2021/10/05 東濃ワインディングで八百津食堂飯と栗きんとん(杉原千畝記念館、三勝屋、緑屋老舗)
昨年12月に”晴れたらふらっと”サイトをリニューアルしたが、残念なことにコロナ禍による県跨ぎ移動の自粛要請が続き、緊急事態宣言の狭間で愛知県内を巡る旅を伝えるのが精一杯だった。 そしていよいよ、今回のツーリングは、9月末で全国一斉に解除された緊急事態宣言と、県境跨ぎの移動自粛要請解除を受けて走り出した、岐阜県の東濃ワインディングをめぐる旅である。
旅のお目当ては、岐阜県八百津町にある”三勝屋”の昭和な食堂飯と、中津川と元祖を分かつ”緑屋老舗”の素朴な栗きんとん。 自粛期間中、頭の中をコロコロと転がっていた栗きんとん、妄想を味わえる実りの秋に宣言解除が間に合い嬉しい限りである。
さらに、人道の丘公園にある杉原千畝記念館に立ち寄り、ヴィクトール・フランクルが提唱した”態度価値”を実践した、日本人の偉業を心に刻み直しておくことにした。 偉業を成した先人の人生には遠く及ばぬが、六十にして耳順わぬ還暦親父が、意味のある人生を駆け抜けるヒントが見つかるかもしれない。
ツーリングルートは、東海環状道せと品野インターを起点に、国道363で愛知県瀬戸市から岐阜県土岐市へ県境を越えて、瑞浪市、御嵩町へと走り継ぎ、旅の目的地八百津町にたどり着く行程をたどった。 そのルート沿いにはゴルフ場が多く、よく整備されたゴルフ場へのアクセスルートでは、程よい曲がりの峠道を腹一杯いただけるだろう。
そして旅の最後には、濃尾平野越しに伊勢湾まで望む潮見地区を経由して、収穫時期を迎えたであろう恵那市の坂折棚田に立ち寄り往路へと折り返した。 胃袋と心に溜まる美味いもの、そしてワインディングと秋の景色、何とも盛りだくさんのツーリング企画となった。 自粛で溜まったフラストレーションを一気に吐き出すのは良いが、勇み足で土俵を割らぬよう慎重に走り終えたいものである。
坂折棚田の岐阜県境界標を見つけ、県境跨ぎ旅の感慨にふける
ルート概要
東海環状道せと品野I.C.-国363(見晴峠,雨沢峠)→細野口(バス停)-県69(川谷渓谷街道)→堀越―県66→上山田-県386→水野木(JR瑞浪駅)-県352→中央道瑞浪I.C.口-市道(瑞浪市民公園)-県352→小沢商店-県65(中山道かえで街道)-国21→上之郷郵便局(過ぎて)-みたけエコライン-県366(大久後トンネル,新小和沢橋)→人道の丘公園(杉原千畝記念館)丸山ダム-国418(丸山バイパス)→荒川橋東-県83(三勝屋、緑屋老舗)-県83(人道のサクラ街道)→野黒(バス停)-市道→国418(新旅足橋)→しおなみ山の直売所-県353→八百津町立潮見小(展望台)-県353-県402→坂折棚田-県68→河合-県412→武並橋-国418→道の駅らっせいみさと-県66(東濃なんじゃもんじゃ街道)→堀越-県69(川谷渓谷街道)-国363(雨沢峠,見晴峠)→東海環状道せと品野I.C.
