2023/05/26 尾張~越前戦国旅(1/2日目)、 賤ケ岳の戦い編(大垣城、長浜城、余呉湖、北の庄城、海洋堂、翼果楼、食処えちぜん、やきとりの名門秋吉)
天下統一を果たした、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康を輩出した尾張三河地方では、戦国時代の行く末を左右した古戦場が多く存在する。 そして、織田信長が桶狭間の戦い(1560)で駿河の今川義元を討ち取り、同盟を結んだ三河の徳川家康が東への備えを果たすようになると、尾張から、美濃、近江、そして越前へと合戦の舞台は西へと広がって行った。
今回のツーリングは、尾張名古屋から近江琵琶湖沿いへと北上し越前福井で折り返す一泊旅である。 尾張、美濃、近江、そして越前に至るルート沿いで、戦国史の転換点となった城跡や古戦場を巡ってみたい。
そして、初日の往路でたどったのは、織田信長が本能寺の変(1582)で横死した後、天下簒奪を狙う豊臣秀吉と柴田勝家による織田家内紛の顛末である。 結果的に、余呉湖岸で勃発した賤ケ岳の戦い(1583)で勝利した秀吉が、越前の居城北の庄城に逃げ延びた勝家を攻め滅ぼすことになったが、その勝敗を分けた要因は現代のリーマン親父も教訓とすべきものであった。
ツーリングルートとしては、揖斐川河口から堤防道路を溯った大垣城を起点に、秀吉が勝頼方から奪い取った長浜城址を経由し、賤ケ岳を見上げる余呉湖へと北上した。 秀吉の大軍が、大垣城から余呉湖までの十三里(52km)を、5時間で移動し勝家勢を迎え撃ったとされる美濃大返しの再現ルート。 はたして、現代の鉄馬W800Stを駆る晴れふら親父は、400年以上前の人馬の機動力を上回ることが出来たのであろうか?
その後福井市街の北の庄城址を目指し、北国街道こと国道365の栃ノ木峠で近江から越前の国境を越える予定であったが、予期せぬ災害通行止めの電光掲示板に押し返される結果となった。 気を取り直して北陸自動車道木に迂回した後、越前海岸を経由して福井市街の北の庄城址を訪れ初日の行程を終えることとなった。
走り終えて見ると、現地を訪れてみて初めて浮かび上がる合戦の様、オートバイだから感じることができる合戦のスケール感を体験する旅となった。 そこで浮かび上がる戦国大名の生き様は、還暦親父の残り少ないリーマン人生の教訓にすべきものであった。
親父の戦国妄想がらみの小難しい話は兎も角、長浜の鯖素麵、越前海岸の海の幸、福井の焼き鳥と、土地々々でいただいた美味いものは、分かりやすくお伝えできると思う(笑)。
賤ケ岳の戦いについて
ツーリングレポートで紹介する賤ケ岳の戦いについて、合戦の背景と経緯について簡単に紹介しておきたい。
1582年6月、明智光秀による本能寺の変で織田信長と嫡男信忠が没した後、11月に次男信雄を家督とする豊臣秀吉と、三男信孝を家督とする柴田勝家の織田家後継争いが勃発する。
12月には、秀吉は柴田方の長浜城を落すなど攻略を開始し、翌年3月には雪解けを待った勝家勢が越前北の庄城から出陣し、4月に賤ケ岳など余呉湖畔周辺で両軍は対峙することとなった。
秀吉は岐阜城で挙兵した信孝を攻めるため大垣城に布陣するが、秀吉の不在を突いた勝家勢の攻撃で秀吉勢は大打撃を受ける。 その知らせを受けた秀吉の大軍が、大垣城から賤ケ岳の戦場へ短時間で取って返したのが美濃大返しである。 結果的に、賤ケ岳の戦いで敗れた柴田勝家は敗走した越前北の庄城で自刃、降伏した信孝も信雄から自害させられることとなった。
余呉湖越しに望む賤ケ岳、秀吉と勝家が信長亡き後の覇権を争った
ルート概要
