2021/05/06 木曽三川/名古屋港産業遺産ツーリング(日光橋食堂、丸八)



 愛知県の製造品出荷総額は48兆7,200億円(2019年工業統計)、その額は全国の約14.7%を占めており日本一のモノづくり県と呼ばれる所以である。 そして、製造品の輸出や原材料等の輸入を担う名古屋港の取扱貨物量も日本一となっている。

 そこに至る道のりは、肥沃な濃尾平野と伊勢湾の水運に支えられた尾張の経済圏が、織田信長から豊臣秀吉に続く全国統一の後ろ盾になった戦国時代にまで遡る。 そして江戸時代に入って世の中が安定すると、木曽三川の治水工事や名古屋城を中心にした水運インフラの整備が始まり、明治から昭和へと続く産業発展の礎が築かれていった。

 今回のツーリングは、日本一のモノづくり県の暮らしや物流を支えてきた、木曽三川から名古屋港周辺の産業遺産を巡る旅である。 旅の起点は愛知・岐阜・三重県境に位置する油島千本松締切提、幕命を受けた薩摩藩が大勢の犠牲を払い築いた堤防である。

 油島千本松締切提の治水神社から河口へと、堤防道路沿いに木曽三川の治水と水運の歴史をたどり、国道23号名四バイパスに乗って名古屋港へと向かった。 その後は名古屋港沿いに、愛知の産業を支えてきた運河や鉄道、そして発電や製鉄所などの産業インフラの歴史をたどり、折り返した常滑では常滑焼と鉄道整備の意外な関係を知ることとなった。

 産業遺産を通じて、わらしべ長者的に発展してきたモノづくり愛知の歴史を知り、バラバラに見えていた景色の意外なつながりを学ぶ旅、まるで六十にして耳順うべき還暦親父の社会科見学である(笑)。 コロナ禍の移動自粛がなければたどることは無かった地元街中のツーリング、走りごたえのある峠道には期待できないが、新しい旅のバリエーションが加わった気がする。

 あっ、言い忘れたが、遠出は自粛できても食欲は自粛できず(笑)...ワインディングで加速できぬ反動で還暦親父の食欲は加速し、走り出しの名四バイパス沿いの食堂でスタミナ朝食、走り終える常滑の食堂で満腹昼食と、昭和親父の琴線を刺激する食堂飯三昧の旅となった。


ルート概要

油島千本松締切堤(治水神社)-県125→立田大橋西-県168→船頭平閘門-堤防道路(長良川東岸)→伊勢大橋東詰(国1)-堤防道路→長良川河口堰-堤防道路(揖斐/長良川東岸)→長島スポーツランド-国23→梅之郷IC(日光橋食堂)-国23→寛政IC-側道→中川運河(中川口通船門)-県227→名古屋港跳上橋→築地口IC-国23→竜宮IC-県225→船見町-県225→伊勢湾岸道名港潮見IC(名古屋港9号地南提)-県225→船見町-県55→新宝町-国247→奥条7丁目-県34→INAXライブミュージアム-県34→市場-県252→丸八→市道→本郷南(県247)-市道→セラモール(とこなめ焼卸団地)-知多広域農道(味覚の道、知多満作道)→佐布里緑と花のふれあい公園(佐布里池)


ツーリングレポート

 ゴールデンウイークも終盤、夏の始まりとなる立夏を迎えるも、雨模様の天気予報に友人達と予定していたツーリングをキャンセル...がっ、しかし当日になると、予報に反して夏らしい青い晴天が広がった。 梅雨入りを間近に控えるだけでなく、新型コロナウイルス感染症の緊急事態が宣言されそうな雲行きである。 この機を逃してしまうと、しばらくは乗れない日々が続いてしまいそうだ。

 友人達との旅を仕切り直すか否か悩ましいところだが、貴重な時間のやり繰りに長けた大人のバイク仲間である、既に立て直したであろう予定を覆すのも無粋だろうと、独りふらっと走り出すことにした。 後日談ではあるが、皆それぞれに好き勝手に走り出していたのは想定通り(笑)。

