2025/7/27 [2/2日目]湖東~湖南 近江ツーリング_古代道をたどる(比叡山ドライブウェイ、瀬田の唐橋、伊賀コリドールロード、鹿深の道、牛石)
日本一の広さを誇る琵琶湖を有する近江の国、その湖東~湖南エリアをめぐる一泊旅に出かけることにした。 名古屋から日帰りも可能な近江地方ゆえ時間には余裕があり、近江や琵琶湖の歴史や文化を学びながら美味いものをいただく盛りだくさんの行程を組むこととなった。
大まかに言えば、一日目は神社や史跡、博物館を訪れて近江と琵琶湖の歴史や食文化を学び、琵琶の美味いものと近江の地酒を満喫する。 そして二日目は、飛鳥時代に壬申の乱の激戦地となった瀬田の唐橋を旅の起点に、奈良、平安時代を経て現代に続く日本の型ができた歴史に思いを馳せ、甲賀の鹿深の道へ続く古代ルートをたどり帰還する行程になる。
そして今回は、琵琶湖の美味いものと近江の地酒を満喫した一日目のレポートに続き、瀬田の唐橋から古代ルートをたどる二日目の旅をレポートしてみたい。 また初日に堪能した琵琶湖の郷土料理に続き、二日目は近江の美味いものの代表格、近江牛料理の昼飯をいただき旅を締め括りたいとおもう。
壬申の乱(672年)をはじめ多くの戦乱の舞台となった瀬田の唐橋
ルート概要
JR南草津-県18→矢橋中央-県18(近江大橋)→近江大橋西詰-県18→大津港口-県558→柳が埼-神宮道→近江神宮-山中越→田の谷峠料金所-比叡山ドライブウエイ→夢見が丘展望台,登仙台展望台-比叡山ドライブウエイ→田の谷峠料金所-山中越え→近江神宮-神宮道→柳が埼-県558→大津港口-県18→近江大橋西詰-県102→松原国道口-国422→瀬田の唐橋(小橋,大橋)-国422→立石橋-国307→牛石-国307→立石橋-国422→丸柱-伊賀コリドールロード→玉滝-県775→野川南-県134-県135→新高橋-市道→田堵野 大原城跡-市道-JR草津線踏切-県4→五反田陸橋-鹿深の道(大原ダム)→蟹が坂-国1→猪鼻-県507-県9→野洲川ダム-県477(鈴鹿スカイライン)→新名神高速道路菰野IC
ツーリングレポート
初日の夜は琵琶湖の美味いものと近江の地酒を堪能し、心地よい疲れとともにぐっすり眠り爽やかな二日目の朝を迎えた。 そして、宿泊した南草津のホテルで軽い朝食を済ませると、手早く身支度を済ませて早朝の街へと走り出した。
さて、二日目のまず最初に向かったのは比叡山ドライブウェイ、近江大橋で琵琶湖の南端を渡って大津市街を抜け、起点となる田の谷峠料金所へと駆け上がることにした。 大津市街が混みだす前の早朝に比叡山ドライブウエイまで往復し、帰路の起点となる瀬田の唐橋まで戻ってくる算段である。
できれば、比叡山ドライブウェイの先の奥比叡ドライブウェイまで走り継ぎたいところだが、残念ながら日祝日の奥比叡ドライブウェイは二輪通行止めらしい。 二日目は生憎の日曜日、比叡山ドライブウェイ途中の”夢見が丘展望台”と”登仙台展望台”で折り返すことにした。
短い距離ではあるが、”夢見が丘展望台”からは初日に走った湖東~湖南エリアの琵琶湖の眺望が広がり、また”登仙台展望台”からは京都の街並みを見下ろすことができるはずである。 比叡山ドライブウエイを終点まで走れば、比叡山山頂の比叡山延暦寺に参拝することも可能だが、今回は帰路の行程を考慮して広大な境内の参拝は見送ることにした。
