2024/03/03 木曽三川遡りお千代保稲荷へ川魚料理ツーリング(治水神社、船頭平閘門、輪中の郷、大周屋、魚信)
筑後川が流れる福岡県の田舎町で生まれ育った晴れふら親父、子供の頃から川魚釣りや川魚料理に慣れ親しんできた。 そのせいか時折、ほろ苦く川の流れが香る川魚料理が無性に恋しくなるのである。 大学卒業と共に愛知に移り住み、還暦を越えた今でもその体質は変わらず、いやむしろ歳を重ねるごとに故郷飯への追想は強くなってきたような気がする。
そして今回、伊勢湾岸道湾岸桑名インターを起点に木曽三川を遡り、千代保稲荷神社に参拝して折り返す旅へと走り出すことにした。 門前店が並ぶ千代保稲荷神社参道、そして輪中を駆け抜ける道中では、木曽三川の川魚料理を供する店に立ち寄るつもりである。
また、名古屋から往復100km程度のショートツーリング、ステップやサスペンションを換装したばかりのW800streetの調整を兼ねての旅である。 そして今回は、H-D STREET BOB 114を駆る同年代の友人との二人旅、同じく近場のツーリングで換装したての吸排気系の調子を確認したいらしい。 お千代保いなりに参拝するまでも無く、待ち合わせたコンビニで合法を自称する爆音マフラーの威圧効果は確認させてもらったが(笑)。
ところで、尾張名古屋生で生まれ育ったH-D乗りだが、意外にも美濃との境を流れる木曽三川の川魚料理だけでなく、木曽三川治水や輪中等の郷土史にも馴染みが薄いらしい。 ならばと、これまでにツーリングで訪れた史跡や施設を再訪し案内することにした。 筑紫平野育ちの晴れふら親父が濃尾平野で育ったH-D親父に、木曽三川の地元飯や歴史スポットを紹介するという何とも妙な構図になってしまった(笑)。
千代保稲荷神社参道、大正三年創業「大周屋」の名物もろこ佃煮
ルート概要
伊勢湾岸道湾岸桑名IC-県69-揖斐川西岸(県504,県613)→伊勢大橋西詰-国1(伊勢大橋)→中提入口-県106(揖斐長良背割り堤,油島千本松締切提)→治水神社-県220→油島大橋東-県220→川魚料理「魚信」-県218(薩摩カイコウズ街道)→鹿野-県1(水郷ハナミヅキ街道)→千代保稲荷神社(千代保稲荷東口参拝客用無料駐車場)-県23(長良川西岸、清流サルスベリ街道)→長良川大橋西-県125(長良川大橋)-県168→船頭平閘門-県168→桑名市輪中の郷-農免道路-長良川東岸堤防道路→長良川河口堰→長良川東岸堤防道路→長島スパーランド外周路-県7→伊勢湾岸道湾岸長島IC
ツーリングレポート
伊勢湾岸道湾岸桑名ICを降りると、早々に揖斐長良川西岸の堤防道路へと駆け上がった。 木曽川、長良川、揖斐川が寄り添いながら伊勢湾に注ぐ木曽三川下流域は、年間を通して季節に応じた川辺のクルージングが可能なバイク乗りに重宝する地域である。 河川敷や堤防が新緑で覆われるにはまだ少し早いが、世の中は春の気配に誘われた虫が這いだす啓蟄に差しかかり、冬ごもりのバイク親父が走りだすに申し分ない。
そして、堤防道路を上流へと走りだして程なく、桑名名産はまぐりの水揚げで賑わう赤須賀漁港にさしかかった。 一旦堤防道路から降りて漁港を抜けた川辺から、揖斐川と合流する直前に長良川を堰き止める長良川河口堰を望んだ。 本日の旅はここから千代保稲荷神社まで遡り、その長良川河口堰へと下ってくる段取りである。
桑名名産はまぐりの水揚げで賑わう赤須賀漁港脇から長良川河口堰を望む