 そして、ソロツーリング先として思いついたのが、木曽三川から名古屋港の水辺をたどり、モノづくり愛知を支えてきた産業遺産を巡る旅である。 初夏のツーリングらしく水辺の旅を装っているが、フムフムと蘊蓄を蓄えながら徘徊する各駅停車の旅、初夏の峠道で爽快なライディングを期待する友人を巻き込むには申し訳ないソロ企画となった。

 さて、ツーリングの起点となった油島千本松締切提は、1754~1755年(宝暦4~5年)に幕命を受けた薩摩藩が施工したもの。 薩摩藩は現在の貨幣価値にして約300億円の資金繰りを強いられ、工事完了後も借金の返済に苦しむこととなった。

 また、工事には総勢約1000名の薩摩藩士があたり、理不尽な幕命に抗議した藩士51名が自害、劣悪な工事環境で33名が亡くなった。 そして工事後には、薩摩藩の総指揮をとった家老平田靱負も、膨大な負債と犠牲を出した責任をとり自害している。

 締切提北端の木曽三川公園センター付近には、薩摩藩士が工事完了を記念して植えた千本の日向松並木が続き、200年を越えた歴史を感じさせる枝ぶりを見せている。 そして、その千本松原には、1938年に地元浄財で建立された治水神社があり、平田靱負が治水の神として祀られ、犠牲となった薩摩藩士達が供養されている。

 現在は只々爽快な堤防道路だが、長良川、木曽川、揖斐川が網状に流れ伊勢湾に注いでいた時代、増水のたびに流れを変える大河の、人手による分流工事の過酷さは想像に難くない。 ツーリングの始めに治水神社に参拝し、犠牲となった薩摩藩士の冥福を祈り、水辺をたどる旅の無事をお願いすることにした。

 岐阜県と鹿児島県は、この宝暦治水の縁で1971年に姉妹県盟約を締結しており、様々な文化交流や災害時の相互支援などが続けられている。 今更ながらではあるが、木曽三川が流れる濃尾平野はその名のごとく美濃と尾張にかかる平野であるが、現代の尾張国(愛知県)が美濃国(岐阜県)と薩摩国(鹿児島県)の友好に立ち入れない根深い事情があることをあらてめて知る。

 宝暦治水から150年ほど遡った1609年、木曽川東岸に約50kmにわたる御囲堤(おかこいづつみ)」が築かれていた。 御囲堤は、西国の侵攻を防ぐとともに御三家尾張を洪水から守る目的に築かれた堤防である。 美濃国側は堤防を三尺(約1m)低くすることを強いられ、度重なる洪水に苦しみ続ける事となった。 美濃の輪中文化が発達した背景には、御三家親藩ふくむ譜代と外様の力関係があり意外に根深いのである。

 その後、外様薩摩の藩力を削ぐことを目的に命じられた宝暦治水であろうが、その治水工事に犠牲を払った薩摩と、洪水から救われた美濃の友好が、現代まで受け継がれている訳である。 できれば、現在の尾張国への恨みつらみは、木曽三川の水に流してくれたと願うばかりである。


 さて、油島千本松締切堤で治水神社の参拝を済ませると、長良川大橋で長良川を渡り長島の輪中地域へと下って行った。 そしてまずは、1887~1912年(明治20~45年)の木曽三川の分流工事の産業遺産、水位差が生じる長良川と木曽川間の舟運確保のために設けられた船頭平閘門に立ちよることにした。

 この明治の治水工事で全長12kmの木曽川長良川背割堤が築かれ、木曽三川河口付近は完全に分流されることとなった。 その当時、流域の米や木材は木曽三川の水運で桑名などに集められ、伊勢湾から全国市場に送られており、分流後に木曽川と長良川を移動できる閘門の建設は必須だったのである。

 船頭平閘門は日本初の複閘式閘門で、国の重要文化財に指定されている。 1993年(平成5年)に鉄製からステンレス製に改修され電動化もされたが、建設から1世紀余を経た現在も現役で稼働し、かつての水運物流を今に伝える貴重な産業遺産となっている。

