2025/1/17 [1/2日目]東海道五十三次巡る浮世絵旅 池鯉鮒宿~府中宿(市場食堂平の屋、小夜の夜泣き石、とろろ汁丁子屋、駿府城址、静岡おでんおがわ)
地球温暖化にパンデミックそして理不尽な国際紛争の影響で、平和ボケしたきた我々も随分と暮らしにくい2025年を迎えることとなった。 振り返ると、2000年問題で大騒ぎしたのが昨日のようだが、それから実に四半世紀もの時が流れたことになる。 油断すると知らぬ間に行き過ぎる時間、還暦を過ぎ物忘れがひどくなったバイク親父は、記憶を手繰り寄せる節目を残そうと今年も変わらずに走り出す。
さて、2025年の走り初めとなる今回のツーリング、凍結のリスクが高い山間の峠道を避けて、比較的温暖な海岸沿いのルートを思案することにした。 そしてたどり着いたのは、名古屋から静岡にかけて東海道五十三次の宿場を巡る旅である。
旅の起点は、東海道五十三次の39番目の宿場となる池鯉鮒宿、東海道で尾張から三河への国境を越えた最初の宿場になる。 そこから、現代の東海道国道1号線を静岡方面へ走り出し、旧東海道の宿場に立ち寄りながら、東海道五十三次の16番目の宿場となる由比宿で折り返す旅である。
その道中では、歌川広重が描いた東海道五十三次の景観を訪ね、現代の旅の風景としてレポートできればと思う。 片道200km程度ゆえに日帰りも可能だが、静岡おでんで一杯やるために駿府城下の府中宿で一泊する行程とした。 それではまず、初日の池鯉鮒宿から府中宿までの旅をレポートしてみたい。
歌川広重の東海道五十三次にも描かれた、丸子(鞠子)宿の丁子屋でとろろ汁を食らう
ルート概要
(一日目)
旧東海道池鯉鮒宿の松並木-国1→魚市場食堂 平の屋-国1→旧東海道藤川宿の松並木(西棒鼻跡,東棒鼻跡)-国1→旧東海道赤坂宿(旧旅籠屋 大橋屋)-旧東海道御油宿の松並木-国1→長谷-国42→旧東海道白須賀宿(おんやど白須賀,潮見坂)-国42→大倉戸IC-国1(浜名バイパス)-新居弁天IC→新居弁天ビーチ-国301(西浜名橋,中浜名橋,弁天大橋)→馬郡IC-国1(浜名バイパス)→篠原IC-国1(浜松バイパス,磐田バイパス,袋井バイパス,静清バイパス,掛川バイパス,日坂バイパス)→日坂IC-国1→小夜の夜泣き石-国1(島田金谷バイパス,藤枝バイパス,岡部バイパス)→丸子IC-国1→丸子宿丁子屋-国1→駿府城址
(二日目)
JR静岡駅-国1→長沼-県74(長沼大橋)→池田-県407→聖一色-日本平パークウエイ→日本平夢テラス-清水日本平パークウエイー県198→静岡市立清水病院-市道→見晴橋-国150-清水マリンロード-国1(静清バイパス,富士由比バイパス)→興津雨量観測所-おきつ川通り→興津生コン-東名高速道路側道→薩埵峠-旧東海道→JR由比駅-旧東海道(県370)→静岡市東海道広重美術館(旧由比宿本陣)-旧東海道(県370)→JR由比駅(食事処あおぞら)-県370,県396-国1(静清バイパス)→庵原-県75→新東名高速道路清水いはらIC
ツーリングレポート(一日目)
尾張名古屋から国道1号線を東へ走り出すと、境川を渡って旅の起点旧東海道池鯉鮒宿の松並木にたどり着いた。 現在の愛知県知立市に位置する池鯉鮒宿は、首夏(4月~5月)に開催されていた馬市で知られており、歌川広重の「東海道五十三次」にもその様子が描かれている。
馬を繋ぐためにも使われていた松並木、1959(昭和39)年の伊勢湾台風で多くの古松が倒れたが、その後の植樹活動で現在もその面影をとどめている。 金曜早朝の走り出し、日常を象徴するような通勤車両の車列の影響か、旧東海道松並木沿いで開催された馬市の様までは妄想できなかった。 ちなみに「池鯉鮒」という宿場名の由来だが、宿場整備の中心となった現知立神社の御手洗池に、鯉鮒が泳いでいたことに由来したと言われている。
旧東海道池鯉鮒宿松並木、通勤渋滞の日常に浮世絵当時の妄想は叶わず
旧東海道池鯉鮒宿松並木から国道1に復帰すると、しばらくは通勤や物流車両で混雑する幹線国道を走り、歌川広重の東海道五十三次にも描かれた矢作橋にさしかかった。 その浮世絵には、街道一の長さを誇る矢矧の橋(全長370m)越しに、家康が生まれた岡崎城を遠望する景色が描かれている。
