2025/03/14 木曽三川輪中の郷、長島一向一揆史跡巡り(服部家住宅、古木江城跡、木曽三川公園センター、輪中の郷、長島城跡、蓮正寺、願證寺、桑名城址、魚信)
寒さに衣更着する二月から木草弥生い茂る三月に差しかかり、三寒四温の言葉通りに冬の寒さと春の温かさが入れ替わる日々が続いていた。 偏西風に乗った低気圧と高気圧が交互に訪れるのがその原因らしいが、晴れると寒く暖かいと雨模様という悩ましい天気に、走り出す機会を見出せぬバイク親父であった。
そんな某週末、友人からの誘いで「にっぽん城まつり2025」なる催しに出かけることにした。 この名古屋市吹上ホールで開催されたイベントでは、戦国時代に築かれた愛知近郊の城跡を紹介する自治体ブースが並び、さらに城や武将ゆかりの酒蔵の出店をハシゴできる...まさに「ゴキブリ・ホイホイ」ならぬ「オヤジ・ホイホイ」とも言える企画なのであった(笑)。
「にっぽん城まつり2025」、偶然出会ったひこにゃんと共に入城
そのイベントから半月ほどが過ぎた週末、春分を間近に控えた小春日和に誘われて、日本城まつりのワークショップで知った長島一向一揆の、木曽三川河口の輪中地帯に点在する史跡を巡るツーリングに走り出すことにした。
これまで、歴史に残る戦国大名の城跡や古戦場を訪れることは多かったが、浄土真宗門徒による一向一揆の痕跡を辿るのは初めてのことである。 しかし、反織田信長を掲げ蜂起した一揆勢は10万人にもおよび、凄惨な結末を迎えた戦いが戦国史に与えた影響は少なくないのである。 また、輪中の暮らしを伝える施設やそこに築かれた水城跡を訪ねてみれば、地の利を活かして信長を苦しめた一揆勢の巧みな戦いぶりを想像することが出来るかもしれぬ。
そしてその行程は、名四国道23号を経由して愛知、岐阜、三重の県境をまたぎ、名古屋から往復100km程度のショートツーリングになる。
まずは最初に、一揆に加わった土豪服部氏の末裔が住む服部家住宅から、織田信長の実弟信興(のぶおき)が自害した古木江城跡を訪れ、長島一向一揆の始まりの経緯をたどった。 さらに川魚料理の昼食を挟み、国営木曽三川公園センターに再現された輪中農家や桑名市長島町輪中の郷を訪れ、信長が地の利を生かしたゲリラ戦に苦戦した、木曽三川河口の輪中地帯の地形や暮らしに触れてみることにした。
その後、最大の激戦地となった一揆勢が籠城した長島城跡、さらに長島の浄土真宗門徒の信仰の中心だった願證寺を訪れ、長島一向一揆の顛末と戦国史に与えた影響に思いを巡らせてみることにした。 そして最後には、関ケ原の戦い後に本田忠勝の居城となった桑名城跡を訪れ、信長が攻略に苦労した難攻不落の水城の特徴に触れて旅をしめくくることにした。
はてさて、第六天魔王を名乗り殲滅戦を仕掛ける信長と、「進者往生極楽」「退者無間地獄」の昇旗を掲げ、死をも恐れず戦い続けた一向一揆勢の戦いはどうなったのか? その戦いの戦国史に与えた影響のみならず、現代においても学ぶべき教訓が多い旅となった。
長島一向一揆のワークショップ、輪中の郷の史跡巡りを思い立つ
ルート概要
国道23(名四国道)→筏川橋東-県道104→鍋平-国道1→弥富高架橋南-国道155→弥富IC北-市道→服部家住宅-市道→名鉄尾西線五ノ三駅-県道458-市道→古木江城跡-森川橋→道の駅立田ふれあいの里-県道125(立田大橋、長良川大橋)→国営木曽三川公園センター(輪中の農家、展望タワー)-県道220→魚信-県道220→国営木曽三川公園センター-県道125(長良川大橋)→立田大橋西-県道168→桑名市長島町輪中の郷-県道168→長島IC前-県道7→長島城跡(桑名市立長島中学校)-蓮正寺(旧長島城大手門)-国道1→長島山願證寺-国道1(伊勢大橋)→伊勢大橋西詰-県道613→桑名城跡-県道504→地蔵-国道23(名四国道)
ツーリングレポート