 1902年(明治35年)の船頭平閘門完成後、ピーク時には年間2万隻を超える船、年間一万枚を超える筏に利用されていたらしい。 しかし、1933年(昭和8年)に尾張大橋、昭和9年(1934年)に伊勢大橋が完成して陸上物流が主流になり、現在では荷物を積んだ船の利用は無くなり漁船や観光船の利用がほとんどらしい。

 閘門水路に架かる立田小橋から船頭平閘門を見下ろすことも出来るが、船頭平河川公園に立ち寄れば、分流工事を計画し30年に渡る滞在で工事指揮をとった、オランダ人技師ヨハネス・デ・レーケの銅像や、平成の改修で交換された巨大な鉄製閘門なども見学できる。

 船頭平閘門から長良川東岸の堤防道路に走り出すと、長良川の穏やかな流れに沿って河口へと下って行った。 コロナ禍の影響で暮らしの景色は大きく変わってしまったが、堤防沿いに広がる初夏の風景は何も変わらない。 子供の頃寝転がった筑後川の土手を想いだし、一刻も早いコロナ禍の収束を願いながら、のたりのたりと走り続ける。

 その後、堤防道路で、東名阪自動車道、JR関西本線、近鉄名古屋線をくぐり、そして国道1号線と交差したところで、長良川河口堰の巨大な調整ゲートが目に留まった。

 昭和から平成にかけて構想、建設された長良川河口堰は、治水と利水を目的にした長良川本流初となる河口堰である。 長良川の氾濫を防止するために川底を掘り下げ、海水の逆流による農作物への塩害を防止するため河口堰が必要。 また、堰き止められた淡水を工業用水の将来需要と生活用水の安定供給に活用できる、というのが河口堰建設の大義である。

 計画当初から、漁協や自然保護団体から始まった大規模な反対運動がおこり、大型公共事業のありかたが議論されるきっかけともなった。 1968年(昭和43年)に建設が決まり、その後事業差止め訴訟を受けながらも勝訴し、1995年(平成7年)から本格運用が開始されている。

 建設の前提となる環境保全のため、河口堰は二段式のゲート構造を有し、堰に流れてくる水量と堰下流の水位によって、ゲートの上を流す水量と下を流す水量が、別々に制御できるようになっている。 また、多様な魚類が遡上できるように三種類の魚道が設けられている。

 運用開始後には川底を掘り下げる浚渫工事がなされ、ゲートの全開操作と合わせて洪水時の水位を下げる効果が確認されている。 しかし、環境や生態系への影響や利水需要の有無に関しては意見が分かれ、運用開始から25年経った現在でも運用方法に関する議論が続いているの実情である。 長期の開門調査の案も出ているが、河口堰上流の農業への塩害被害を懸念する声も根強い...

 その状況には、平行線をたどるイデオロギーのやりとりに膨大な時間を要し、成り行きの先に後世に残すべき大切なものを失う構図が見え隠れする。 政治には国全体と将来まで俯瞰した迅速な判断を導き出してほしいところである。

 リスクゼロを追い求めて結果的に犠牲が大きくなる状況は、諸外国に後れを取る我が国のコロナ禍施策にも共通するような気がする。 平和ボケとは考えたくないが、環境やパンデミック、そして有事等々、国の存続にかかわる課題に関して、迅速な判断のよりどころとなるイデオロギー整備と、犠牲最少化を見積もる危機管理機能の必要性を強く感じる。

 いやはや、バイク親父のお気楽極楽なツーリングレポートのはずが、真面目な社会科見学レポートの様を呈してしまった(笑)。 まあ、旅で出会った景色を切り取って深堀してみるのも一興、河口堰建設の背景を把握して訪れると、巨大なコンクリートの塊が色々と溜まったものを語り出してくれるかもしれない。

 長良川河口堰を後にして堤防道路に復帰すると、突き当たった国道23号名四バイパスに乗り、いよいよ名古屋港にむけて走り出した。 名四バイパスは、名古屋港と四日市港の臨海工業地帯を結ぶ大動脈、流通を担う大型トラックが目立ち相変わらずの交通量だが、車線変更もほどほどに流れに乗って移動する。