伊勢湾岸道湾岸桑名IC-県504→田町-県613→伊勢大橋西詰-国1(伊勢大橋)→中堤入口-県106→木曽三川公園-県220→海津橋東-広域農道に迂回→福岡大橋東-県220-県232→福束大橋東詰-県232(福束大橋)→横曽根3-国258→旭町-県237→大垣城-県18→河間-国21→新日守-国21(関ケ原バイパス)→伊吹山口-国365→藤川-広域農道→道の駅伊吹の里旬彩の森-県40→野一色東-県19→市場-県509→黒壁スクエア(海洋堂,翼果楼)-県2→長浜城歴史博物館-県331(さざなみ街道)→尾上-県44→大音-国303→北陸自動車道木之元IC-国365→余呉湖口-県33→余呉湖、賤ケ岳(外周県532)-県33→余呉湖口-国365→木之元IC-北陸自動車道に迂回→今庄IC-国365→大松トンネル-国305-(漁火街道)→海の幸食処えちぜん-国305→梅浦-国365→織田北-県3→志津が丘-県6→明里-あじさいの道通り→毛矢-県28→幸橋北詰-県5→北の庄城址
ツーリングレポート
梅雨入り直前の晴れ間を狙った金曜の走り出し、名四国道の通勤渋滞を避けるために伊勢湾岸道湾道を経由し、岸桑名ICから揖斐川堤防道路へと駆け上がる算段である。 思惑通り渋滞を避けることは出来たのだが、想定外の雨に降られ駆け込んだ長島SAで、レインウエアを着こむ羽目になってしまった。
突然の雨に考えることは皆同じ、長島SAの駐輪場には納まりきらぬバイク親父の方々。 皆さんの旅もまだ始まったばかり、旅慣れた装備の親父達は突然の雨にも慌てず騒がず、淡々とレインウエアを着こみ三々五々に走り出してゆく。
そして、合羽親父の一団に紛れて走り出すと程なく、伊勢湾岸道桑名インターから駆け降り、揖斐川堤防道路で美濃方面への遡上を開始した。 その後、国道1号線伊勢大橋の途中から揖斐川と長良川を隔てる背割堤に走り出すと、宝暦治水で犠牲になった薩摩藩士たちが祀られる治水神社の脇を抜け、揖斐川東岸の堤防道路を溯り続けた。
揖斐川と長良川を分ける堤防道路で尾張から美濃へと遡る
パラパラと降り続く雨、先行車が巻き上げる雨水でドロドロになりながら、快適とは言えぬライディングが続く。 そして、先行車との車間距離を長めにとりながら周りに目をやると、揖斐川越しに雨雲をまとった養老山地の幻想的な景色が連なっていた。 降りやまぬ雨にもらす落胆の嘆息が、思わぬ絶景にもらす感動の吐息に変わるのだがらバイク旅はやめられぬ。
揖斐川越しに雲をまとった養老山地、降りやまぬ雨も帳消しになる幻想的な景色
そして、堤防道路嵩上げ工事のため通行止めとなるが、海津橋東から福岡東の区間を並行する広域農道に迂回して事なきを得る。 その後、福束大橋を渡り揖斐川対岸の大垣市街へとはしりだし、国道258を北上して豊臣秀吉の美濃大返しの起点となった大垣城にたどりついた。
雨に霞む大垣城、ここから秀吉の美濃大返しの足跡をたどる
それにしても、秀吉の賤ケ岳の戦いへの行軍を辿るとは、我ながら何とも酔狂な思い付きである。 800ccのエンジンで走る鉄馬と、騎馬や歩兵の大軍の移動を比べる術も無いが、十三里52kmを5時間で移動する距離や時間の感覚を体感することはできるだろう。
雨の大垣城とW800Stの記念撮影を済ませると、早速大垣城から北へ走り出して大垣市街を抜けると、突き当たった国道21で関ケ原方面へと舵を切った。 道なりに関ケ原バイパスへと走り継いで、関ケ原古戦場を過ぎた伊吹山の麓で国道365に合流する算段である。 分かっていたことだが、交通量も多い幹線国道で泥水を浴びながらの移動は煩わしいばかり。
その後、国道365から伊吹山の麓を北上する広域農道に分岐すると、道の駅伊吹の里旬彩の森に差しかかったところで、秀吉が賤ケ岳の戦いの拠点とした長浜城址方面へと舵を切った。 幸いにも、美濃から近江への国境、岐阜から滋賀への県境を越えたあたりから雨も上がり、鬱陶しい雨水を巻き上げる路面も乾いてきた。
広域農道から石灰岩が削り出される伊吹山南西斜面を見上げる
賤ケ岳で劣勢になっている味方の援軍に急ぐ秀吉軍と違い、援軍を待つものなど誰もいないバイク親父のお気楽旅である(笑)。 煩悩の赴くまま、長浜城跡近くの観光スポット黒壁スクエアに寄り道して、地元の郷土料理をいただくことにした。
黒壁スクエアの町並みには、黒漆喰造りの黒壁銀行こと旧第百三十銀行を活かした「黒壁ガラス館」をはじめ、江戸時代から明治時代の和風建造物を改装した、美術館、ギャラリー、ガラス工房等の文化施設、レストラン、カフェ等が集まっている。
