前一乗谷に帰陣し信玄に激怒される。 そして、翌天正元年(1573)7月に再入城を試みた義景は信長に大敗して一乗谷で滅亡、続いて小谷城の長政も攻め滅ぼされる結果になった。
その間武田軍は、朝倉義景の再挙兵を待てず2月に野田城を攻略した後、信玄が病に倒れ甲斐へと帰還することとなった。 結果的に、包囲網の個別撃破を目論む信長を一斉に攻撃する機会は、義景が越前に帰還したタイミングしかなかったことになる。
還暦親父のリーマン稼業で、かつて苦楽を共にした人間関係に助けられることも少なくない。 ただし、義理を果たす相手の力量を見極めなければ、我が身を滅ぼすことにもなりかねないということである。 もっとも、それを見極める力も己の実力なのだろうが。
往路で紹介した賤ケ岳の戦いで、柴田勝家方の前田利家が旧知の秀吉方へと離反し、勝利した秀吉の元で加賀百万石の礎を築いた事例が、浅井長政滅亡との対局であろう。
徳川家康の思惑
家康の長政との大きな違いは、「厭離穢土欣求浄土」の旗印と共に天下泰平実現の大義を持っていたことだろうか、それゆえに目先の戦いの先を見据えたかじ取りが見て取れる。 そうでもなければ、元亀元年(1570)に家康が領土報酬も見込めぬ無理な援軍要請に応え続けた理由、越前(4月)、近江(6月)、大阪(9月)への計三回、1,000kmにも及ぶ自腹遠征を敢行する理由が見当たらない。
また当時、永禄三年(1560)桶狭間の戦いを契機に三河国大名として独立した家康は、その後武田信玄と旧今川領を分割接収し、三河と遠江二か国60万石の大名になっていた。 元亀元年(1570)年は信玄との新たな国境を守るため、岡崎城から浜松城への移転事業に追われる慌ただしい年でもあった。
さてさて、家康の先を見据えた舵取りとはどんな思惑だったのか、還暦リーマン親父が思い当たる理不尽な遠征要請に応えた理由をいくつか挙げてみたい。
- 全国区のプレゼンス獲得:将軍義昭直轄の奉公衆として、義昭からの援軍要請に応えることにより、信長と同格であることを示したかった。 さらに、天下静謐を掲げる戦いで徳川軍の実力を示し諸大名から一目置かれる存在になれば、不要な小競り合いを防ぎ交渉事を有利に進められることになる。
- 信長との同盟の維持:戦国最強とも言われる武田信玄に織田・徳川連合戦力で対抗する必要があった。 また、火力勝負の戦いが増え、堺港交易を仕切る信長からの輸入に頼る銃弾と火薬の調達は必須であった。 実際、長篠設楽原の戦いで武田勝頼を破ったのは、信長の銃弾と火薬の調達力によるところが大きかったと考えられる。
- 徳川軍の実戦スキルの向上:実戦でしか磨けぬ武将間の連携が必要な野戦スキルを育成したかった。 実際に、金ヶ崎の退口で家康を守りながら退却する撤退戦術を身に着けていなければ、三方ヶ原の戦いで信玄から敗走した家康は討死していたかもしれぬ。
以上のいずれも、リーマン稼業にも通用しそうな理由であるが、その最上流にあるのは信長の天下統一という大義に家康が共感していたからではなかろうか。 共感というのは、寄らば大樹の陰とばかりにご機嫌伺いするのではなく、対等な立場でその価値観を共有すると言うことである。
それ故に、支配者が足利義昭から織田信長、さらに豊臣秀吉に変わっても軸足をブラさず、是々非々で先を見据えた立ち回りが可能になり、天下泰平の大義に一歩一歩近づくことが出来たのであろう。
また、その主従逆の立場も理解できるゆえに、共感してくれる旧敵の人材を是々非々で活用する懐の深さを発揮できたのではなかろうか。 大義の大小は兎も角、天下泰平の偉業を達成した家康の思考と立ち回りには、リーマン人生の集大成を目指す還暦リーマン親父も学ぶことが多い。
しかし正直なところ、時間には限りがあり結果は時の運、還暦親父ゆえの発想かも知れぬが、思い描いた姿にたどり着けなくとも後悔無きよう、今現在の納得ゆくプロセスにこだわりたいところである。 それは病に没する刹那まで、完璧な戦いにこだわりぬいた武田信玄の生き様から学んだことである。
さてさて、姉川古戦場を最後に古戦場巡りを終えると、伊吹山の麓を走る広域農道を関ケ原へと南下した。 さらに、戦国ロードで関ケ原市街をバイパスして国道365を南へ走り、東海環状自動車道大安ICから名古屋方面へと帰路に着いた。
古戦場巡りの旅の終わり、広域農道戦国ロードで帰路に着く
これまで、尾張・三河近郊の古戦場を巡ることが多かったのだが、今回、美濃、近江、そして越前まで足を延ばし、元亀元年(1570)に起こった戦いの痕跡を巡る旅を終えた。 その旅の過程で、これまでバラバラだった戦いのタイミングや位置関係がつながり、よりリアルな戦いの経緯や武将たちの心の中まで推し量ることが出来たような気がする。
嫌いなお勉強の象徴だった日本史の年号が、記憶力を試すだけの記号から戦国物語を繋ぐカギに変わると、年だけでなく、月、日、そして時間まで気になりだすことに我ながら驚いた(笑)。 さらに、身を晒すオートバイだから体感できる、刻々と変わる山城の稜線や戦場のスケール感は、繋がった物語をリアルなフィクションとして浮かび上がらせてくれる。
今後も機会があれば、相棒のW800st とともに気になる史跡に遠征し、現場で繋いだリアルな物語を消えかかるお勉強の記憶に上書きしたいものである。
ツーリング情報
一乗谷朝倉氏遺跡博物館 福井県福井市安波賀中島町8-10 (電話)0776-41-7700
若狭国吉城歴史資料館 福井県三方郡美浜町佐柿25-2 (電話)0770-32-0050
つづら尾埼展望台 滋賀県長浜市西浅井町大浦1098番地の4 (電話)0749-89-0281
つるやパン 滋賀県長浜市木之本町木之本1105 (電話)0749-82-3162
小谷城戦国歴史資料館 滋賀県長浜市小谷郡上町139番地 (電話)0749-78-2320
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