 さて、長島輪中から名四バイパスに乗って直ぐに木曽川を渡ると、尾張の田園地帯と名古屋港の臨海工業地帯が混在した景色が広がる。 そして、飛島村の梅之郷インターに差しかかったところで、早朝から営業する日光橋食堂に立ち寄ることにした。

 1965年(昭和40年)創業の日光橋食堂、昭和の香りを残したまま二代目店主が営む食堂は、長距離トラックのドライバーや名四バイパス沿いの臨海工業地帯で働く人達に、白飯がすすむメニューを供する大衆食堂である。 ガッツリと食堂飯を食らうと腹を決めての走り出し、昭和の懐古癖がある親父の頭にいの一番に浮かんだ店。 食堂の外壁に巨大な”めし”の文字、それを目にしただけで昭和親父の胃袋が動き出す(笑)。

 名四バイパス梅之郷インター手前で側道に逸れると、トラックが並ぶ駐車場の端にZX-6Rを停め、窓全開で懐かしい扇風機が首を振る店内に入った。

 テーブルに落ち着き冷たい麦茶で喉を潤すと、創業時から店を切り盛りする大女将に、スタミナ定食800円也の注文を告げた。 ハムエッグ定食など、ワンコインで腹を満たせる朝食メニューも用意されているが、早朝からフルスロットルで食堂の看板飯を食らう。 お母さんから、大盛り飯にしなくて良いのかと念を押されるが、そこは危険な香りを察知してスロットルを戻すへたれ親父(笑)。

 程なく注文したスタミナ定食が運ばれてくると、鉄板でタレを纏った豚肉と野菜がシズル感を振りまき、予想通りのどんぶり飯とどんぶり味噌汁が脇を固める。 大盛り注文を思い止まり良かった、っと、満腹事故を回避した己の危険予知能力を自賛する(笑)。

 説明不要、見た目通り、甘辛味噌の鉄板焼きにどんぶり飯がススム、ススム。 脇役ながら、豚汁と見紛う具だくさんの味噌汁の美味さが際立つ。 出汁の旨さや塩加減など汁物が旨い食堂に外れ無し。 こんな店がうちの近所にあればいいのになぁ、などとつぶやきながら、食堂めしで満たされた胃袋と共に日光食堂を後にした。


 梅之郷インターから名四バイパスに駆け上がると、日光川、新川、庄内川、さらに荒子川を渡り終え、寛政インターからバイパス側道へと駆け降りた。 そして、そのまま道なりに側道を進み、程なく目的の中川口通船門に突き当たった。 1930年(昭和5年)に建設された中川口通船門は、水位が異なる名古屋港と中川運河の間で、船を通航させるために建設された閘門である。 中川運河と中川口通船門についてレポートする前に、名古屋の水運と産業発展の歴史について触れておきたい。

 関ケ原の戦いに勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、大阪城に残る豊臣秀頼勢との戦いに備えて、1610年に名古屋城の築城と水難に弱い清須城からの遷府を命じた。 豊臣方大名による公儀普請で1615年に完成した名古屋城は、豊臣家が滅亡した大阪冬の陣、夏の陣出兵の拠点となり、その後は徳川御三家尾張藩の居城として明治維新を迎える。

 現在まで続くモノづくり愛知の発展は、名古屋城や城下町建築資材の運搬用運河として、名古屋港の前身熱田港まで堀削された堀川(全長6,200m)から始まる。 御三家尾張藩には木曽山林と木曽川が直轄として与えられ、堀川周辺は木材の製造・加工・流通の一大拠点となる。

 そして、明治時代に入ると木製動力職機の実用化が繊維産業や機械産業の源流となり、大正時代には木材の加工・合板技術が航空機産業発展のきっかけとなり、昭和時代には繊維産業から現在の主力自動車産業へと繋がって行った。

 そんな産業の発展を支える物流インフラも、時代に応じて移り変わっていった。 1896年(明治29年)に遠浅で大型船の入港が出来なかった熱田港の浚渫工事が始まり、1907年(明治40年)に熱田港から名古屋港に名称変更された。 一方で、1889年(明治22年)に東海道本線が全線開通し、大正から昭和にかけて鉄道輸送が本格化する。 そして、旅客と貨物を扱っていた名古屋駅の機能は飽和し、1937年(昭和12年)に笹島駅が貨物駅として分離された。