名四国道こと国道23を名古屋港から四日市方面へと走り出すと、筏川沿いの県道104に分岐して愛知県海部郡飛島村から弥富市へと北上した。 そして、長島一向一揆史跡を巡るに際しまず最初に訪れたのは、反織田信長を掲げ一揆に参戦した服部氏の拠点二之上城跡に建つ、国重要文化財服部家住宅である。
ご存知の通り、織田信長は、1560(永禄3)年桶狭間の戦いで駿河の今川義元、さらに1567(永禄10)年稲葉山の戦いで美濃の斎藤龍興を倒し、ついには1568(永禄11)年に足利義昭を奉じて上洛を果たした。
しかし、尾張、伊勢、美濃国の狭間に位置し、木曽三川の流れで陸地から隔離された長島(七島)の輪中地帯では、信長の支配は及ばず10万人に達する一向宗(浄土真宗)門徒が独立した自治を保っていたのである。 そして長島一向一揆勢には、桶狭間の戦いで今川方として水軍を率いた服部氏をはじめ、尾張、伊勢、美濃で信長に反抗する土豪や、戦いに敗れた武士や地侍が加わっていた。
現在の服部家住宅は、服部氏が1576(天正4)年頃に二之上村を再興し居を構えたもので、現在も末裔の方が暮されているとのことである。 治水工事や埋め立てが進み随分と様変わりした輪中地域ゆえ、当時の暮らしを今に伝える史跡は貴重である。
信長との戦乱の後、服部家が旧領地荷之上城跡に居を構えた住宅
服部家住宅を後にすると、木曽川東岸に広がる田畑を抜けながら北へ走り、程なく長島一向一揆の緒戦の場となった古木江城跡にたどり着いた。 現在の古木江城跡に縄張りなどの痕跡は残っていないが、かつて古木江城の鎮守として祀られていた富岡神社境内脇に、城跡碑と説明版が立てられている。
さて長島一向一揆の発端は、上洛を果たし近畿を制圧した信長と石山本願寺が敵対し、1570(元亀元)年に門主顕如が全国の一向宗門徒に信長討伐を指示したことによる。 それを受けた服部氏と一向宗勢は織田方の古木江城を攻撃し、信長の実弟信興を自害に追い込んだのである。
その当時信長は、石山本願寺と連携した三好三人衆、越前の朝倉義景、近江の浅井長政、甲斐・信濃の武田信玄、さらには将軍足利義昭も加わった反信長包囲網との戦いで、弟信興に援軍を送ることができなかったのである。 その恨み辛みが信長を、三度の長島侵攻の末に投降した二万人もの門徒を虐殺した”根切”に駆り立てたのかもしれぬ。
服部氏と一揆勢の攻撃で信長の弟信興が自害した古木江城跡
長島一向一揆の始まりとなった古木江城跡を後にすると、木曽川に架かる立田大橋と長良川に架かる長良川大橋を渡り、愛知県愛西市から岐阜県海津市へと県境を越えた。 旅の始まりから随分と血生臭い話になってしまったが、それでも腹が減ってしまうのは煩悩まみれのバイク親父である(笑)。
まずは輪中の美味いもので腹を満たそうと、揖斐川沿いの川魚料理「魚信」に立ち寄り、それから長島一向一揆の主戦場となった三重県桑名市長島町へと下って行くことにした。 国営木曽三川公園センターを経由して、揖斐川越しに養老山地を臨みながら堤防道路を遡ると、程なく新鮮な川魚料理をリーズナブルにいただける「魚信」にたどり着いた。
先ずは腹ごしらえ、揖斐川越しに養老山地を望みながら堤防道路を溯る
以前にも紹介したことがある川魚料理「魚信」、川水を引いた生簀で泳ぐ色々な川魚を手際よく捌いて供される新鮮な川魚料理は、今ではもう木曽三川ツーリング定番の食事処となった感がある。 そして、田舎の親戚に遊びに来たような店の雰囲気だけでなく、昭和の物価を思わせるリーズナブルな価格設定は、子供時代にタイムスリップしたような錯覚を覚えるのだ。
木曽三川ツーリング定番の食事処になった感のある川魚料理「魚信」
川魚料理「魚信」の庭先で泳ぐ”鯉のぼり”ならぬ”鰻のぼり”(笑)
この日注文したのは、うな重(肝吸い付き)2,000円也と鯉の刺身400円也。 このご時世、多少の値上げを経てこの価格は、全くもって破格の安さではなかろうか。