そして今回のお目当ては、長浜名物の焼鯖そうめんである。 県道509が黒壁スクエアに差しかかったところで、目に留まった駐車場にW800Stを停めると、焼鯖そうめんの専門店「翼果楼(よかろう)」を探しながら歩き出した。 黒壁スクエア周辺には駐車場が点在しているが駐車料金もまちまち、土日休日の混雑する時期に訪れるならば、二輪駐車可能な割安駐車場の目星をつけておいた方が良いかもしれぬ。
ところで、翼果楼を探しながら黒壁スクエアに歩き出すと、かつて故郷福岡の田舎町にあったアーケード街を思い出した。 現在はもう、郊外の大型ショッピングモールが賑わうばかりの故郷である。 駄菓子屋、プラモ屋、本屋、VANショップ、ラーメン屋に喫茶店...己の成長と共に思い出を積み重ねてきた商店街が、跡形もなく消え去った喪失感は計り知れない。
黒壁スクエアは、黒壁銀行の取り壊しを防ぐために設立された、第三セクターによる旧市街の再生事業で創り出された観光エリアである。 町おこしの成功事例として全国からの視察も多いらしいが、故郷の商店街を無くした自分にとっては、長浜で生まれ育った人達が帰省した時に、記憶どおりの町並みが残っていることが羨ましいばかり。
さて、昭和親父のノスタルジーを刺激する町並みを歩くと、程なく郷土料理焼鯖そうめんの専門店翼果楼にたどりついた。 200年前の呉服屋の建屋を活かした店の外観、そして案内された座敷にも古の商家の雰囲気がそのまま残っている。 座敷に落ち着くと直ぐに、焼鯖そうめん990円也、焼鯖寿し(3貫)690円也を注文した。
さて、長浜の郷土料理焼鯖そうめんとは...若狭湾に近い湖北地方では、田植えの繁忙時期に焼鯖を娘の嫁ぎ先に送る「五月見舞い」の風習があり、甘辛く炊いた焼鯖とそうめんを合わせた「焼鯖そうめん」は、忙しい農作業の合間に腹を満たす定番料理だったらしい。
黒壁スクエアに寄り道、200年前の商家を改装した鯖そうめん専門店翼果楼
程なく配膳された焼鯖そうめんは見た目通りの素朴なお味、甘辛くホロホロに煮込まれた焼鯖、その煮汁がほどよく染みたそうめんは喉越しも良く、田植えの合間の手早い腹ごしらえに重宝されたのも分かる気がする。
また、香ばしい焼鯖とすし飯の間に大葉と生姜が挟まれた焼鯖寿しもさっぱりといただける。 昼飯時には少し早い開店直後の食事となったが、宿泊する福井市街で夕飯をいただく前に、もう一軒道中の美味いものを腹におさめられそうだ(笑)。
配膳された焼鯖そうめん990円也、そして焼鯖寿し690円也
昼飯には少しばかり早い地元飯を平らげると、駐車場に待つW800Stの元へ戻る前に、海洋堂が営む海洋堂フィギュアミュージアム黒壁龍遊館に立ち寄ることにした。
海洋堂は1964年に大阪で一坪半の模型屋として開業した。 1984年には東京に直営販売所「海洋堂ギャラリー」を開設し、国内のオリジナルフィギュア―メーカのパイオニアとなった。 海洋堂のおまけフィギュアが入ったチョコエッグが、大人の食玩ブームを巻き起こしたことは今も昭和親父の記憶に残っている。
海洋堂フィギュアミュージアムには、海洋堂の歴史を伝える様々なジャンルのフィギュア―が展示されており、昭和親父の琴線に触れる懐かしいキャラクターも少なくない。 入館料は一般1,000円也、フィギュアか缶バッチのガチャコインがプレゼントされる。
1964年に大阪で、一坪半の模型屋として開業した海洋堂
最新のアニメから昭和の懐かしいキャラクター、そしてリアルなネイチャー物まで、様々なフィギュア―が並ぶさまは壮観。 800ccの鉄馬を駆るバイク親父は、美濃大返しの途上であることも忘れてリアルな模型達を覗き込み続ける。
映画シンゴジラのワンシーン、昭和親父は少年に戻り空想世界へ
かつてのウルトラ少年のノスタルジーは、焼鯖そうめんを平らげる以上に満腹になり、海洋堂フィギュア―ミユージアムを後にすることにした。 来館記念にフィギュア―等購入するならば、事前に黒壁スクエア店の取り扱い商品を確認しておいた方が良い。 まあ、通販でより取り見取りに購入できる時代ではあるが...