 1932年(昭和7年)に全線開通した全延長約8.2kmの中川運河は、整備された名古屋港と旧国鉄笹島貨物駅を結ぶ水運物流を担い、名古屋周辺の経済と産業の発展を支えてきた。 昭和39年に水運利用のピークを迎えたが、貨物輸送がトラックへと変化したことなどから、貨物輸送量はピーク時の1%、船の往来は数隻程度になっているとのことである。

 中川口通船門には中川口緑地が整備され、名四バイパス高架の下に中川通船門を眺めることが出来る。 かつての水運物流を担った産業遺産に、それを不要にした基幹道路がまたがる構図は、何かを象徴しているようで感慨深い。 完成時の第一閘門は閉鎖されているが、最盛期に増設された第二閘門は稼働しており、運が良ければ通船に伴う閘門の開閉を見学できるかもしれない。

 中川口通船門を後にすると、通船門下流の中川橋で中川運河の対岸へと渡り、ガーデンふ頭に立ち寄ることにした。 名古屋港水族館をはじめ多くの観光施設が揃う埠頭だが、産業遺産の社会科見学に興じるバイク親父のお目当ては”名古屋港跳上橋”である。

 名古屋港跳上橋は、紡績産業発展による臨海鉄道名古屋港線の延長に伴い、1927年(昭和2年)に中川運河と堀川の連絡運河に架設された。 その後の鉄道輸送需要の低下により、1980年(昭和55年)に名古屋港線が廃止になると、桁を跳ね上げた状態で保存されることになった。 現存する国内最古の跳ね上げ橋は、国の登録有形文化財、経済産業省認定近代化産業遺産に指定されている。

 使われなくなった運河は各所で埋め立てられ、臨海鉄道跡地は商業施設などに生まれ変わり、その痕跡を探すのも難しくなってきたが。 ここ、名古屋港跳上橋は、モノづくり愛知の産業リレーを繋いでくれた、水運と鉄道の痕跡を同時に眺められる場所である。 

 名古屋港跳上橋をしばし眺めガーデンふ頭を後にすると、一旦名四バイパス築地口インターに駆け上がり、堀川を渡って直ぐに竜宮インターから駆け降りた。 そして、竜宮インター出口交差点で右折し、名古屋港東岸沿いの県道225を南へと下って行く。 

 次に立ち寄るのは潮見ふ頭、名古屋周辺地域へのエネルギー供給基地である。 名古屋港に石油類を収容する施設がなかったことから、1930年(昭和5年)に危険物取扱区域として埋め立てが始まった。 そして、1961年(昭和36年)に完成した広大な潮見ふ頭には約80万キロリットルの石油類が貯蔵され、名古屋市唯一の火力発電所である新名古屋発電所が、高効率なLNG発電を行っている。

 県道225が舟見町交差点に差しかかったところで右折し、道なりに潮見橋を渡って潮見ふ頭にたどり着いた。 潮見橋を渡って直ぐ右手の新名古屋発電所の冷却水排水溝脇では、季節ごとの草花を鑑賞できるガーデニングパーク、ブルーボネットが営業している。 むさ苦しいバイク親父が、イングリッシュガーデンを眺めながら午後のお茶をすする絵面は想像できずそのままスルー(笑)、潮見ふ頭に立ち寄った目的の南提にむけて走り続ける。

 広大な埠頭の中心を走り貫けて行くと、LNGの燃焼熱と膨張力で発電するコンバインドサイクル発電の、まるで巨大ビルのような二本の白い煙突が現れ、そして伊勢湾岸道が名古屋港を飛び越える名港トリトンの全貌が見えてくる。

 今更ながらではあるが、1998年(平成10年)に完成した名港トリトンは、伊勢湾岸自動車道が名古屋港を飛び越える三連つり橋の愛称で、西から名港西大橋、名港中央大橋、名港東大橋で構成される。 潮見ふ頭には、名港中央橋と名港東大橋の中継地として、名港潮見インターが設けられている。