ツーリングレポート
東海環状道せと品野インターを下りると、愛知県瀬戸市から岐阜県土岐市への県境を越える見晴峠に向けて、国道363のタイトな折り返しに駆け上がる。 そういえばこの東濃ワインディング、昨春慣らし運転を終えたばかりのZX-6Rで訪れたルートである。 この一年間、街中の城跡や古戦場を巡る旅が多かったゆえ、相棒の心臓を回す旅の高揚感がなんとも新鮮である。
さて、見晴峠への九十九折れを一気に駆け上がると、緩やかになった国道363で雨沢峠を越え、三国山北麓を駆け抜ける。 逸る気持ちとアクセルを抑えながら明智方面へ快走すると、県道69に分岐して肥田川に沿った切り返しへと走り継ぎ、紅葉が色づき始めた川谷渓谷の山肌を見上げながら北へ走る。
ZX-6Rを慣らし終えた見晴峠で愛知/岐阜県境を超える(2020/3/8撮影)
駄知の街中で県道69は終わりとなり、県道66、さらに県道386をつないでJR瑞浪駅へとさらに北上した。 その後、県道352で、中央道瑞浪IC、そして瑞浪運動公園を抜けると、いよいよゴルフ場が点在する東美濃の山間へと走り出した。
今回紹介する最初の東濃ワインディングは、県道352を旧中山道細久手宿手前で分岐して始まる県道65(中山道かえで街道)である。 ”小沢商店”をランドマークに、花の木ゴルフ場を貫けて国道21へと駆け降りるルートは、落差のあるスパイラルダウンヒルが続くテクニカルルート。 所々には野暮な減速帯も敷設されており、腕と肩の力を抜いて落ちてゆく気持ちの余裕が試される。
県道65(中山道かえで街道)は花の木ゴルフコースを貫けるテクニカルダウンヒル
中山道かえで街道が国道21に突き当ると御嵩市街へと舵を切り、上之郷郵便局を過ぎたところで、本日二番目の東濃ワインディング、木曽川の丸山ダムへと駆け上がる”みたけエコライン”へと分岐した。
美岳カントリークラブの脇を抜けて深い森へと駆け上がるみたけエコラインは、適度な曲がりのコーナーを駆け上がる快走ワインディングである。 ゴルフ場へのアクセスルートのご多分に漏れず、よく整備された路面に安心して荷重を預けられる。 みたけエコラインは、丸山ダムに貫ける大久後トンネル手前で、県道366に突き当たって終りとなる。
みたけエコライン、国道21から丸山ダムへと駆け上がる快走ワインディング
県道366で大久後トンネルを貫けると、突然木曽川と丸山ダムを見下ろす雄大な景色が広がる。 そして、木曽川に架かる真新しい新小和沢橋からは、2020年から本体工事が始まった新丸山ダム工事現場を見下ろすことが出来る。 丸山ダムの直下で木曽川を堰き止める新丸山ダム、民主党政権時代に中断されていた公共工事もいつの間にか再開されている。 十分な費用対効果の議論がなされての結果であると願うばかりだが、国民一人当たり一千万近い借金を背負わされる、我々の子孫がその議論に参加していたら何と言うのだろう。
木曽川に架かる新小和沢橋から丸山ダム直下を堰き止める新丸山ダム工事を見下ろす
新小和沢橋で木曽川を渡り八百津町に入ると、道なりに人道の丘公園へと駆け上がった。 八百津町の人道の丘公園は、第二次大戦下のリトアニアで多くのユダヤ人の命を救った、杉原千畝の人道的な功績を後世に伝えるために造られた記念公園である。 公園内の杉原千畝記念館では、外交官だった千畝の執務室が再現され、当時の世界情勢や千畝の功績を知ることが出来る。
1940年にドイツ軍がポーランドに侵攻した第二次世界大戦の開戦当時、千畝はその前年にリトアニア共和国カウナスに日本領事館を開設したばかりだった。 その役目は、同盟関係にあるドイツ軍のソビエト連邦への侵攻情報を収集し本国へ送ることだったらしい。
その状況で千畝は、ナチスドイツの迫害からリトアニアに逃れ助けを求めてきたユダヤ人に、本省の訓令に反し独断で日本国の通過査証を発給した。 千畝が発行したビザは記録が残るだけで2,139通、そのビザで脱出できる家族も合わせ数千人の命が救われたと言われている。