さて、大津市街を抜けて田の谷峠料金所への登り口に差しかかると、思いがけず、ここ大津京に都を置いた天智天皇を祀る近江神宮が目に留まった。 天智天皇とは中大兄皇子の即位名で、中臣鎌足(後の藤原鎌足)とともに蘇我入鹿を暗殺し、豪族曽我氏の専横を排除した人物として知られている。
昭和親父が学生の頃は、645年に起こったその政変を”大化の改新”と習ったが、現在は”乙巳(いっし)の変”に修正されたらしい。 記憶に残る大化の改新は、その後の政治改革を含むものとして区別されるようになったようだ。 いずれにしろ、教科書の言葉だけで覚えたリアリティのない知識も、実際にその現場を訪れ語り継がれる物語に触れてみると、点が線でつながりリアルな歴史として心に沁みてくるから不思議である。
今回の旅でも、思いがけず大津京で見つけた”乙巳の変”の痕跡と、後に訪れる瀬田の唐橋が激戦地となった”壬申の乱”の痕跡を繋げ、現代まで続く”日本の型”が創られた経緯に思いを馳せてみたいものである...っと、晴れふら親父の”誇大妄想”ならぬ”古代妄想”もほどほどに、近江ツーリングのレポートに話を戻したい(笑)。
さて、予定通り比叡山ドライブウェイの田の谷峠料金所にたどりつくと、いよいよ比叡山の木々に覆われたドライブウェイへと駆け上がって行った。 ETCゲートに慣れ切った体ではあるが、年配の料金所係員との他愛もないやりとりを旅の一コマに加え、小銭を取り出す煩わしさをチャラにする。
比叡山ドライブウェイ田の谷峠料金所、夢見が丘までの二輪車料金580円也(往復)
木々に覆われた比叡山ドライブウェイ、展望所からの眺望に期待が膨らむ
そして、比叡山ドライブウェイを田の谷峠料金所から2㎞ほど駆け上がると、標高510mの夢見が丘展望台にたどり着いた。 展望台からは、琵琶湖大橋よりも南側となる湖南エリアの景色を見下ろすことができる。 流石にこの程度の標高では日本一の淡海の全貌を望むことはできぬが、今回のツーリングで巡る湖東~湖南エリアを見渡すには十分である。
特に、琵琶湖から流れ出る唯一の自然河川瀬田川、その瀬田川が琵琶湖南端から流れ出す湖岸形状もはっきりと見て取れる。 そしてそこに架かる唐橋が、東海道や中山道方面から大津宮や京都に至る交通の要衝であったことを己の目で実感する。
夢見が丘展望台から琵琶湖南端の眺め、琵琶湖から唯一流れ出る瀬田川
さらに、夢見が丘展望台からほど近い登仙台展望台まで上ると、京都と滋賀の府県境に位置する展望台から、標高848mの比叡山の麓から広がる京都市街を見下ろした。
正直なところ、京都タワーを見つけるまでそれが千年の都だと気づかなかったのだが、奇妙なろうそく型のタワーの方が世界遺産の神社仏閣よりも目立つことは確かである(笑)。
そしてまた、東国から京都に至るには比叡山の南側に迂回し、瀬田川を渡る必要があることを己の目で実感する結果となった。 今後、東海道新幹線や名神高速などで京都入りする機会があれば、交通の要衝瀬田川を渡る瞬間を意識するようになるだろう。
京都と滋賀の府県境にある登仙台から京都市街の眺め、京都タワーを発見!