矢作川の流れは変わらずとも多くの建築物に眺望が遮られ、頑丈な鉄筋コンクリート造りの矢作橋の先に、おなじくコンクリート造りとなった岡崎城天守を望むことは叶わなかった。 さらに、渋滞する橋のたもとにに相棒を停めるスペースも探せず、そのまま矢作橋を渡り岡崎市街へと走り続ける事にした。
普段は岡崎市街の混雑を回避するため、東名高速や国道23号バイパスに迂回することが多い。 それ故今回は、これまで訪れる機会が無かった、岡崎市街を抜けた岡崎魚市場の敷地内で営業する「市場めし 平の屋」に立ち寄ることにした。 リーズナブルな価格で活魚料理がいただける繁盛店、平日早朝の走り出しの機会に行列無しの朝飯にありつく目論見である。
リーズナブルな海鮮朝食を目当てに岡崎魚市場の「市場めし平の屋」に立ち寄る
余談だが、この食堂を知るまで存在すら知らなかった岡崎魚市場(笑)、国道1で市街を貫けた東名高速岡崎インターの手前を県道26に左折した対向車線にあるのだが、中央分離帯があって直接アクセスすることができない。 スマホナビに案内をたのむか、事前にアクセスルートを確認しておいた方が無難だろう。
さて、市場めし平の屋にたどり着いて店内に入ると、思惑通り魚市場関係者らしき常連客をチラホラ見かかるだけで、行列必至の繁盛店でゆっくりと海鮮朝飯をいただくこととなった。
席に落ち着き早速注文したのは、12種類の新鮮な刺身が盛られた刺身盛り合わせ定食(竹)、素人が食材をレポートするには少しばかり魚種が多過ぎる(笑)。 そして岡崎の海鮮食堂らしく、八丁味噌仕立ての新鮮なアラ汁が添えられている。
また定食のご飯は、白米/すし飯/炊き込みご飯の中から選択可能で、一膳は無料でお代わりできるのがうれしい。 この日の一膳目は王道の白米、そしてタコとひじきの炊き込みご飯をお代わりして、大満足の海鮮朝食を平らげることとなった。
刺身盛り合わせ定食(竹,12種盛)1,650円也、飯は白米/すし飯/炊込みご飯から選択
岡崎魚市場の平の屋で朝食を済ませると、国道1に復帰してさらに東へと走り続けた。 東名高速岡崎インターを過ぎると車の流れも良くなり、程なく東海道五十三次の38番目の宿場である藤川宿にさしかかった。 そして、国道1の藤川町西交差点から県道37に分岐すると、旧東海道の面影を残す松並木へと駆け込んでいった。
ところで、歌川広重の東海道五十三次「藤川 棒鼻ノ図」には、宿場の境界を示す「棒鼻」が描かれており、現在の藤川宿にも西の棒鼻と東の棒鼻が再現されている。 棒鼻とは駕籠を担ぐ棒の先端を意味しており、大名行列が宿場に入る時に威厳を示すために行列を整え、その先頭が出迎えを受ける場所であったらしい。
旧東海道藤川宿東棒鼻跡、宿場の境界で大名行列が先頭を整え出迎えられた
その後国道1に復帰して程なく、東名高速音羽蒲郡ICを過ぎたところで旧東海道に分岐して、東海道五十三次36番目の赤坂宿と、35番目の御油宿に立ち寄ることにした。 東海道五十三次で宿場間が最も近い赤坂宿と御油宿は、元々80軒程の旅籠が並ぶ一つの宿場だったらしい。 徳川家康による五街道整備の際に、二つの宿場に分割されたとのことである。
大名行列が江戸へ向かう際は赤坂宿を利用し、京へ向かう際には御油宿を利用するという行程が定番だったらしく、歌川広重の東海道五十三次には、旅籠で賑わう赤坂宿と御油宿それぞれの様子が描かれている。
現在の赤坂宿には、2015年まで宿業を営んでいた大橋屋(旧旅籠鯉屋)が豊川市指定文化財として保存公開されている。 また、赤坂宿から御油宿へと旧街道を進むと、両宿場を分けたであろう松並木が当時の様子を今に伝えている。
旧東海道赤坂宿の大橋屋(鯉屋)、2015年まで営業していた最後の旅籠
旧東海道御油の松並木、当初御油宿と赤坂宿は一体の大宿場だった
赤坂宿から御油宿へと旧東海道を走り国道1に復帰すると、西三河を過ぎて遠州最先端の白須賀宿に立ち寄ることにした。 白須賀宿は東海道五十三次32番目の宿場で、歌川広重の浮世絵には潮見坂(汐見坂)から遠州灘を見下ろす景色が描かれている。