 名港潮見インターゲートの脇を抜けて、名古屋港上空を遥か東西に延びるつり橋を見上げると、改めてその巨大な構造物の迫力に圧倒される。 工場の搬入出口に横付けして積み込んだ貨物を、そのまま港を飛び越えて各地へと運ぶトラック輸送に、風情のある運河や鉄道輸送が置き換えられるのも仕方がないのかと腑に落ちる景色である。

 名港トリトンの足元を潜り潮見ふ頭南端に突き当たると、道路わきの駐車スペースにZX-6Rを停めて名古屋港を臨む海辺へと歩き出した。 そして、埠頭周辺を囲う高さ6mの防潮壁へのスロープを上ると、いよいよお目当ての景色、対岸の東海市で操業する名古屋製鉄所を望むこととなった。

 敷地面積632万㎡(名古屋ドーム 131個分、東海市の約15%)を有する巨大な製鉄所は、中部経済圏唯一の銑鋼一貫製鉄所として、自動車をはじめ電気、産業機械などのモノづくり産業を支えている。 1958年(昭和33年)に東海製鉄(株)として設立され、その後幾度かの合併・社名変更を経て、現在は日本製鉄名古屋製鉄所として稼働を続けている。

 昭和親父がなぜこの景色に魅かれるのか? 自分でも定かでは無いのだが、1000℃を超える炎を操り固くしなやかな鋼を生み出す技術に、日本古代から伝わるたたら製鉄と玉鋼を材料に鍛え上げられる日本刀の神聖なイメージがダブルからであろうか? 正直なところ、遠目には茶色いガラクタが寄せ集められた廃墟にも見えるが、茶色い鉄を還元製銑し、高純度の鋼塊に精錬し、高精度に圧延加工する、日本の高度な品質技術が詰まっていると思うと誇らしくもなる。

 日本製鉄は、コロナ禍による鋼材需要の急減を受けて複数の高炉で稼働を休止するようだが、名古屋製鉄所で製造する自動車用鋼板の競争力を高めるため、約490億円で高炉を改修すると報道されている。 新興国の台頭による厳しい経営状況は想像に難くないが、中部経済のみならず日本のモノづくりを支え続けてほしいものである。

 潮見ふ頭南提を後にすると、船見町へ折り返して天白大橋で天白川を渡り、流れの良い国道247で、東海市、知多市の臨海工業地域を駆け抜けた。 そして、いよいよ常滑市に入って中部国際空港への分岐をやりすごすと、常滑焼の古い町並みへと分岐し、目的のINAXライブミュージアムにたどり着いた。

 現在は朱泥急須が有名な常滑焼だが、実は明治以降の産業の発展には、土管の生産が大きく貢献していた。 芯まで固く焼しめる真焼の技術をベースに、丈夫な土管の大量生産を可能にした常滑焼は、1874年(明治7年)に鉄道の下に埋設される上下水道土管に採用された。 その後、鉄道網が拡張され、上下水道が整備されるたびに、常滑焼の土管の生産は伸びることとなった。

 1901年(明治34年)には、薪窯に比べて効率の良い石炭窯や、岩塩を石炭に混ぜるだけの塩釉技術が普及し、大正から昭和30年代にかけて全国シェアは3~5割を誇った。 最盛期の常滑には400本もの煙突が林立していたが、昭和40年代には土管に代わるコンクリートのヒューム管が普及し、昭和50年代には塩素ガスの排出規制も施行され、黒い煙を吐いていた煙突は消えていった。

 INAXライブミュージアムには、登録有形文化財・近代化産業遺産に指定された、1921年(大正11年)につくられた石炭窯と建物、煙突が公開保存されており、当時の常滑の街の様子もうかがい知ることができるだろう。 その他にも、世界のタイル博物館やタイルの絵付けが体験できる工房など、土と焼き物をテーマにした6つの施設があり、家族連れで訪れても色々な楽しみ方ができそうだ。