1945年の終戦により家族と共に収容所生活を送った千畝は、1947年に帰国を果たすも外務省に解任され、誹謗中傷すら受ける不遇の時代を送ることとなった。 その後、千畝の人道的な功績は日の目を見ることなく、イスラエル政府から「ヤド・バシェム賞」を受賞した翌年1986年に亡くなった。 イスラエルからの抗議もあり、日本政府が公式に遺族に謝罪し名誉回復されたのは2000年になってからである。
外圧でしか動かぬ国の対応には色々と言いたくなるが、杉原千畝記念館を訪れた還暦バイク親父にとって重要なのは、杉原千畝が外務省のキャリアを捨てて手に入れた”態度価値”が何だったのかということである。
人道の丘公園の杉原千畝記念館、多くのユダヤ人の命を救った千畝の功績を伝える
ここで、ヴィクトールフランクルが提唱した態度価値とは、人間が運命を受け止める態度によって実現される価値である。 仕事をまっとうすることより得られる創造的価値、愛する人や感動を通じて得られる体験価値、そしてそれらがすべて奪われてたとしても、運命を受け止める態度を決める自由が人間に残されている。
杉原千畝が外務省キャリアと引き替えに手に入れた”態度価値”は、外交官としてではなく人間としての誇りと尊厳であろう。 それは、外交官としての地位を無くしたとしても、誇りをもって、生きるための困難や逆境を乗り切る、または死すら受け入れる力になった筈である。
我が身を振り返ってみると、丁度一年前、このサイトを開設する直前の10月、想定外のコロナ禍で、想定外のガン宣告、そして迎えた定年退職...自分の可能性が一気に目減りする状況にどう向き合うのか? 具体的に言うと、病を申告し治療に専念しながらストレスの無い職の御用聞きをするか、あるいは、前のめりの仕事を続けながら可能な治療を探すかの選択である。
結果的に選択したのは後者、その選択から一年後の現在、長期入院が不要な陽子線治療を選択した還暦親父は、新たな肩書を手に入れてプロジェクトを立ち上げ、口角泡を飛ばしながらのリーマン稼業を続けている。 そして、バイク旅をつづけるモチベーションが、大切な心のパートを繋ぎ合わせてくれていることは間違いない。
杉原千畝のように多くの人々の命を救う偉業には遠くおよばぬが、個人的には、己の生き様への誇りや尊厳が、仕事のストレスだけでなく病を乗り越える原動力になっていることに変わりはない。 その意思を尊重してくれた家族や医療関係者には感謝するばかり。 残念なのは、身を削り納税義務を果たし続けなければならぬ、リーマン稼業の身の上のみ(笑)
杉原千畝記念館から走り出して人道の丘公園を貫けると、国道418丸山バイパスに突き当たり、お食事処「三勝屋」と元祖栗金飩「緑屋老舗」が営業する八百津町本町通り商店街に向けて走り出した。
丸山バイパスで八百津町の本町通り商店街にたどり着くと、早速商店街駐車場隣で営業するお食事処「三勝屋」に立ち寄った。 昭和8年創業の店名の由来は「味で勝つ、値段で勝つ、量で勝つ」と、今どきのマーケティングにも通じる明確なコンセプト。 店内には創業間もない三勝屋の写真が飾られているが...正直なところ現在の外観とほとんど変わらない(笑)。 ぶれないコンセプトを象徴するかのような昭和な雰囲気は、今どきの付け焼刃な古民家カフェとは一線を画す。
昭和8年創業お食事処三勝屋、味で勝つ、値段で勝つ、量で勝つ
店の脇にZX-6Rを停めて身支度を整えたところで、暖簾のそばで入店待ちらしき人達に気付く。 最近、頻繁にメディアに取り上げられるようになり、行列ができる食堂になったらしい。 永く続いてほしい食堂が繁盛するのはうれしいが、正直この混みっぷりは微妙なところである。
さっそく入店待ちらしき老夫婦の脇に立つと、自分より幾らか年配らしきご主人から、入り口脇の名簿に名を連ねるシステムを教えてもらう。 早速記名して礼を告げると、夫婦が脇に抱えた緑屋の栗きんとんの包が目に留り、緊急事態宣言明けの同じ行動パターンを告げて笑い合う。 その後、相棒のことを訪ねてきたお父さんから、忍者900Rをはじめとする何台ものバイク遍歴と、今はYZFで河原で遊ぶだけだという強者ぶりを聞くうちに、夫婦と一緒に店内へと案内された。 お父さんがバイク話に夢中になるにつれ、隣の奥様の視線が遠くなるのが他人事と思えず(笑)。