そして、表面を香ばしく焼かれたうなぎの身はふっくら、甘めだがさっぱりしたタレでいくらでもいただけて、滋味深い大ぶりの肝が入った上品な吸い物との相性も良い。 そして、さっぱりとした酢味噌でいただく新鮮で食感の良い刺身は、甘辛くて食べ応えのあるうな重の口直しに丁度良かった。
ツーリングをレポートするにあたり、できるだけ新しい美味いものを紹介したいところだが、木曽三川を訪れるツーリングではこの食事処が定番になりそうである。
ふっくら香ばしいうな重(肝吸い付き)2,000円也と滋味深い鯉の刺身400円也
木曽三川の輪中地域の食文化とも言える川魚料理を堪能すると、腹ごなしに輪中の暮らしや地勢的な特徴を伝える展示施設を訪れることにした。 そしてまず立ち寄ったのは、愛知、岐阜、三重にまたがる国営木曽三川公園の中心にある木曽三川公園センターである。 木曽三川公園センターには、65mの高さから木曽三川を一望できる展望タワーや、明治時代の輪中の暮らしを再現した輪中農家などの展示施設がある。
さて、木曽三川公園センター駐車場に相棒を停めると、まずは改修工事を終えた展望タワーに登ってみることにした。 大人630円也(JAF会員割引あり)の利用料は少しお高い気もするが、木曽川、長良川、揖斐川が並行して伊勢湾に流れ込む様を一望することができる。 あらかじめ、宝暦治水や明治治水など分流工事の歴史を学び訪れると、木曽三川が入り乱れたかつての輪中地帯の姿を想像しやすいかもしれない。
木曽三川公園センター展望タワー、利用料630円也で木曽三川を一望できる
展望タワー足元から宝暦治水で薩摩藩士が築いた油島締切提が続く
また木曽三川公園センター内には、明治中期の比較的豊かな輪中の農家が再現されている。 集落や耕地を堤で囲った輪中だが、その輪中堤が切れて洪水が発生することも多かったらしい。 この輪中農家の展示では、母屋、水屋、上げ舟等、頻発した洪水をやり過ごすための知恵を知ることが出来る。
長島一向一揆が発生した戦国時代には、そんな輪中の暮らしも確立されておらず、頻繁に洪水に見舞われるタフな生活環境と引き換えに、一向宗門徒は独立した自治を保っていたのであろう。 他人事の様に語っているが、地震や津波、集中豪雨に水害、災害まみれの日本列島ゆえ、我々もそれを前提にした暮らしを考える時期に来ているのかもしれない。
南北に洪水が流れ抜ける母屋、汚れても家自体が壊れぬ工夫
石垣の上に立つ水屋、食糧や生活必需品を備蓄した洪水避難所
洪水時の避難に備えた上げ船、避難生活が長引くと食料調達に出かけた
洪水の際、滑車で二階に引き上げられた上げ仏壇
木曽三川センターでの見学を終えると再び長良川大橋を渡り、いよいよ長島一向一揆の主戦場となった三重県桑名市長島町へと下ることにした。
そしてまず立ち寄ったのは桑名市長島町が輪中の暮らしや文化を紹介した「輪中の郷」、入館料は大人460円也。 正直なところ展示施設の寂れ感は否めぬが...長島一向一揆についてもその経緯が詳しく解説されており、史跡巡りのツーリングの行程に組み込めば、大規模な一揆の背景やその経緯などさらに理解が深まるかもしれない。
三重県桑名市長島町「輪中の郷」、輪中の暮らしや文化が紹介されている
輪中の郷の展示で、長島一向一揆の解説に添えられた当時の地図を見ると、木曽三川が入り乱れた輪中の集まりだった地形が良くわかり、”長島”の由来が”七島”であったこともうなづける。 そして、一揆勢が籠城した長島城、屋長島城、中江城など、自然の川や堀に守られた水城だったことも見て取れる。
また、輪中の農耕地を再現した展示では、”堀田”や”くね田”と呼ばれる土を掘りあげた田畑の模型があり、土が掘られた水路を船で移動する農作業の様子も写真展示されていた。
それらの展示を見学していると、難攻不落の水城に籠城し、河川や水路を船で移動し神出鬼没のゲリラ戦を仕掛ける一揆勢に、輪中の地形に不慣れな織田勢が苦戦したことが容易に想像できるのである。
長島一向一揆当時の地図、木曽三川が入り乱れた輪中の特徴がよくわかる