国道1から国道1潮見バイパスに乗ると旧街道を通り過ぎてしまうので、国道1から国道42へと走り継ぎ旧東海道で白須賀宿の高台へ駆け上がった。 元々白須賀宿は海岸近くにあったが、1707(宝永4)年に発生した宝永地震の津波で被害を受け、その後潮見坂の上の高台に移されたとのことである。
まずは、白須賀宿のランドマークとして「おんやど白須賀宿」を目指してみるのが分かりやすいだろう。 この湖西市が運営する無料施設の見学を終えると、施設職員の方から津波に襲われた白須賀宿が高台に移転した経緯や、これから潮見坂へ下るルートなど教えてもらった。
旧東海道白須賀宿にある、湖西市の歴史拠点施設「おんやど白須賀」
さて、おんやど白須賀から潮見坂方面へ駆け降りて行くと、広重も描いた半円状にくり抜かれた丘陵の先に輝く遠州灘を見下ろすことが出来る。 かつての津波被害で高台に越した白須賀宿だが、現在の沿岸沿いに住宅地が密集する様はご存知の通り。 自然災害が訪れる周期よりも、それを忘れる暮らしの周期の方が短いことを再認識する。
旧東海道白須賀宿の潮見坂、今も変わらぬ丘陵から遠く遠州灘を見下ろす
旧東海道潮見坂を海岸沿いの国道42まで下ってくると、最寄りの大倉戸ICから新居ICまで国道1浜名バイパスを利用することにした。 そして、新居弁天インターから駆け降りると東海道五十三次31番目の新居宿に差しかかり、広重が描いた対岸の舞阪宿とをつなぐ「今切れの渡し」の風景が広がっている。
浜名湖は、1498(明応7)年の明応地震で今切れ口が決壊して海水湖となった歴史を持つが、その後も、1699(元禄12)年、1701(元禄14)年、さらに前述した1707(宝永4)年の宝永地震まで、新居宿や舞阪宿の地震や津波被害が相次いでいた。 宿場や渡しの復興も間々ならず、東海道から姫街道への旅人離れに悩まされていたようである。
今回は、堤防工事のため今切れ口先端までたどり着けず、新居弁天海水浴場の砂浜から今切れ口の景色を眺めることにした。 国道1浜名バイパスの浜名大橋が巨大なアーチを描いてはいるが、広重が描いた「今切れの渡し」と変わらぬ平和な眺望が広がっている。 実際のところは、災害続きで復興も間々ならぬ世の中、それもまた当時と変わっていない。
その後、国道301の西浜名橋,中浜名橋,弁天大橋で浜名湖を渡り、道なりに国道 1浜松バイパスへと走り続けた。
浜名湖新居弁天海水浴場、新居宿から今切れ越しに舞阪を望む
国道301(西浜名橋,中浜名橋,弁天大橋)で浜名湖を渡り東海道を走り続ける
浜名湖を過ぎて国道1浜松バイパスで天竜川を渡ると、その後磐田バイパス、袋井バイパス、静清バイパス、掛川バイパス、そして日坂バイパスへと、道なりに国道1のバイパスルートを走り続けた。
余裕があれば旧街道沿いの景色を訪ねてみたいところだが、日暮れ前には初日ゴールの駿府城下府中宿の宿にたどり着き、駄菓子屋が営む静岡おでん老舗の営業時間に駆け込む目論見なのである。
そして、幾つもの旧東海道の宿場をスルーして立ち寄ったのは、東海道五十三次の25番目の宿場日坂宿となった。 旧東海道峠の三大難所とされる”小夜(左夜)の中山の西麓に位置し、広重の東海道五十三次では急坂の底にある「夜泣き石」が描かれている。
その広重が描いた「夜泣き石」は現存しており、日坂バイパスの日坂インターを降りた国道1沿い、小夜の中山トンネルを貫けた土産物店裏で対面することが出来る。
旧国道1小夜の中山トンネルを貫けた土産物店脇を登り「夜泣き石」にご対面
その「夜泣き石」には不思議な伝説が残されており、江戸職業作家のパイオニア滝沢馬琴が「石言遺響」に引用して有名になり、また代表作「南総里見八犬伝」のストーリーのベースにもなったとされている。
概要を紹介してみると...久延寺に安産祈願にきた妊婦が小夜の中山峠で山賊に切り殺されたが、「夜泣き石」の泣き声を聞いたお坊さんが瀕死の赤ん坊を助けることが出来た。 その男の子は立派に成長し、ついには母親の仇を討ったといういうストーリーである。 そして、お坊さんがお乳の代わりに与えた水飴(子育飴)が、前述した階段脇の元祖小泉屋で販売されているという筋書きで完結する(笑)。