さてさて、店に入ってパイプ椅子のテーブル席に落ち着くと、昭和親父の記憶に残る懐かしい雰囲気にどっぷり浸りきる。 この店の看板メニューは、豚肉ロースをサクサクの衣で揚げたパーコー。 口コミでは、パーコー、中華そば、カツ丼が三大人気メニューらしい。 実際のところ、これまでの来店時にも、中華そばやカツ丼のサイドメニューとして、パーコーを注文する常連客を目にすることが多かった。
今回は久しぶりの来店、看板メニューを訪ねる初来店らしき客に混じり、若女将が勧めてくれたパーコー定食1000円也を注文した。 程なく、注文したパーコー定食が配膳されると、小皿にタレを注ぎでニンニクを絞る作法を解説してもらう。 その聞き覚えのある、大女将から引き継がれたであろうルーティーンも、この店の味わいになっている(笑)。
さてさて、早速、きざみネギをたっぷり載せたパーコーをたれに浸し、白飯と共に口に運ぶと...香ばしく揚げられたサックサクの軽い衣、ジューシーな豚ロース、コクのあるタレの酸味とニンニクの香り。 かつて、この店には何度も足を運ぶことになるだろうと確信した記憶が蘇る。
三勝屋の看板メニューパーコー定食、サクッサクの衣をまとった豚ロース
三勝屋で腹ごしらえを終えると、同じ本町商店街にある元祖栗金飩「緑屋老舗」へと移動した。 通り沿いでは、この明治5年創業の緑屋老舗をはじめ、数軒の和菓子店がこだわりの栗きんとんを供している。
栗きんとんに”栗金飩”の字を当てるのが八百津流とのことである。 この数年、気が付けば栗きんとんの販売時期が終わっていることが多かった。 今回は、久しぶりの旬に訪れた緑屋で、”栗金飩”ワールドを満喫することとなった。
ところで、これまでの来店では、店内に設けられたテーブル席で暖かいお茶と栗きんとんのサービスが定番だったのだが...コロナ禍の影響だろうか、アクリル板で仕切られ、立ち位置が貼られた店内で、そのおもてなしはお預けとなっていた。
明治5年創業の和菓子屋”緑屋老舗”、一子相伝レシピの元祖”栗金飩”
残念ながら、今年の栗きんとんの試食はかなわず、手短に、ヒップバックで持ち帰る化粧箱入り栗きんとん6個入り1300円也を購入することにした。 パニアケースなど、栗きんとんを優しく運べる方々には化粧箱は不要、箱代200円分お値打ちになる。
自宅に帰って一息つくと、かみさんと一緒にお茶を入れ、土産の栗きんとんを頬張った。 まずは形の良い茶巾絞りに丁寧な仕事を感じ、口もとに運ぶと素朴で香ばしい栗の香り、砂糖などの甘味料を感じさせない自然なコクのある甘さ、滑らかな素地に時折栗の食感が交じる。 分店無しの一子相伝で商売を続けてきた証、今年も変わらぬ出来栄えを小さな一粒で味わうこととなった。
感染防止のため栗きんとんの店内サービスはおあずけ(2018/11/8撮影)
八百津町本町通り商店街は昭和親父のパラダイス(笑)、三勝屋の食堂飯を胃袋に納め、緑屋老舗の栗きんとんをヒップバックに納め、いよいよ〆の東濃ワインディングを目指して走り出すことにした。
本町通り商店街の県道83(人道のサクラ街道)を道なりに北上すると、国道418丸山バイパスと交差して旧街道の町並みをぬけ、コミュニティバスの木野南バス停から、むらさき野カントリークラブに向けての峠道へと駆け上がる。 今回の東濃ワインディングのメインディッシュは、落差のある九十九折れを一気に駆け上がって行くテクニカルルート。 腕に覚えのある方々は、逆方向からアクセスして、さらにテクニカルなダウンヒルに臨むも良し。
県道83(人道のサクラ街道)、落差のある九十九折れでS22のエッジを削る
人道のサクラ街道の駆け上がりを十分満喫したところで、コミュニティバスの野黒バス停から分岐して、国道418丸山バイパスに向けて駆け降りる。 さらに、丸山バイパスに合流して緩やかで眺めの良い快走国道を、恵那方面に向けてまったりとクルージングする。