輪中特有の”堀田”や”くね田”、船を操る農作業の様子も展示されている
輪中の郷の見学を終えると、桑名市に合併統合された旧長島町内を南下し、いよいよ長島一向一揆勢の中心拠点となった長島城跡にたどりついた。
現在の長島城跡は、長島中部小学校と長島中学校の敷地になっており、残念ながら一向一揆当時の様子を伝える遺構はほとんど残っていない。 ちなみに城跡近くの蓮生寺には、長島城から移築された大手門が現存している。 また長島中部小学校内には、本丸内に植えられていたされる樹齢三百年を越える大松が残っており、桑名市の天然記念物に指定されている。
実際に長島城跡を訪れてみると、城跡の東側に水掘りを思わせる長島川が流れており、わずかながら難攻不落だった水城の雰囲気を感じることができるだろう。 また城跡脇に立つ案内板には、当時の縄張り図が掲示されているので、その妄想の手助けになるかもしれぬ(笑)。
ここで改めて、長島一向一揆の経緯を振り返ってみると...
1570(元亀元)年、本願寺顕如の指示に応え蜂起した長島の一向宗門徒は長島城を奪い、以降この城が打倒信長を掲げる長島一向一揆勢の中心拠点となった。 また、古木江城を攻略し信長の実弟信興(のぶおき)を自害に追い込んだことは前述の通りである。
翌1571(元亀2)年、近江の浅井・朝倉氏との戦いで優位に立ち背後の憂いを断った信長は、満を持して一回目の長島侵攻に乗り出している。 しかしその結果、水郷輪中のゲリラ戦に苦戦した織田勢は撤退を余儀なくされ、殿を務めた柴田勝家は手傷を負い、美濃攻略の立役者氏家卜全が討ち死することとなった。
さらに1573(天正元)年、浅井・朝倉氏を滅亡さた信長は、さらに増強した軍勢で二回目の長島侵攻を敢行する。 しかし、前回と同じく長島城攻略には至らず退路を待ち伏せされ、殿を務めた林新次郎など多くの家の子郎党を失った
そして1574(天正2)年、浅井・朝倉氏滅亡に加え、三方ヶ原の戦いで家康を下し進軍中の武田信玄が死去、信長に反旗を翻した将軍足利義昭を京都から追放した。 その包囲網の崩壊を背景に信長は、織田家最大の大軍をひきいて三回目の侵攻に乗り出した。
その結果ついに、巨大な安宅船を投じた大水軍で水上の補給路を断ち、兵糧攻めで長島城に籠城した一揆勢を降伏に追い込むことに成功したのである。
しかし...”根切”を目論む信長は投降した一揆勢を銃撃して捨て身の反撃を食らい、庶兄である織田信広や弟の織田秀成など、多くの織田一族が戦死する結果になってしまった。 それに激怒した信長は、一揆勢が逃げ込んだ屋長島城、中江城を幾重にも封鎖して火を放ち、二万人もの男女が焼き殺される凄惨な結末になってしまったのである。
凄惨な戦いの場となった長島城跡、現在の小学校校庭には本丸の大松が残るのみ
蓮生寺に移築された長島城大手門、凄惨な結末を知ると遺構も重たく見える
長島城跡を後にして、長島城大手門が移築された蓮正寺を経由すると、長島一向宗門徒の信仰の中心だった長島山願證寺を訪れた。 伊勢長島だけでなく、尾張、美濃の信長に反抗する土豪、戦いに敗れた戦国の大名や国侍など、数多くの反信長勢が願證寺の下にやってきて戦いに加わったのである。
これまでも、水郷輪中の地の利を生かした一揆勢の戦術的な強さに触れてきた。 しかし、信長にとって本当に怖かったのは、「進者往生極楽」「退者無間地獄」の昇旗を掲げ、死を恐れず戦い続ける信仰の力だったのだろう。 信長が「第六天魔王」を自称し、阿弥陀様にマウントを取ろうとまでしたのは、その恐れの裏返しだったのかもしれない。
境内には”長島一向一揆殉教者の碑”が建立されており、戦乱の世で明日の生活もままらなず、来世に救いを求めるしかなかった人達の冥福を祈り願證寺を後にした。
一向宗門との信仰の中心だった長島山願證寺、信長に反抗する武士も数多く集まった
願證寺境内に建立された”長島一向一揆殉教者の碑”に手を合わせる