元祖小泉屋は1751(宝暦元)年の創業とのことで、滝沢馬琴が「石言遺響」で小夜の夜泣き石を著述した1805(文化2)年よりも古く、ありがちな便乗商法とは一線を画すのかもしれぬ。 しかし、心身ともに成長の峠を越え糖質摂取量が気になる還暦親父は、伝説のビジネスを纏った水飴の購入を見送り先を急ぐことにした(笑)。
小夜の中山峠で妊婦が斬られ、泣き知らせた「夜泣き石」が瀕死の赤ん坊を救った
元祖小泉屋駐車場から旧国道1に走り出すと直ぐに、国道1島田金谷バイパスに駆け上がり大井川を渡った。 その後、藤枝バイパス、岡部バイパスを走り継いだ丸子インターから国道1に駆け降り、旧東海道沿いの丸子(鞠子)宿にたどり着いた。
丸子宿は東海道五十三次20番目の宿場で、広重の浮世絵には茶店で「名ぶつとろろ汁」を味わう旅人の姿が描かれている。 ここまでの行程で昼時を過ぎてしまったが、丸子名物のとろろ汁を供する丁子屋に立ち寄り遅い昼食をとることにした。
元祖丁子屋は、1596(慶長元)年創業以来この地で営業を続ける老舗だが、歌川広重が東海道五十三次で描いたとろろ茶屋がこの丁子屋であったかどうは定かでは無いらしい。 しかし広重の浮世絵に寄せて古民家を移築した店舗は、東海道五十三次当時の雰囲気を良く残してくれている。
1596(慶長元)年創業、丸子(鞠子)宿の丁子屋で名物とろろ汁をいただく
さて丁子屋に入り、下足を脱いで歌川広重の東海道五十三次が飾られた座敷に案内されると、インバウンドや高齢客が多いご時世を反映したテーブル席が並べられていた。 案内されたテーブルに落ち着くと、早速「丸子定食1,760円也」の注文を済ませた。 そして、鴨居に飾られた五十三次を行程順に追っていると、程なく注文した定番メニューが配膳された。
今更ながらではあるが、滋味深い名物のとろろ汁と、それをさっぱりといただける食感の麦めしの相性は絶妙である。 そして、味噌汁、香の物、薬味で変化を付けながら、400年以上この店で供され続けている丸子名物を満喫した。
定番メニューの丸子定食1,760円也、素朴な麦飯と滋味深いとろろ汁
丸子宿を後にすると国道1で広重も描いた安倍川を渡り、いよいよ、初日の旅を終える東海道五十三次19番目の府中宿にたどりついた。 東海道五十三次の19番目にあたる府中宿は、徳川家康が1607(慶長12)年から1616(元和2)年に亡くなるまで、大御所政治の采配を振るった駿府城城下町の一角にあった。 実際のところ、旧東海道はJR静岡駅とその北側の駿府城の間を抜けてており、家康が東海道の往来に睨みを聞かせていた訳である。
さて、府中宿にたどりつくとJR静岡駅近くの旅籠にチェックインを済ませ(笑)、腹ごなしに駿府城跡を散策しながらお目当ての静岡おでんを供する駄菓子屋を探すことにした。 本来駿府城は三重の堀を有していたが市街地化などによって埋め立てられ、現在は二の丸堀(中堀)より内側が駿府城公園として整備され、東御門や巽櫓(ひつじさるやぐら)などが復元されている。
駿府城址に現存する二の丸堀(中堀)、駿府城公園内に復元された巽櫓を眺める
さて、二の丸堀を渡り駿府城公園内に入ると、静岡市が2016年から2022年にかけて実施された、駿府城天守台の大規模な発掘調査跡が目に留まる。
駿府城は大御所政治を敷く徳川家康の天下普請で大改修されたが、家康の死後1635(寛永12)年の火災で天守は焼失し、明治の廃城後には1896(明治29)年に天守台も取り壊され、その土砂で本丸堀も埋められてしまっていた。
天守台跡の発掘調査の結果、南北68mx東西61mに及ぶ国内最大の天守台が確認されたとのことである。 柵に囲まれた発掘現場は現在も保存され、解説付きで一般公開されているようなので、興味がある人はここを目的に訪れるのもありだろう。
一般公開中の駿府城天守台の発掘現場、国内最大の天守台が確認された