さて、堤防道路をさらに北上すると、交差した国道1を伊勢大橋へと右折し、伊勢大橋の中程から揖斐川と長良川を分ける背割り堤へと駆け降りた。 この揖斐・長良川背割り堤は、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケが構想した、明治治水の木曽三川分流工事で築かれた堤防である。 木曽三川は、この明治の分流工事で完全に分離されることとなった。
左手に揖斐川、右手に長良川の川面を眺めながら上流へ走り出すと、まるで川面を走っているような錯覚を覚えるルート。 路側にオートバイを停めてみると、二本の一級河川越しに吹く緩やかな風は柔らかく、冬ごもりからはい出した二匹の親父は春の訪れを実感する。
揖斐長良川背割り堤から伊勢大橋を振り返る、写真右手揖斐川、左手が長良川
その後、揖斐・長良川背割堤を道なりに8km程遡ると、薩摩藩が徳川幕府から命じられた宝暦治水(1754-1755)で築いた油島締切提に差しかかった。 油島締切提には藩士達が植えた日向松の苗が樹齢200年を越える松原に育ち、国の史跡に指定されている。
また油島締切提には、1938年に地元浄財で建立された治水神社があり、劣悪な工事環境や抗議の自害で命を落とした80名を超える薩摩藩士が慰霊されており、その責任をとって自害した薩摩藩家老平田靱負が治水の神として祀られている。
ところで、宝暦治水から150年ほど遡った1609年、木曽川東岸に約50kmにわたる御囲堤(おかこいづつみ)」が築かれていた。 御囲堤は、西国の侵攻を防ぐとともに御三家尾張を洪水から守る目的に築かれた堤防である。 美濃国側は堤防を三尺(約1m)低くすることを強いられ、度重なる洪水に苦しみ続ける事となった。
これからツーリングで巡る輪中文化の背景には、尾張徳川の美濃いじめや薩摩いじめの背景があったわけである。 そんなことを今更言われても...と困惑する尾張出身のH-D乗りと共に治水神社に参拝し、宝暦治水で犠牲となった薩摩藩士の冥福と令和のバイク親父達の旅の安全を祈ることにした。
油島千本松締切提の治水神社に参拝し、犠牲となった薩摩藩士の冥福と旅の安全を祈る
治水神社の参拝を終えると神社にほど近い川魚料理「魚信」の開店時間に差し掛かり、千代保稲荷神社へ走り出す前に昼食をすませることにした。 早速治水神社から走り出して揖斐川東岸の堤防道路を溯ると、程なく目指す魚信にたどり着いた。
思惑通り開店間近の到着となったが、すでに数組の先客があり地元人気店ゆえの繁盛ぶりがうかがえる。 まるで民家のような店の庭脇には、揖斐川の水を引いた大きな養殖池と出番を待つ川魚の生簀があり、お目当ての川魚料理への期待が高まる。 生簀のカゴは魚種別に分けられ、鯰、鯉、鮒...どれも子供の頃の釣りのターゲット、懐かしい郷土料理を目前に晴れふら親父のテンションは振り切れそうになる。
千代保稲荷神社へ走り出す前に「魚信」に立ち寄り、お目当ての川魚料理をいただく
揖斐川の水を引いた生簀には、鯰、鯉、鮒...懐かしい川魚が出番を待つ
生簀籠の川魚を一通り除き終えると丁度開店時間となり、玄関の暖簾をくぐってひな壇が飾られた座敷に上がった。 まるで祖父母の家に遊びに来たような懐かしい心地良さを感じながら、H-D乗りと二人で日当たりの良い縁側のテーブルに落ち着いた。
メニューには、鰻、鯉、鯰、鮒、もろこ、川海老など、知る限りの川魚の多彩な料理が並んでいて注文に迷うところである。 今回は、食後に参拝するお千代保稲で老舗佃煮屋に立ち寄ることを考え、甘露煮系の一品メニューを我慢し、定番のうな重1,800円也と鯉の刺身400円也を注文した。