 INAXライブミュージアムで、日本の鉄道整備と常滑焼の意外な関係を知ると、かつての煙突が立ち並んだ景色を想い浮かべながら常滑の街へ折り返すことにした。 窯のある広場では文化財に登録された石炭窯と解説、当時の映像を見学し、世界のタイル博物館では、多種多様でデザイン性に富んだ世界中のタイルをじっくりと鑑賞し・・・お腹が空いてきた(笑)。 飛島村の日光橋食堂で腹一杯の朝食をいただいたのだが、脳を刺激する社会科見学はエネルギーを消費するらしい(再笑)。 早速、常滑の市街地を抜けるルートを確認し、昼食をとる食堂に向けて走り出す。

 そして、伊勢湾海岸線と幹線国道247との間を並行して走る県道252を北上し、中部国際空港への連絡道路と交差して道なりに少し走ると、榎戸漁港間近の県道沿いで営業するお食事処「丸八」にたどり着いた。 店内には生簀もあり、近隣漁港で揚った新鮮な地魚料理をいただける食堂、リーズナブルなランチメニューも充実している。

 相棒のZX-6Rを停めて店内に入ると、その日の仕入れに応じた定食メニューが、入り口近くのボードに掲げられていた。 女将さんに席に案内されながら、注文を告げる効率的なシステム(笑)。 お年頃の還暦親父ゆえに、ヘルシーな刺身定食や煮付定食を等をご飯少な目で...と注文すべきなのだろうが、ガッツリ食堂飯で街中ツーリングで得られぬライディング欲を食欲に転嫁したい親父は、この店で一番腹が膨れると勧められた、イカの天ぷら定食1,280円也を注文する。

 奥のカウンター席に案内され茶をすすっていると、程なく注文したイカの天ぷら定食が運ばれてきた。 確かにお勧め通り見事な盛りっぷり、丸ごと一杯であろうイカの天ぷらに武者震いする。 新鮮な魚が売りの食堂らしく、添えられたキンと角立つカンパチの刺身がありがたい。 そして、小鉢のポテトサラダに出汁の効いた味噌汁、香の物、王道定食のフルメンバーがどんぶり飯を囲む。

 躊躇なく、ジャブジャブとウスターソースを回しかけ、イカの天ぷらを口に運ぶと、新鮮なイカが手際よく揚げられたことをうかがい知れるプリンプリンの歯ごたえ♪ こりゃまた、ご飯がススムススム、外で待つ相棒の前傾姿勢に耐えられるか心配になりながらも、満足のゆく食堂飯を一気に平らげた。

 会計を済ませて駐車場脇で待つ相棒の元へ戻ると、膨れた腹が納まる姿勢を何とか見つけ、産業遺産を巡る旅最後の目的地へ走り出すことにした。 急な加減速は控えねば、エチケット袋が必要な大惨事を引き起こしそうだ。 確かにこの状態、ワインディングを食堂飯で補う走り出しの思惑通り、街中でアクセルを開けられぬストレスを感じることは無い(笑)。

 丸八から走り出して海岸沿いから外れると、常滑焼卸団地セラモールの裏手に抜けて、知多広域農道味覚の道(常滑市)、知多満作道(知多市)へと走り継ぎ、梅林で有名な”佐布里緑と花のふれあい公園”にある佐布里池にたどり着いた。

 佐布里池を名古屋港産業遺産を巡るツーリングの最終目的地に選んだのは、時代の変化とともに名古屋港周辺の産業や物流インフラが変化しても、木曽三川の水資源が現在の産業やそで働く人達の暮らしを支え続けていることを再認識したためである。

 佐布里池は愛知用水の工業用水調整池で、木曽川水系上流に築かれた、牧尾ダム、味噌川ダム、阿木川ダムに始まる愛知用水は、隣接する知多浄水場を経由して、日本製鉄名古屋製鉄所など名古屋港臨海工業地帯に送られている。 大量の冷却水を必要とする製鉄行程、メーカーの水資源有効活用努力で、約9割の工業用水が循環再利用されているが、モノづくりの基盤事業に水資源が欠かせぬことに変わりない。

 また、ツーリングの前半で立ち寄った長良川河口堰で生み出された真水は、1998年(平成10年)から名古屋港の海底を通って知多浄水場に送られ、知多半島の上水道として活用されている。 長良川河口での取水は木曽川上流での取水よりも水質が劣るなど、工業用水との活用の住み分けが議論されているようだが、生活用水の安定供給の必要性に変わりはない。