最近は、あらゆる局面で援軍が必要になった還暦リーマン親父である。 苦しい時の神頼み、精神的な後詰めになってくれればと、戦闘をこととする阿修羅のミニフィギュアをご購入した。 リアルな戦闘神を掌上で眺めながら、在宅勤務のPCを叩きリーマン合戦の筋書きを練る(笑)。
海洋堂のミニフィギュア001阿修羅、原型制作:木下隆志
黒壁スクエアの散策を終えて駐車場から走り出すと、JR長浜駅北側アンダーパスで北陸本線を潜り、琵琶湖を望む長浜城址に立ち寄った。
長浜城は、織田信長が浅井長政を攻め滅ぼした折に、長政の旧領近江を与えられた豊臣秀吉が、はじめて持ち城大名となって築城した城である。 そして信長が本能寺の変で没した後は、織田家宿老が会した清須会議の国割で、柴田勝家の甥の勝豊が城主になっていた。
さらに、豊臣秀吉と柴田勝家の織田家簒奪争いが表面化すると、秀吉が勝家方の長浜城を攻略し賤ケ岳の戦いの拠点としたのは、冒頭の賤ケ岳の戦いの解説で書いたとおりである。
その後、秀吉の天下統一を経て山之内一豊など幾人かの城主が誕生し、最終的に大阪の陣(1614-1615)で豊臣氏が滅亡して長浜城は廃城となり、資材の大半は彦根城の築城に流用された。 現在の天守は、1983年に犬山城や伏見城を参考に再建された模擬天守で、市立長浜城歴史博物館として運営されている。
長浜城は、秀吉が大名となり築城した初めての城であり、豊臣家の滅亡と共に廃城となった城でもある。 琵琶湖畔にそびえる模擬天守を見上げていると、盛者必衰、諸行無常の世の中がまとわりついて見える。 妻や子の命まで失ってしまうのリスクを背負ってでも、目の前の敵と戦い続けるのが戦国武将の甲斐性ならば、天下統一を果たした秀吉は本懐を遂げたのかもしれぬ。
合法的なリーマン稼業で命がけとはならずとも、ゴリ押しするほどに払わされる代償が増えるのは身をもって感じるところである。 その挙句に達成感が得られるかどうかは、店じまいをする時にならねば分からぬかもしれぬ。
豊臣家の滅亡と共に廃城となった長浜城、再建された歴史博物館の模擬天守
長浜城址で模擬天守を見上げた後、琵琶湖東岸を走るさざなみ街道に駆け出すと、戦国武将たちもながめたであろう対岸も霞む淡海の景色を眺めながら走り続ける。 コンクリート造りの模擬天守も、護岸工事が成された湖岸も、遠くからの眺めは古の景色を妄想するに十分であろう。
さざなみ街道で琵琶湖東岸を走る、対岸も霞む日本一の淡海
琵琶湖岸を琵琶湖北端の木之元まで走りきると、北陸自動車道木之元インターの脇を抜けて国道365を北上し、いよいよ賤ケ岳の戦いの舞台となった余呉湖へと舵を切る。 そして、国道365から県道33に分岐して道なりに走ると、唯一平野が開けた余呉湖北岸にたどりついた。
余呉湖は賤ケ岳を挟んで琵琶湖の北にある、周囲5km程の陥落湖である。 南を前述の賤ケ岳、東を大岩山、そして西を茂山などに囲まれ、その山々を映す穏やかな湖面から「鏡湖」とも呼ばれている。
早速、たどり着いた北岸にW800Stを停めて余呉湖の全景を眺めると、湖面を挟んだ南側正面に望む賤ケ岳(442m)をはじめ、戦国雑誌の古戦場マップで見たことのある砦が築かれた山々が東西に繋がっている。
これはまるで、賤ケ岳の合戦の実物大ジオラマ! 雑誌やネットで戦いの推移は把握していたつもりだったが、実際に秀吉方と勝頼方が布陣した山々を見渡す臨場感は半端ない。 面倒ではあるが、事前に双方が築いた砦の位置や侵攻ルートを頭に入れて訪れると、実物大ジオラマをさらに楽しめるだろう。
余呉湖北岸から別名鏡湖の全景を望む、湖面の先正面に賤ケ岳(442m)
その後余呉湖岸の周回路へと走り出すと、程なく賤ケ岳の麓までたどり着いた。 実際に戦いの場に立つと意外に低く感じる山頂、勝頼方の佐久間盛政が秀吉不在の間隙をつき、秀吉方の桑山重晴が守る賤ケ岳に攻め上がる様が目に浮かんでくる。