暫く走ると丸山バイパスは、日本一の高低差215mを誇るバンジージャンプスポット新旅足橋にさしかかる。 旅足渓谷に架かる全長462mの新旅足、この欄干から谷底を覗き込むと...かっ、かなり怖い。 写真撮影もそこそこに走り出すと、橋の中ほどでバンジーのジャンプ台が目に留まるが、高所恐怖症のヘタレ親父には恐ろしい拷問装置にしか見えない(笑)。
旅足渓谷にかかる新旅足橋、日本一の落差を誇るバンジージャンプスポット
快適な丸山バイパスは、しおなみ山の直売所に突き当たって終わりとなり、恵那の坂折棚田に抜ける県道353へと走り続ける。 そして、暫くの間、点在する集落を繋ぎながら離合も間々ならない林間狭道を走ると、八百津町立潮見小学校にたどりついた。 潮見小学校には伊勢湾まで見渡せる展望台が設けられており、無料で利用できる望遠鏡も備えられている。
しかしこの日は平日のツーリング、地元の総合病院で早朝の定期検査を終えての走り出しであった。 平日休暇の旅先で騒音をまき散らし、小学校の授業を妨害する親父の絵面は洒落にならぬと、校舎脇にある展望台からの眺めをあきらめる。 以前に立ち寄った際、肉眼でも名古屋駅周辺の高層ビル群が見通せる眺めに感動したことを思い出す。
潮見の地名通り、コンディションがよければ、その先にキラキラと輝く伊勢湾が見通せるらしいが、もはや老眼が進み衰え著しい親父の視力では難しいかもしれぬ。
八百津町立潮見小学校展望台、名古屋駅のビル群を望む(2008/11/8撮影)
さて、八百津町立潮見小学校を過ぎると、鬱蒼とした林間の狭道から十分な幅員がある快走路まで、バラエティに富んだ県道353と県道402を走り継ぎ、恵那市にある坂折棚田にたどりついた。
運が良ければ、棚田の刈り入れを目にできるかと期待したが、残念ながら山里の収穫は予想よりも早く棚田に残る稲はわずかであった。 しかし、季節に応じて全く違った景色を見せてくれることに変わりなく、稲刈りを終えた秋の棚田は400年前から積み続けられている石垣が際立っている。 現実に立ち返り、千枚田を上り下りしながらの農作業を想像すると、決して気楽に眺められない風景でもある。
ふと、ZX-6Rを停めて棚田を見渡す足元に岐阜県の境界標を見つけ、改めて県境を跨いで旅ができる日常の幸せをかみしめながら、東濃ワインディングの旅を折り返して帰路に着くことにした。
稲刈りを終えた秋の坂折棚田、400年前から続く石垣の千枚田
坂折棚田からの下りで多少の工事迂回を強いられたが、ほどなく県道68に合流し木曽川に注ぐ中野方川沿いを南へと下って行った。 その後、武並橋で木曽川を渡って国道418をさらに南下すると、道の駅らっせいみさとから県道66に分岐して往路へと折り返し、東海環状道せと品野インターから名古屋方面へと帰路に着いた。
古から、東西南北に街道がつながり交通の要である愛知県、現在もバイク旅の起点として申し分ない立地ゆえ、県境を跨ぐ移動が禁じられてしまうとその閉塞感は計り知れない。 この一年間、苦し紛れに県内の城跡や古戦場をたどる旅を重ね、地元愛知の歴史を学び直す良い機会となった。 そして今回、東濃ワインディングをたどる旅を終えて、県境をまたぐ週末ツーリングを楽しめる日常の有難さを再認識した次第である。
選挙が近づいたせいか、緊急事態宣言解除と同時に政治家や役人からは、飲食や観光振興キャンペーン再開の声が聞こえてくる。 所詮、ワクチン接種が必要な還暦親父の、三密とは無縁の週末ツーリングの日常など蚊帳の外、感染対策が見えぬばらまきキャンペーンと、どんぶり自粛の要請に翻弄されずにすむことを祈るばかりである。
ツーリング情報
杉原千畝記念館 岐阜県加茂郡八百津町八百津1071 (電話)0574-43-2460(代)
お食事処 三勝屋 岐阜県加茂郡八百津町八百津4118-1 (電話)0574-43-0165
元祖栗金飩 緑屋老舗 岐阜県加茂郡八百津町八百津4096-1 (電話)0574-43-0144
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