鰻の蒲焼の焼き上がりを待つ間、座敷のひな壇や庭の景色を眺めながら友人と話し込んでいると、注文した鯉の刺身が配膳された。 臭みも無く歯ごたえの良い鯉の刺身を、旨味を引き立てる赤みそ仕立ての酢味噌でいただく。 気取らぬ店構えと庶民的な価格ながら、新鮮な素材と手際のよい調理が際立つ滋味深い一品であった。
歯ごたえの良い鯉の刺身400円也、赤味噌ベースの酢味噌でいただく
辛口の純米酒を我慢しながら鯉の刺身を味わい終える頃には、タイミングよく焼き上がったうな重と肝吸いが運ばれてきた。 甘すぎずクド過ぎないタレを纏ったうなぎの蒲焼、皮目が香ばしく焼かれた身はふっくら、上品な肝吸いとともに一気に親父達の胃袋に納まった。 そしてこのボリュームで1,800円也というお値段ゆえ、開店前から客が並ぶのもうなずける。 今後、懐かしい川魚料理目当てに走り出すときの目的地が、親父の頭の自前ナビに自動登録されたような気がする。
香ばしく焼かれたうな重は1,800円也とお値打ち、地元客で賑わう訳が分かった
今回初めての来店であったが、期待以上の川魚料理に燃え尽きた親父二人(笑)、気力を振り絞ってお千代保稲荷に向けて走り出した。 揖斐川堤防から離れて輪中の田園地帯を貫ける薩摩カイコウズ街道、道なりに水郷ハナミズキ街道へと北上を続け、目的の千代保稲荷神社にたどり着いた。
早速、お千代保稲荷東口の参拝客用無料駐車場に移動し、管理小屋裏の二輪駐車場にW800 streetとSTREET BOB 114を停めた。 毎度無料駐車場には空き待ちの四輪が並んでいるが、その傍らを抜けて二輪駐車スペースに進めば問題なく駐車できるだろう。
千代保稲荷神社は、室町時代に源氏の子孫森八海が、先祖の霊を千代に保つために祖神を祭ったのが始まりらしい。 お守りのたぐいが販売されていないところに祖神を祀ったルーツを垣間見る。 そんな、プライベートなお願い事から始まった稲荷神社であるが、500年以上その願かけが続いている事実に、商売が永く続くってご利益にも説得力がある。
鳥居をくぐって小さな境内に入ると、手水舎脇の土産物屋で購入した油揚げとローソク50円也を供え、わずかな賽銭とともに参拝を済ませた。
参拝客で賑わう参道を進み、まずは千代保稲荷神社に参拝する
神社脇の土産物屋で油揚げとロウソク50円也を購入し奉納する
参拝を済ませて千代保稲荷神社の境内から出ると、神社近くの参道で営業するもろこ佃煮の大周屋に立ち寄った。 木曽三川で獲れる川魚の佃煮を商い100年を超える老舗、ショーケースに盛られた照りの良い佃煮を見ていると、九州筑後川流域で魚獲りに明け暮れた子供時代が蘇ってくる。
しばし佃煮を売る店主と言葉を交わし、故郷と異なる木曽三川流域の川魚の呼び名を学んだ後、看板商品のもろこの佃煮600円也をお買い上げ。 甘い照りと香ばしい醤油、ほろ苦く滋味深い川の幸は、子供から大人まで楽しめる一品であろう。 当時は白いご飯のおかずでしかなかった郷土料理だが、今は酒の肴にしか見えなくなってしまった呑兵衛親父である(笑)。
大正三年創業「大周屋」に立ち寄り、懐かしく美味そうな川魚達とご対面
名物のもろこ佃煮600円也、甘い照りと香ばしい醤油、ほろ苦く滋味深い川の幸
友人と共に、大周屋のもろこ佃煮を土産に仕入れると、参拝客で賑わう参道を抜け東口駐車場へ向け歩き出した。 その道中、コロナ過を抜けて客足が戻ったのか、地元メディアで紹介されることも多い串カツ屋の店頭販売に大勢の客が群がっていた。
以前ならば、迷わず人混みに混じり揚げたての串カツを頬張るところだが、意外にも鳴りをひそめた親父の食欲は大人しくその場をやり過ごす。 還暦を越え食が細くなったのか、それとも串カツを片手に吞めぬ拷問に耐えきれなくなったのか...その理由は自分でもわからぬが、後日行きつけの居酒屋で串カツを爆食いしたことは間違いない(笑)。