比叡山ドライブウェイの展望台から、琵琶湖南部と京都の景観を堪能して田の谷峠料金所へ折り返すと、さらに大津京の近江神宮前を経由して瀬田の唐橋に向けて走り出した。 幸い展望台から琵琶湖南岸の地形を俯瞰したおかげで、迷うことなく瀬田川の西岸を下り瀬田の唐橋までたどり着いた。
さて、この瀬田の唐橋は、1,575(天正3)年に織田信長によって従来の浅瀬から現在の位置に架け直され、大橋と小橋からなる現在の形になったと言われている。 現在の全長約224m(大橋172m,小橋52m) の橋は、1979(昭和54)年に架けられた鉄筋コンクリート製だが、穏やかな反りや擬宝珠(ぎぼし)など古のたたずまいを残している。 近江八景「瀬田の夕照」として、歌川広重の浮世絵にも描かれた景勝地でもある。
また、瀬田の唐橋は「急がば回れ 」という諺の語源でもあり、距離的には近い草津~大津の琵琶湖航路よりも、瀬田の唐橋を通った方が安全で確実だという故事に由来しているらしい。
たどり着いた瀬田の唐橋(小橋)、1,575年に織田信長がここに架け直した
この瀬田の唐橋から、現代に続く日本のかたちができる流れを振り返る前に、その背景となる乙巳の変~壬申の乱について触れ直しておきたい。 比叡山ドライブウェイの展望台から確認した大津京と瀬田の唐橋の位置関係により、歴史解説などの様々な情報がリアルなイメージとして浮かんでくるようになった。
乙巳の変(645年)
645年、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が蘇我入鹿を暗殺し、豪族曽我氏の専横を倒した政変。 その後大津京で即位した天智天皇と腹心の藤原鎌足は、天皇中心の中央集権国家を目指す政治改革を行った(大化の改新)。
壬申の乱(672年)
天智天皇の死後、天智天皇の息子大友皇子と、天智天皇の弟大海人皇子の間で起こった皇位継承争いで、古代日本最大の内乱と言われている。
吉野で挙兵した大海人皇子は地方豪族達を味方につけ、各地で大友皇子の大津宮朝廷軍と激戦を繰り広げた。 最終的に、瀬田唐橋の戦いで大海人皇子が勝利して大友皇子は大津京で自害、大海人皇子は都を飛鳥に戻し天武天皇として即位した。
そして、その後はどうなったかというと...壬申の乱で勝利した天武天皇は686年に崩御、その3年後には息子の草壁皇子も亡くなってしまった。 しかしその当時、孫の軽皇子はまだ7歳で、690年に皇后の鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が持統天皇として即位するしかなかった。
国内に目を向けると、女性の持統天皇から幼い孫軽皇子への安定した皇位継承は危うく、国外では百済を滅ぼした大国唐の侵略を受けかねぬ緊張状態にあり、大国唐にも対峙できる安定した国づくりが急務だったとされる。
鉄筋コンクリート造りの瀬田の唐橋(小橋)、穏やかな反りや擬宝珠は健在
そんな、国際的な緊張状態と孫軽皇子への皇位継承問題を抱える持統天皇が、側近として登用したのが、百済の渡来人に育てられ大陸の政治を学んだ藤原不比等(659-720)である。 ちなみに、持統天皇は乙巳の変を敢行した天智天皇の娘、また藤原不比等はその側近藤原鎌足の息子、往年の君臣関係が世代を超えて実現したわけである。
そして、後に他に比べるものがいないと言わせた政治家不比等が、持統天皇の側近としてプランニングしたのが、国の骨格となる大宝律令、日本書紀、平城京であった。 今回の旅を通じて調べ直してみると、それが超大国唐と対等に渡り合うために、また国内勢力を束ねるためにも必要な三本柱の施策だったことを知る。
例えば大宝律令(701年)では、唐に習い嫡男の皇位継承を定めて政治の安定を図りながらも、日本独自の大上天皇や不改常典を定め、持統天皇から孫の軽皇子(文武天皇)、さらにはその子首皇子(聖武天皇)への安定した皇位継承を令として担保させた。
また日本書紀(720年)では、持統天皇を天照大神として神格化し、天孫降臨で地上に降りたニニギノミコトは文武天皇を印象付けたともいわれている。 宗教や思想的なものは後付けで、きわめて政治的な事情から描かれた物語に納得させられた次第である。
そして、724年に平城京の大極殿で聖武天皇が即位し、藤原の不比等描いた天皇中心の中央集権国家を内外に示すこととなった。 自分が没したの後にそれを成し遂げる段取りは、まさに比べるものがいない政治家だったと感心させられるのだ。
さてさて、振り返って今の時代に目を向けてみると、外国の手前味噌な歴史観や法律を持ち出されて国土を奪われるリスク、国民が傷つけられるリスクは、藤原不比等が生きた時代よりも深刻になっているかもしれない。
感情的なナショナリズムやポピュリズムに引っ張られることなく、まずは対峙せねばならぬ外国の文化ややり方を把握し、国を束ねる大義や渡り合える政策が必要だろう。 またそれを実践するには、この国の良さや強さが何かを今一度見直して、変えるべきもの、変えてはいけないものを議論せねばならぬ。
そんな、論理的な思考や実践力を備えた政治家は...この還暦親父が生存し、清き一票を投じられるうちに現れんだろうなぁ。 そんな政治家が降臨するまで、後世につなぐこの国が存在していてほしいと願うばかりなのである。