上述の通り、秀吉が敢行した美濃大返しによる反撃が、秀吉勢が賤ケ岳の戦いで勝利した要因であることは間違いないだろう。 しかし、その勝利を決定づけたのは、勝頼方として茂山に布陣した前田利家らが寝返り戦線を離脱したためだと言われている。
本能寺の変以前、越前を領国とする筆頭家老柴田勝家は信長から北陸方面攻略を任され、勝家の与力として能登を治める前田利家は、17歳年上の勝家を「親父様」と慕い従っていた。 リーマン稼業に例えて利家から勝家を見れば、後ろ盾になってくれる頼れる上司という感じであろうか?
一方、同世代の利家と秀吉の関係は、信長と言う恐ろしくキツイ上司の元で、ともに切磋琢磨しながら逆境を乗り切ってきた間柄である。 安土城時代には隣人として家族ぐるみの付き合いをしていたらしい。 利家の立場に立って考えると、いずれも恩義ある相手に刃を向けることが出来ず難しい選択を迫られたことが伺える。
結果的に上司勝頼に従い従軍したものの、戦友の秀吉と戦えず撤退することになり、勝頼軍は秀吉軍に大敗し越前北の庄城に敗走することとなった。 戦線を離脱した利家も越前に謹慎していたが、訪れた勝頼からの叱責や報復は無く、養女に出していた三女も北の庄城落城前に返され、二人の信頼関係の深かったことが伺える。
そんな前田利家の去就を、還暦親父のリーマン稼業に照らしてみると、色々と学ぶべきことが多い。
還暦を越えた節目でラインマネジメントから離れ、己のプレゼンスに頼って人を動かさねばならぬ局面が増えてくると、ともに困難を乗り切ってきた仲間のありがたさを痛感することが多い。 逆に言うと、上司への忖度だけで動く方々が多い現実を思い知ることになる。 場合によっては、背後から弾を撃たれるリスクすら対応してゆかねばなぬ現実がある。
結論として、目先の仕事や課題解決のためだけの共同体では無く、さらに深いレベルでの志や大義を共にする仲間を作ることの大切さを再認識したしだいである。 引退間際の身の上ではあるが、それを意識して布陣を考えるだけでも、無駄な小競り合いや調整の煩わしさをさけることができるのである。
柴田家が秀吉に滅ぼされた後、前田利家は秀吉に厚遇され、能登の領地を越中、加賀まで増やされ、加賀百万石の礎をきずくこととなった。 それを考えると、還暦リーマン親父の感傷的な思考とは無関係に、勝家の顔色をうかがいながら秀吉の勝利を見極めて乗り換えた...と言う利家のそろばん勘定が落ちなのかもしれない。
余呉湖岸から見上げる賤ケ岳、秀吉と勝頼勢の攻防が目に浮かぶ
ところで、秀吉軍が大垣城から賤ケ岳の戦いまで、約52kmを5時間で折り返した美濃大返しに対し、晴れふら親父の一人返しはどうだったのか...舗装道路を800ccの鉄馬で移動するマージンを、食欲や物欲の煩悩で使い果たした結果、戦国時代の大軍の移動とおなじ5時間を要する結果となってしまった(笑)。
それにしても、甲冑や武器などの重たい装備を携えながら、ツーリング並みの移動時間で走りきっていた兵士達の体力に驚きをかくせない。 そして秀吉の、前田利家のような敵将をとりこむ手腕や美濃大返しのような大軍を動かすマネジメントが、戦国時代でもまれな成り上がりを成し遂げた要因だったと再認識する。
さてさて、豊臣秀吉が柴田勝家をやぶった440年前の戦いの様をひとしきり妄想すると、余呉湖に1300年前から伝わる伝説の地に訪れて越前へ走り出すことにした。
菊石姫伝説とは、菊石姫という領主の娘が干ばつに苦しむ村人を救うために、余呉湖に身を投げて蛇身となり雨を降らせた物語である。 永年世話になった乳母に、疫病の薬となる己の目をくり抜き投げ渡し、その目玉の跡が残る「蛇の目玉石」が湖岸道路脇に祀られている。 実際に蛇の目石越しに余呉湖を眺めると、鏡のような湖面から今にも大蛇が頭をもたげそうな雰囲気が漂っている。