さて、お千代保稲荷の東口駐車場に戻って身支度を整えると、長良川西岸の堤防へと駆け上がり清流サルスベリ街道を南下することにした。 往路では木曽三川の川魚料理を十分に堪能した親父二人、復路では木曽三川の歴史を訪ねながら旅を折り返す算段である。 そして清流サルスベリ街道をしばらく南下すると、木曽三川公園に差し掛かったところで長良川大橋を渡り長良川東岸へと渡った。
そしてまず立ち寄ったのは、明治20~45年(1887~1912)の木曽三川の分流工事で造られた船頭平閘門である。 この明治の治水工事で全長12kmの木曽川長良川背割堤が築かれ、水位差が生じる木曽川と長良川を移動できる閘門の建設は必須だったのである。
船頭平閘門の建設当時、木曽三川の水運で集められた流域の米や木材は、伊勢湾を経由して全国市場に送られており、ピーク時には年間2万隻を超える船と一万枚を超える筏に利用されていたらしい。 しかし、昭和8年(1933)に尾張大橋、昭和9年(1934)に伊勢大橋が完成して陸上物流が主流になり、現在では荷物を積んだ船の利用は無くなり漁船や観光船の利用しかないのが実情である。
明治35年(1902)に完成した船頭平閘門は日本初の複閘式閘門で、国の重要文化財に指定されている。 船頭平閘門脇の道沿いから眺めると、二つの閘門扉で挟まれた閘室の水位を調整して船舶を通す仕組みがよくわかる。 平成5年(1993)に鉄製からステンレス製に改修され電動化もされたが、建設から1世紀余を経た現在も現役で稼働し、かつての水運物流を今に伝える貴重な産業遺産なのである。
今も稼働する木曽川と長良川の船頭平閘門、閘門間の水位を調整し船を通す
船頭平平閘門を後にすると、閘門がある船頭平公園からほど近い輪中の郷に立ち寄ることにした。 桑名市が運営する輪中の郷は、平成16年(2004)に桑名市に合併した旧長島町が平成5年(1993)にオープンした施設で、輪中をテーマに長島の歴史・文化、産業が紹介されている。
今更ながらではあるが輪中とは、水害から守るために集落や耕地が堤防で囲われたところをさし、木曽三川が伊勢湾に注ぐ45km程の下流域には、大小45ほどの輪中が連なっているとのことである。 そして立ち寄った輪中の郷(歴史民俗資料館)では、洪水時の避難場所となった水屋の実物展示や、レポート中で紹介した木曽三川治水の歴史、さらに長島一向一揆や伊勢湾台風などの長島町の歴史が紹介されている。
12年前のツーリングで一度立ち寄った施設だが、今回はH-D乗りと連れ立っての再訪となった。 入館料は大人300円から460円に値上げされていたが、展示物はあまり更新されているようには見えず、また見学中にほかの来館者の姿も見えず、桑名市の運営状況は厳しそうである。 このままではこの施設自体が、かつての「歴史民俗資料」になりかねぬかも。
冗談は兎も角、展示されている資料の充実ぶりは今も変わらず、見学にはそれなりの時間を要するだろう。 ツーリングの合間にちょっと立ち寄るだけでは、入館料の割高感を否めぬことになりそうだ。
桑名市が運営する輪中の郷、輪中をテーマに旧長島町の歴史や文化を紹介
輪中から移設された百年前の水屋、洪水の時の避難小屋が再現されている
輪中の郷の見学を終えると、本物の輪中を貫ける農免道路を経由して長良川東岸の堤防道路へと南下した。 その道中、輪中の郷で見学した水屋らしき景観に遭遇し、洪水に悩まされてきた地域の暮らしを改めて実感する。 その後堤防道路は、東名阪自動車道、JR関西本線、近鉄名古屋線をくぐり、さらに国道1号線と交差したところで長良川河口堰にたどりついた。