小橋を渡り中島から見た大橋、現在も往来が途絶えることは無い
その後、現在も往来が途絶えることのない瀬田の唐橋を渡ると、瀬田川沿いの国道422を甲賀方面にむけて走り出すことにした。
そして、国道422が瀬田川沿いを離れてその支流信楽川沿いへと駆け出すと、突然現れた建設中の新名神高速の巨大橋脚に目を奪われる。 果たしてこの巨大な建造物が、二千年近く経った後に、その時の旅人にどのように映っているのだろうか? などと、古代史の付け焼刃のうんちくを語った晴れふら親父は、間違いようのない未来の妄想へと踵を返す(笑)。
国道422から、建設中の新名神高速の巨大橋脚を見上げる
その後、国道422は信楽川沿いの旧道を縫うように走る快走ルートとなり、道なりに国道307(近江グリーンロード)へと走り継ぐことができる。 この大津と甲賀を繋ぐ国道422、新名神高速や国道1のバイパスルートとして重宝しそうである。
そして今回は、国道422から国道307へ道なりに走り継いで、信楽の焼き物街に差しかかったところにある「近江肉料理 牛石」に立ち寄ることにした。 近江牛のリーズナブルなランチメニューで、近江の美味いものを締めくくる目論見である
信楽川沿いの旧道を縫うように快走する国道422バイパスルート
国道307が信楽の焼き物街にさしかかると、程なくお目当ての「近江肉料理 牛石」にたどり着いた。 開店時間にはまだ20分程の余裕があったが、入口に置かれた名簿は既に順番待ち客の名で埋まっていた。 早速、ヘルメットも脱がずに名簿に名を連ね、軒先の日陰に避難して待つことしばし、店が開くと運よく一巡目最後の席に案内されることとなった。
信楽の「近江肉料理 牛石」、近江牛ランチで近江の美味いものを締めくくる
席に落ち着き、飛騨牛のランチメニューの中から注文したのは...もちろんステーキ定食、2,580円也の一択である。 白飯が足りなくなるのは必至ゆえ、ごはん大盛りのサービスがありがたい。
そして、先客の膳が順に運ばれるのを待ちながら、スマホで帰りのルートなど確認していると、いよいよ注文したステーキ定食が運ばれてきた。
香ばしくしっとり焼かれたミディアムレア、絶妙な塩加減のシンプルな味付けは、焼き手の腕と近江牛の目利きの自信にあふれている。 近江牛らしい細かいサシは甘くとろけるような肉の食感となり、添えられた粒マスタードの酸味で、夏らしくサッパリとした味わいも楽しむことができる。
年配の客が多く、ガッツリステーキを食らうお年寄達に感心していたのだが...これなら、入れ歯はもちろん、例え歯が無くともおいしくいいただけるかもしれぬ(笑)。 この味わい、このボリューム、そしてこの値段、開店前から駐車場が一杯になるのもうなずける。
近江牛のステーキ定食@2,580円也、腕と素材に自信溢れる一品
近江の旅の美味いものを締めくくるにふさわしい昼飯を済ませると、走ってきた国道307に折り返して国道422に分岐し、予定通り伊賀方面へと下って行った。
国道422を伊勢方面へと走り出しても、大津から信楽までの道中と同じ快適なクルージングルートが続いている。 そして一旦は、桜峠で滋賀県甲賀市から三重県伊賀市への県境を越え、伊賀コリドールロードに分岐して再び甲賀方面へと上って行った。
一旦は国道422で伊賀へと下り、再度甲賀へ伊賀コリドールロードを快走する
この甲賀と伊賀の集落を繋ぐ田園地帯、わかり易いランドマークもなくどこを通っても同じ景色に見えてしまう。 一見ツーリング親父がGoogle Mapに案内を頼まねば、迷走必死のリアル忍者の里なのである。
しかしその反面、田園を駆ける快走ルートが網の目のようにつながるエリアでもある。 機会があれば再訪し、異なる運命をたどった甲賀と伊賀忍者の歴史をたどってみたいものである。
今回はその下見?を兼ねて、伊賀コリドールロードから鹿深の道へと走り継ぐ道中で、JR草津線甲賀駅にほど近い田堵野 大原城跡に立ち寄ってみた。 こんな駅近くの集落に、土塁で囲まれたリアルな忍者屋敷が、末裔が暮らしてきた民家として残っていることに驚かされる。
JR甲賀駅近くにある田堵野 大原城跡、土塁に囲まれたリアルな甲賀忍者屋敷
その後、田堵野 大原城跡を後にすると、JR草津線沿いを少し走り鹿深の道へと走り継いだ。 壬申の乱が起こった大津京時代には、鈴鹿峠を越える東海道ではなく加太越峠を越える鹿深の道が使われていたらしい。 吉野で挙兵した大海皇子も、各地の戦いで朝廷軍を破りながら、鹿深の道をたどり大津京へ攻め上がったのだろう。
この”鹿深”が”甲賀”の由来になったとも言われており、甲賀市内には鹿深の道を謳う史跡めぐりの歴史ルートが整備されている。 今回は大原ダムを経由して国道1に貫ける鹿深の道をたどり、古代の戦いを妄想した近江旅の余韻に浸りながら帰路に着くことにした。
実際に鹿深の道に駆け出してみると、アスファルトや電柱などが消せれば、飛鳥時代のワンシーンとして映画などに登場しても違和感ない雰囲気であった。
壬申の乱の舞台にもなった鹿深の道、アスファルトや電柱が無ければ飛鳥時代?