その他にも、水浴びをしていた天女が羽衣を取られて天に帰れなくなり、人間の夫と夫婦になって二男二女をもうけたという羽衣伝説など、余呉湖を舞台にした多くの伝説が存在する。 実際に余呉湖の湖岸を走ってみると、山影を映す静かな湖面は何とも神秘的で、ここに暮らしてきた人達が、不思議な物語を創り出してきた のもうなずける。
余呉湖に身を投げ蛇となった菊石姫が、目をくり抜き投げ渡した「蛇の目玉石」
鏡湖の神秘的な雰囲気を体感しながら湖岸道路を周り終えると、北国街道こと国道365に復帰して近江から越前への国境を越えることにした。 その、滋賀から福井の県境を栃ノ木峠で越えるワインディングは、平野部の城跡や古戦場をめぐる今回のツーリングにおいて、ライディングを満喫できる貴重な峠道である。
...がっ、国道365に走り出して直ぐに、災害通行止めの電光掲示板に行く手を阻まれることになった。 諦めきれぬ親父はスマホを取り出し、オートバイは通行可などという都合の良い文言を探し検索する。
しかし、国交省の道路情報提供システムでは通行止め情報にすらたどり着けず、福井県の道路情報システムみち情報ネットふくいによると、2022/08/04から続く全面通行止めは解消日時未定と冷たい門前払いをくらうことになった。
栃ノ木峠まで走って引き返す羽目にならずに済んだと気持ちを切り換えると、北陸自動車道木之元インターまで引き返して、高速道路で通行止め区間を一気に迂回することにした。
そして、木之元ICから今庄ICまで北陸自走車道を移動すると直ぐに、国道365から国道305へと分岐して越前海岸沿いのルートを目指すことにした。 菅谷峠をホノケ山トンネルで貫ける、国道305のご機嫌な中高速ワインディング、上がった雨と乾いた路面も手伝って栃ノ木峠で食らった通行止めのこともすっかり忘れ去る。
北陸自動車道今庄ICを降りると、国道305に分岐して越前海岸を目指す
そして、国道305が日本海を望む越前海岸に付き合ったると、漁火街道こと国道305を加賀方面へと走り続ける。 波風に浸食された隆起式海岸の特徴的な景観を眺めながら、緩やかな海岸線のクルージングを満喫する。
さて、福井市街の北の庄城址を目指すのに越前海岸を経由した理由は、越前市や鯖江市街の混雑を避けて海岸線のライディングを楽しみたかったこともあるが...ご察しの通り、越前海岸の美味いもの目当てのルーティングである。 早い昼食にいただいた長浜の焼鯖素麺もこなれてきたので、夕食前にもう一食、越前海岸の海の幸をいただこうという目論見なのである。
漁火街道こと国道305、日本海を眺めながら越前海岸をクルージング
そして、漁火街道が越前漁港にさしかかり立ち寄ったのは、海の幸食処「えちぜん」。 越前漁港の底引き網漁師直営の店では、四季を通じて越前海岸に揚った新鮮な海の幸をいただくことができる。 残念ながら、冬場の越前ガニシーズンのツーリングには走り出せぬへたれ親父。
相棒を店の脇の停めて、感じ良い接客で漁港を見下ろす座敷に通されると、その日水揚げされた魚が盛られる「お造りB定食」2,000円也を注文した。 そして、ノンアルコールビールで喉を潤し一息つくと、お待ちかねのお造り定食が配膳されてきたた。
ひたすら新鮮なお造り五種盛りは、プリプリのブリとコリコリのスズキ、甘~いスルメイカと越前エビ、噛むほどに旨味しみだすタコ...越前漁港のお造りワールドで味と食感のバリエーションを楽しめる。 そしてて定番の鯛のアラ煮と煮汁がしみた大根で、店こだわりのコシヒカリがススムススム。 そして、スルメイカのぬた和えの小鉢、魚介だしが効いた味噌汁、香の物達が、主役のお造りの脇をかためてくれる。
越前漁港の底引き網漁師直営店、海の幸食処「えちぜん」
お造りB定食2,000円也の主役、越前漁港で揚ったばかりのお造り5種盛り
鯛のアラ煮でコシヒカリがススム、煮汁が染みた大根も美味い!