長島山願證寺を後にすると国道1号を桑名方面に走り、伊勢大橋で長良川と揖斐川を渡った。 国道23名四国道で名古屋方面への帰路に着く前に、揖斐長良川西岸を下った桑名城跡に立ち寄る算段である。 その道中で広大な河口を臨んでみると、信長が攻略に手を焼いた輪中の島々や、そこに築かれた水城が目に浮かぶようになった。
揖斐長良川西岸から広大な河口を望み、信長の支配が及ばぬ輪中の島々を想像する
現在の桑名城跡は、陸海の交通の要だった旧桑名宿に隣接しており、初代桑名藩主となった本多忠勝が整備した城跡である。 本丸及び二之丸跡は九華公園として整備されており、徳川四天王の一人だった本田忠勝の銅像が建っている。
初代桑名藩主として桑名城を整備した、徳川四天王本多忠勝の銅像
本多忠勝が整備した桑名城は、揖斐川沿いに城郭を築いた水城で、揖斐川から出入りできる堀には数多くの櫓を備えていた。 現在は当時の建造物は残っていないが、七里の渡しに入る船を監視していた蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)が、水門の管理棟として再現されている。
揖斐川河口から船で攻め込んだとしても、櫓から狙い撃ちにされていたことは想像に難しくない。 逆に船上から銃を撃つには狙いが定まらず、火縄が濡れれば銃撃も間々ならなかったのかもしれぬ。 また、潮の干満の影響を熟知していなければ、堀を攻めるのも退却するのも難しかったであろう。 能天気なツーリングに興じる親父からみても、例を挙げればキリが無いほど水城の攻略は難しそうなのである。
揖斐長良川に直結した桑名城の堀、七里の渡しを監視する蟠龍櫓が再現されている
北大手橋から桑名城三之丸掘を眺める、干満の影響を受ける水城の堀
さて桑名城跡を後にすると、さらに揖斐長良川堤防沿いを南下して、国道23名四国道を経由して名古屋方面への帰路に着くことにした。 名古屋市内から往復100km程度のショートツーリングだったが、長島一向一揆の史跡を巡る密度の濃い旅となった。
冒頭にも書いたが、これまで戦国大名同士の戦いの痕跡をたどることが多く、一向一揆の史跡をめぐるのは初めてのことであった。 今回長島一向一揆の経緯をたどってみると、領主に待遇改善を訴える一揆のイメージとは異なり、戦国大名をガチに倒しに行く戦いであったことが分かった。
そしてその戦いは信長の経歴において、最も大きなダメージを与えたのではなかろうか。 実際のところ三度に渡る長島侵攻で、多くの重鎮や織田家武将を失っていたことに驚いた。 そのせいで信長は、天下布武を目前に明智光秀の裏切りで没し、豊臣秀吉に簒奪を許すことになったと言っても過言では無かろう。
また、数万の門徒を虐殺した信長の行動には、反面教師として学ぶことも多い。 何か成し遂げたいことがあるならば、重要なステークホルダーの共感を得るコミュニケーション力と、その努力が必要であることを改めて認識した。 戦略や戦術云々を言う前に、周りににどう思われようが気にしない信長には、そもそもその能力が欠落していたのかもしれぬ。
ツーリング情報
服部家住宅 愛知県弥富市荷之上町石仏419番地 (電話)0567-65-4355(弥富市教育部)
古木江城跡 愛知県愛西市森川町村仲
川魚料理「魚信」 岐阜県海津市海津町万寿新田7 (電話)0584-54-5225
木曽三川公園センター 岐阜県海津市海津町油島255-3 (電話)0584-54-5531
輪中の郷 桑名市長島町西川1093番地 (電話)0594-42-0001
長島城跡 桑名市長島町西外面2175番地
蓮正寺 桑名市長島町又木77-1
願證寺 桑名市長島町又木181-3 (電話)0594-42-2550
桑名城跡(九華公園) 桑名市吉之丸5-1 (電話)0594-21-9932
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