その後、鹿深の道が突き当たった国道1をわずかにつなぎ、県道507に分岐して野洲川ダム方面へと駆け上がった。 そして県道507を道なりに県道9に走り継ぐと、たどり着いた野洲川ダムから鈴鹿スカイラインへ駆け上がって行った。
そして、鈴鹿スカイラインを滋賀県側から駆け上がると、タイトで落差のある駆け上がりがこれでもかと続く。 そして、二日間に渡りどっぷり浸った近江の旅は全て吹き飛んでライディングに夢中になる...いや、必死になると言った方が正しいかもしれぬ(笑)。
W800 streetのパフォーマンスの範疇ではあるが、少しばかり強引に振り回してもMICHLIN ROAD CLASSICの接地感が失われることなく、また高速道路の移動距離を重ねても顕著なセンター減りは見られず、当面はこのバイアス・タイヤの世話になりそうである。
野洲川ダムから鈴鹿スカイラインのタイトな切り返しを駆け上がる
全域駐停車禁止の鈴鹿スカイライン、武平トンネルで滋賀県甲賀市から三重県菰野町の県境を越えたところで、駐車スペースを見つけて一息つくことにした。 見通しが開ける場所は少ないが、思いがけず鈴鹿スカイラインを下った先に見えた菰野町の街並みにホッとする。
実際のところ、名古屋までは木曽三川を挟んでもう少し距離もあるが、鈴鹿山脈を越えると二日間の旅も無事に終えたような気持ちになる。 しかし、帰りついた街中の方が事故のリスクが高いのは還暦バイク親父の経験知、菰野町を見下ろす路側で一息つくと、残りの帰還ルートに向けて慎重に走り出した。
滋賀県甲賀市から三重県菰野町へ県境を越え近江の旅を終える
正直なところ、初日に充実した近江の旅を終え、何をしようかと走り出した二日目だった。 そして、何気なく立ち寄ることにした瀬田の唐橋だったが、昔学校で習った壬申の乱の背景やその結末など調べ直してみると、飛鳥時代から現代になっても、我々の国が抱えるリスクや、やるべきことは何も変わっていないことに気づかされることとなった。
また古から、街の様子や我々の価値観など随分と変わっているはずなのに、実際に現場を訪れて歴史や地形などを俯瞰してみると、戦いの痕跡や当事者たちの想いみたいなものまで伝わってくることを知った。 その現場でしか感じることができぬ共感や違和感は、先人の強かな生き様や同じ轍を踏んではならぬ過ちを学ぶ助けにはなりそうだ。
最後になるが、一日目には琵琶湖の美味いものと地酒三昧、そして二日目には国のかたちが創られた古代史に思いを馳せ、近江の旅を味わい尽くす二日間となった。 名古屋から日帰りも可能な近江エリアだが、泊りがけだから可能なツーリングを楽しむ雛形になるかもしれない。
ツーリング情報
比叡山ドライブウェイ 滋賀県大津市山上町長等山777-2(田の谷峠)
瀬田の唐橋 滋賀県大津市唐橋町~瀬田1丁目
近江肉料理 牛石 滋賀県甲賀郡信楽町西444-1 (電話)0748-82-2600
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