海の幸食処「えちぜん」で大満足の二度目(笑)の昼食を済ませると、越前海岸から山間へと分岐する国道365に駆け上がり、福井市街の北の庄城址をめざすことにした。
日本海を望む越前海岸のクルージングも良いが、夕飯前の腹ごなしには山間のワインディングの方がありがたい。 アップライトなポジションのW800Stを腰下で倒し込み、空冷二気筒エンジンの立ち上がりトラクションと排気音を感じながらライディングを満喫する。
そして、国道365の峠道を抜けて越前町集落に差しかかったところで、県道3に分岐してさらに福井市街へと北上し続けた。 市街地が近づくにつれて交通量も増え、スマホのナビゲーションの指示通りに車線を変えながら、福井駅近くのビル街にある北の庄城址にたどりつくこととなった。
越前漁港から国道365に分岐して、福井市街の北の庄城址を目指す
北ノ庄城は、1575年に織田信長が越前地方の一向一揆を壊滅させ、越前国を与えられた柴田勝家が居城として築いた城である。 九層の天守を持つ壮大な城だったらしい。 そして信長亡き後、1583年の賤ケ岳の戦いで豊臣秀吉に敗れた勝家は、北ノ庄城に敗走し妻のお市の方とともに自害することとなった。
勝家は、信長が織田家の当主争いをしていた弟の信行の家臣だったが、信行の謀反を密告して信長の命を救って以来、織田家宿老として信長と天下布武の道を歩んできた武将である。 しかし、現在の北ノ庄城跡にはわずかな石垣の痕跡などが残るだけで、後の征服者に存在を消し去られた悲哀を感じざるを得ない。
勝家を攻め滅ぼした時の秀吉は、織田信長の重臣だった柴田勝家と丹羽長秀から一文字づつもらった羽柴秀吉を名乗っており、己の名を与えた秀吉の暴挙を許せなかった勝家の心境は良くわかる。
しかしその反面、丹羽長秀は信長から秀吉に上手く乗り換えて厚遇されており、プライドを捨てきれず現実の力関係を見誤った勝家の失敗が目に留まる。 戦国時代の下剋上ばかりでなく、リーマン稼業を生業とする親父の身の回りでも、似たような絵面に突き当たることが少なくない。
そんなとき、損得勘定だけで妥協できぬ己の性分を悔やみながらも、十字腹を切った柴田勝家の生き様を追いかけるであろう晴れふら親父である。 幸いなことに、G7に名を連ねる我らの任主国家においては、リーマン稼業で下手をこいて生首を掻かれることは無いだろう(笑)。
ところで、勝家と共に自害した信長の妹お市の方は、上洛を目指す信長の思惑で近江の浅井長政の側室となった過去を持つ。 浅井長政は反織田の朝倉義景方に寝返り、居城の小田木城で攻め滅ぼされることになったが、その時、お市の方と三人の娘(茶々、初、江)は秀吉に救出されたのである。
陥落寸前の北の庄城において、三姉妹を秀吉の陣に送り勝家と共に自害する道をえらんだお市の方の物語は、復路のツーリングでたどった信長を裏切り滅亡した浅井長政の物語と合わせ紹介してみたい。
柴田勝家がお市の方と自害した北の庄城址、発掘された僅かな遺構が残る
初日の旅の終わり、北庄城址からほど近いJR福井駅近くのホテルにたどり着いて一息つくと、駅の複合施設で家族への土産物を仕入れて夕飯に繰り出すことにした。 そして訪れたのは、やきとりの名門秋吉の福井駅前店、行列につながって開店と同時にカウンター席に案内されることとなった。
1959年創業のやきとりの名門秋吉は、福井県の焼き鳥消費量日本一に貢献しているであろう人気店である。 全国展開する秋吉は名古屋にも支店を構えているのだが、本場福井で秋吉名物の”純けい”を冷たいハイボールで流し込む算段なのである。
福井県の焼き鳥消費日本一をけん引する、やきとりの名門秋吉
カウンター席に案内されメニューに目をやると、日本一の消費量を支える串々はどれもリーズナブル! まずは秋吉名物の純けい(360円@5本)と、しろ(345円@5本)、しんぞう(税込325円@5本)、ピーマン(260円@3本)を注文した。 そして、炎をあげる炭火で一気に焼きあげる職人技に見入っていると、香ばしく焼き上げらた串々がカウンターに並んだ。