駿府城公園の散策を終えると大分腹も減ってきたので、そろそろ浅間神社の門前通りにある静岡おでん名代「おがわ」を探し歩きだすことにした。 駄菓子屋の雰囲気が残る創業昭和23年の老舗は、子供がお家に帰る頃には閉まってしまうので注意が必要である(笑)。
程なくおがわにたどりつくと、まず目に留まるのは真冬にゆれる”氷旗”であった。 何と静岡では、季節を問わずおでんにはかき氷を合わせるのが定番らしい。 駄菓子も販売する、お子様ご用達の健全なお店だが、ちゃんとした大人には冷たいビールなども用意されているのでご安心を(笑)。
浅間神社の門前通りにある静岡おでんおがわ、昭和22年創業の老舗である
まずは、暖簾をくぐって直ぐ左手のおでん鍋でネタを頼むと、店の人に皿によそってもらう段取りを教えてもらい、一卓だけ空いていたテーブル席に案内される。 脱着が難しそうなライディングシューズを見て、小上がり席からテーブル席に変えてくれるあたり、駄菓子屋おでんの店は大人になれないバイク親父にもやさしいのである(笑)
そして早速、嚥下機能が衰え気味の親父はおでんを流し込む冷たいビールの注文し、好みの静岡おでんを盛ってもらうことにした。 まずは、静岡おでんを語るに必須の黒はんぺん、そして個人的なおでんの三種の神器、たまご、厚揚げ、だいこんと、旨味まみれのやさしいおでんを食べ進め、静岡の宵の口を満喫するすることとなった。 静岡おでんの特徴でもある、おでんに振りかけられた出汁粉の香り、食感、そして旨味も良いアクセントになっていた。
食事を終えてみると、ネタに打たれた串の色で清算された料金はリーズナブル、ご近所であれば引退後に通い詰めたい店である。 何より、子供の時間帯からお酒をたしなめるのもありがたい(笑)
さて、時代を越えて繁盛し続けるおがわだが、その味付はシンプルで、こだわりのおでんネタから出る出汁とキッコーマン醤油の味付けのみらしい。 今さらながら、「良い塩梅」ってのが大切なのだとうなずきながら、すっかり暗くなった静岡の街に歩き出すこととなった。
静岡おでんを代表する黒はんぺん等々、出汁粉が良いアクセントになる
駄菓子屋系おでん店らしく閉店時間が早めのおがわを後にすると、丁度居酒屋系のおでん店の営業が始まる時間帯になった。 そして、お腹は大分膨れてはいるが、もう一軒だけ趣の違う静岡おでんを味わおうと店を探すことにした。
まずは青葉通りを常盤公園方向に歩き、観光ガイドブックにも掲載される、青葉横丁と青葉おでん街を歩いてみる。 昭和親父の琴線に触れるディープなおでん屋が軒を並べるが...ガッツリと静岡おでんをいただくのはやはり無理そうである。
ディープなおでん屋が軒を並べる青葉横丁、魅力的だが腹一杯で...
そして、JR線を潜った駅南でたどり着いたのは、幾つかの飲食店をチェーン展開する居酒屋系静岡おでんの本店である。 趣の異なる静岡おでんを少しだけつまんで、腹に溜まらぬ居酒屋メニューで締めくくる目論見である。
地元で毎年開催されている静岡おでん祭りで受賞歴などもアリ期待していたのだが...結果的に、運ばれてきたおでんは塩ッパすぎてまともに食べられなかった(泣)。
運悪く、店先に置かれた名物の巨大おでん鍋で迷子になり、随分と長く漂っていたネタに当ったのだろうか? 早速、おでん以外の居酒屋メニューに切り替え、文字通り塩ッパい東海道五十三次府中宿の夜をしめくくることとなった。 ビジネスの手を広げた時のモラルハザードは永遠の課題、家族で切り盛りする小さなおでん屋が、良い塩梅を創り出すようには行かないものである。
その後、JR静岡駅北口にとった旅籠に戻り、相棒の盗難防止カギなどを確認すると、二日目の旅の行程など確認して早めの床に就くことにした。 明日はいよいよ、今回の東海道五十三次旅を由比宿で折り返す予定である。 果たして、歌川広重も描いた薩埵峠からの富士を望むことができるだろうか...。
東海道五十三次府中宿の旅籠、明日の薩埵峠越えに備え床に就く
・・・二日目に続く
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