今回の旅の最後の目的地長良川河口堰は、治水と利水を目的に昭和から平成にかけて構想・建設された、長良川本流初となる河口堰である。 計画当初から、漁協や自然保護団体から始まった大規模な反対運動がおこり、大型公共事業のありかたが議論されるきっかけともなった。 昭和43年(1968)に建設が決まり、その後事業差止め訴訟を受けながらも国が勝訴し、平成7年(1995)から本格運用が開始されている。
改めて振り返ってみると、長良川の氾濫を防止するために川底を掘り下げ、海水の逆流による農作物への塩害を防止するため河口堰が必要である。 また、堰き止められた淡水を工業用水の将来需要と生活用水の安定供給に活用できる、というのが河口堰建設の大義であった。
そして、運用開始から四半世紀が経った今、国土交通省の調査報告資料(2021)では、河口堰の目的である「治水」「利水」に所定の効果を発揮していると同じ論調だが、最近の愛知県の運用検討委員会の報告(2024)では、そもそも治水や利水に河口堰は必要無かった、国交省の見通しが間違っていたと断じられている。
長年のリーマン稼業でゼロベース・仮説思考を是としてきた晴れふら親父、使われていない実態の具体的データや環境変化を踏まえた抜本的な運用案を示した愛知県側の報告に分があるように感じる。 長良川を堰き止めている途方もなく巨大な建造物が、動き出したら小回りが利かぬ国家施策のリスクを後世に伝える産業遺産?になる日も近いかもしれぬ。 まあ、小回りが利かないのだから、晴れふら親父が生存して無駄な税金を払っている間には無いな(笑)。
長良川河口堰管理所の駐車場にはW800streetとSTREET BOB114を停めて管理橋を渡り、建設費用1,493億円、年間維持費約10億円の高価な散歩道の散策を堪能し終えると、長良川西岸を伊勢湾河口まで南下した伊勢湾岸道湾岸長島ICから名古屋方面へと帰路に着いた。
運用開始から四半世紀、ここへ来てそもそもの必要性が議論されている
さてさて、故郷九州の川魚料理へのノスタルジーとともに走り出した今回のツーリング、往路で地元客で賑わう川魚料理店や千代保稲荷神社参道の老舗佃煮屋を訪れ、思惑通りに懐かしい川魚料理を満喫する旅となった。 同行したH-D乗りも鯉の刺身やもろこの佃煮など、初めての川魚料理にも満足した様子であった。
一方復路では、木曽三川の治水や輪中の歴史を学び、都合が悪い現実が埋もれる場所を再訪し、現地現物をめぐり視野を広げるきっかけを得なければ、垂れ流されてくる情報だけでは見えてこないことが沢山あることに気づかされることとなった。
そして最後に、交換したバックステップのシフトペダルやブレーキペダルのポジション調整を終え、リアタイヤで曲げて行けるお目当てのライディング姿勢を手に入れることが出来たと思う。 加えて、劇的に路面からの突き上げが減ったOHLINSのサスペンションの効果かは絶大であった。 今後相棒のW800streetを峠道に持ち込み、負荷をかけた時の性能やそれを乗りこなすライディングなど深掘りして行きたいものである。
STREET BOB114乗りの友人は、出発前のコンビニでお披露目されたフルエキの爆音効果は兎も角(笑)、ECUマップの書き換えまでやるかどうか思案中の模様である。 その効果が発揮されるまで1,868ccエンジンを回すには、まずは乗り手の脳を書き換える必要があるかもしれぬ(笑)。
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