まずは秋吉の定番中の定番、メス鶏の皮付モモ肉のコリコリとした食感を楽しむと、噛むほどに旨味と甘味がジワジワと滲み出してくる。 程よい塩味に飽きることは無いが、サラッと甘い醤油ダレと辛しが別に供され、味変を楽しむこともできるのがありがたい。
そして、豚モツをたれで香ばしく焼いたしろは、赤味噌のどて煮が定番の名古屋からの客には新鮮である。 さらに、しっかりと焼かれながらも適度な食感が残るピーマンには、コチュジャンが添えられ、一品一品への供し方にいたるこだわりが伺える。
バリエーション豊富なそれぞれの美味さを解説するとキリが無いが、秋吉こだわりの串々をキンキンに冷えたハイボールで流し込みながら福井の夜は更けてゆく。
秋吉名物の純けいをはじめ、香ばしく焼かれた串々がカウンターに並ぶ
さてさて、初日の往路でたどった、信長亡き後の天下簒奪を狙う豊臣秀吉と柴田勝家による織田家内紛の顛末。 賤ケ岳の戦いで勝利した秀吉が、北の庄城に撤退した勝家を滅ぼした結末はレポートした通りだが、現代のリーマン親父が現地を訪れ教訓として感じることも多かった。
特に挙げておきたいのは、賤ケ岳の戦いで柴田勝家の敗戦を決定づけた秀吉の旧友前田利家の撤退と、秀吉に滅ぼされた柴田勝家と厚遇された丹羽長秀の両宿老の対比である。 還暦を過ぎて会社が用意してくれる後ろ盾を無くしてなお、己のこだわりを捨てきれぬリーマン親父にとっては、身につまされる史実であった。
まずは、賤ケ岳の戦いにおける前田利家の撤退についてふれてみたい。 信長の命で北陸方面平定を担う勝家の与力だった利家は、現上司の勝家に従い従軍したものの、信長の元で共に困難を乗り切った秀吉との関係を捨てきれず、敵前逃亡の道を選んだと考えられる。
還暦を越えた親父に共感できるリーマン仲間を増やす時間は残されていないが、かって共に逆境を乗り切った仲間が力になってくれる状況は肌で感じるところである。 己の年に鑑みて、そんな仲間が徐々に減ってくるのは仕方ないが、最後まで残る信頼関係はこだわりの現役を続けるための大切な財産になることを再認識することとなった。
次に、羽柴秀吉に共に一字を与えた丹”羽”長秀と”柴”田勝家を比べて見ると、信長から秀吉に乗り換えて丹羽家を存続させた長秀の立ち回りの上手さを否定できない。 一方、十字腹を切った勝家が、秀吉の力量を見くびっていたとは考えられず、勝家の織田家筆頭宿老としての信念が、滅亡のリスクを抱えながら戦いの道を選ばせたと思える。 どちらに共感するかと問われれば、迷うことなく勝家に一票を投じたい。
勝ち負けよりも勝ち方負け方にこだわる己の性分を、柴田勝家の生き様、死に様から再認識させられる旅となった。 しかし幸いなことに、勝家が秀吉に攻め滅ぼされた戦国時代と異なり、リーマン合戦の戦いに敗れても腹を切る必要は無い...はずである(笑)。
ツーリング情報
大垣城 大垣市郭町2丁目52番地 (電話)0584‐74‐7875
翼果楼 滋賀県長浜市元浜町7-8 (電話)0749-63-3663
海洋堂フィギュア―ミュージアム黒壁 滋賀県長浜市元浜町13-31 (電話)0749-68-1680
長浜城歴史博物館 滋賀県長浜市公園町10-10 (電話)0749-63-4611
海の幸 食処 越前 福井県丹生郡越前町小樟3-81 (電話)0778-37-1020
北の庄城址 福井県福井市中央1丁目 (電話)0776-20-5408
やきとりの名門 秋吉(福井駅前店) 福井市大手2-5-16 (電話)0776-21-3572
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