 今回のツーリングで、モノづくり愛知の産業の歴史をたどってみると、現在の発展が偶然湧き出た代物では無く、次の発展の種が時代ごとに受け継がれてきたことを知った。 多くは触れなかったが、国の鉄道構想や港湾構想とのしたたかな駆け引きが必要だったことも確かである。 これから後世にどんな発展悪種を引き継いでゆくのか、国にどんな影響力を発揮してゆくべきなのか...今時のグローバルでボーダレスな社会で、国を差し置き地方の行く末を案じている場合では無いのだろうが、そんな時代だからこそ世界市場で国を牽引してきたローカル産業の歴史に、日本が生き残るヒントが隠されているのかもしれない。

 っと、社会科見学の下りはここまで(笑)。 佐布里池周辺の短いワインディングを軽く流し、慌ただしく街中を駆けまわる旅を終え帰路に着くことにした。 コロナ禍の移動自粛要請でもなければ企画しなかったであろう県内ツーリングも、走り終えてみれば記憶に残る充実した旅になった。 でも、まあ、そろそろ、県境をいくつもまたいで、美味しい峠道や食堂飯をめぐる旅に繰り出したいところである。 梅雨明けと同時に新型コロナウイルスの感染騒ぎが収束することを願うばかりである。


ツーリング情報


治水神社  岐阜県海津市海津町油島無番地 電話(0584)54-5928


船頭平閘門  愛知県愛西市立田町 国営木曽三川公園 船頭平河川公園


長良川河口堰  長良川河口堰管理事務所


日光橋食堂  愛知県海部郡飛島村梅之郷中梅33-3 電話(0567)52-1867


中川口通船門  愛知県名古屋市港区中川本町5丁目


名古屋港跳上橋  愛知県名古屋市港区千鳥2丁目


INAXライブミュージアム  愛知県常滑市奥栄町1-130 電話(0569)34-8282


丸八  愛知県常滑市榎戸町5-36 電話(0569)43-6125


佐布里緑と花のふれあい公園  愛知県知多市佐布里台3丁目101  電話(0562)54-2911



3コメント

  • 1000 / 1000

  • とし

    2021.07.17 04:56

    そうでしたか。闘病頑張ってください❗️ ガンにはストレスが一番良くないと聞いたことがあります。自粛自粛でなかなかストレス発散とはいかない時勢ですが、寛解、完治することを祈っております。 こちらはあいも変わらず走り回っております。梅雨もあけたようなので夏本番、山ツーリング本番❗️と意気込んでます(`Д´)ノ 空回りしてトラブルにならないように気をつけないと(;'∀')
  • 晴れふら

    2021.07.17 00:17

    @とし おおっ、としさん、お久しぶりです、お元気ですか? コメントありがとうございます。 なかなか完治とはいかない病ではありますが、治療結果は順調で経過観察の身の上でございます。 色々と気づくこともあり皆さんの役に立つこともあればと、発症から治療までの経緯をどこかでお伝えしたいと思っています。  仕事の方は相変わらず我を忘れて楽しんでおりますが、在宅勤務で同僚とも顔をあわせることなく、時代遅れのハードロックイベントやら友人達との宴会も自粛、ツーリングやら旅先での飲食も制限され、一刻も早くコロナ禍が収束してくれることを祈るばかり。 乗り続ける事に意味があるってのは、なかなか深いフレーズだと再認識しております。  以前のレポートをどうしようかと思案しましたが、古い情報を整理し直す良い機会とおもい、思い出に残る旅先をアップデートして紹介しなおすことにした次第です。  
  • とし

    2021.07.13 07:03

    お久しぶりです。歳です。 ガンの方は完治したんですか? 仕事がお忙しそうですが、セーブできるところはセーブして、ご自愛いただきたいです。 還暦からが人生長いんですから笑 ホームページ引越しされたんですね。 以前のホームページはもう完全に閉鎖ですか? よく拝見させていただいていたので寂しい限りです( ; ; )